合気道について習熟・上達とは、国語辞典風に言えば、合気道の成り立ちと単独基本動作を十分に理解し、相対基本動作に慣れてそれを自分のものとし、良く出来ているということであろう。
単独動作呼吸法に注目すると、吐いた状態で陰でも陽でもない魂氣(吸い始めようとするとき)で取らす、あるいは打たす、または打たれると、接触から呼気で巡って吸気で陽の魂氣の後丹田に呼気で巡るという一呼吸で魂氣三要素を表現できる。または、接触と同時に一気に巡って陽として、速やかに吐いて丹田に結ぶ陰の魂氣とする。左右の上肢が陰陽でそれぞれに巡って三要素を表していく。互いの上肢が衝突しないで取りが巡っていくからには、接触とは必ずしも密着を示すものではない。しかし、結ぶことは本質的に一つとなることであり、一瞬でも密着して直接氣力が伝わるものでなければならない。
このような呼吸法が上肢の動作を可能にしていくのであるが、同時に足腰の基本動作が呼気で陰の体または転換、吸気で陽の体の後は呼気と送り足で残心という原則に則りながら、魂氣に密接に連動していく(結んでいく)ことが合氣において必須である(手足腰の一致)。
「自分のものとする」は、状況を問わず達成できるようになること、緩急の限界を極めることとも言い換えることができる。「良くできること」とは、途切れること無く、繋がりを意識させない一連の動作と呼吸で一つの技が結果的に産まれることであり、これが合気道である。
また、稽古を積んで慣れることとは、呼吸も動作も悉く基本に集注する結果、単純で迅速な動作と一定の目付に行きつくことである。従って、陰陽・結びの不明な動作、途切れる巡り、入り身・送り足・目付の不定、転換・置き換え・踏み替えの欠如、これらはいかに外見が迅速でも基本を伴わない動きの連続に過ぎない。
受けも取りと同等に相対動作を行わなければ技は成立しない。結びの無い受けとの間には取りの魂氣の要素が欠落し、足腰の動作が空虚なものとなり、そこで受け身をするのは偶発的でしかない。受けの必然を体現してこその受け身である。
普段の稽古のみならず昇級・昇段・指導・演武においては特に留意すべきことである。
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