*左右の巡りの度に正座に戻らず途切れない。地に結んだ受けの魂氣を直ぐに正面へ引き出して即座に結んで巡る。受けに氣の巡りの途絶(隙)を与えない。取りも氣の巡りが途絶えないようにする。
*裏は後ろ回転。魂氣を膝に置く単独動作と比較して、陽の陰で受けの手刀を取りの腰に巡り結ぶとたちまち難しくなる。(後ろ)回転の仕組みに立ち返るべきである。合氣道の回転とは上体のぶれを無くしながら一回転する事であり、そのために軸を次々と両足で交替する。つまり、軸足を作っては対側の足を置き換えてそれを一瞬軸足として元の軸足を浮かして回転することで踏み替えてもう一度軸足に戻り、更に対側をその場で浮かして再度踏み替える。
正面打ち裏で魂氣を腰に巡らせる間に、魄氣の回転軸の移り変わりの自覚が欠落すると、上体だけの回転と受けの手刀に繋がる魂氣にとらわれてしまう。後ろに小さく跳ね上げて対側の足下に降ろした足がすぐ一時的な軸足として重心を支えることを忘れ、両足を広げて踏ん張って立ち往生してしまう。小さく跳ね上げずに大股で後ろへ足を廻してしまうところに基本動作からの逸脱がある。合氣道の動作も静止もつねに片足が軸で対側は足先を置くだけ。何時どの方向へも進み退くことが出来るという特徴を忘れては行けない。股を広げて両足で立つことは魄を地に固着してしまい、常にもろく転げることにつながる。魄の保ちかたと立ち方を示唆された開祖のお言葉はこのことと無関係ではないと考えられる。動静一如とは、動作と静止が巡る中でその足腰の形と動きは一定しており、それぞれに異形の仕組みが在るわけではないということである。
*ピットフォールを後に記すと、四方投げの持ち方に無頓着であると手首をとっても魂氣が受けの上体に及ばず、更に自身の魂氣が額で魄氣に結べないで回ろうとすれば受けの体軸は揺らぐこと無く、取りの体が不規則に捻れ傾き相対動作が成り立たず技どころではなくなる。
*降氣の形から回外して陽の陰に開く時は受けの中心・顔面に向かう。
しかし、片手取り四方投げの際の取らせた手は降氣の形から回外と同時に脇を開くから二教の手となる。自身の面前で二教の手にすると、それを取っている受けの手は反屈となって取りの中心で面前に来るから、対側の手で四方投げの持ち方によって取り、取りの手背が額に着くから魂氣と魄氣が額で結び受けの魂氣も体軸とともに取りの中心に結んで取りに寄り添う。
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