技は相対としての動作である
合氣道は魂氣を天から受け、魄氣を地から頂き、丹田において結ぶことで生命をイメージする武技である。従って心身の動静はことごとく氣の思いで成立し、微細な部分にこそ不確かな動作や曖昧な思いが見え隠れしては、合氣によって武技が産まれることにはならない。
技を評価するにはその相対動作を見るべきであるが、それ以前に各人が単独動作の不備なきことを確かめねばならない。それは魂氣の動作と魄氣の動作より他なく、前者は上肢の動作、後者は足腰の動作と目付けに拠る体軸である。そして魂氣は単独呼吸法によって、魄氣は単独基本動作によりそれぞれの三要素を余すところなく習練し、いずれも呼吸との同期によって自然の営みへと取り込むことで体得することができる。
呼吸法とは呼吸と共に魂氣を陰陽に巡って氣結びを為す動作であり、左右の魂氣においても、互いの魂氣との間にも、また自身と互いの魂氣と魄氣の間にも、それはイメージして同時に動作されるのである。どことどこの筋力が正や負に働いてどのように動いたというような理解や評価は一連の技の中では現実的でなく、伝達に際しても困難である。
つまり、合氣道では力(筋力)という言葉と思いと動作はなく、上肢各部の緊張弛緩、伸展屈曲、陰と陽、上昇下降、回外回内が吸気と呼気によって示されるのであり、いずれも禊で受けた魂氣を巡らすことが動作の思いとなる。これを呼吸法という。魄氣の動作もそれにともなって陰陽、入り身、転換、送り足・退き足、前後回転が行われ、自然体の残心に巡る。氣結びを為して取りが上肢や体軸を受けと共に動かせば呼吸法の動作であり、互いに結んでいる間は、呼吸力によって自身と受けが動いたということになる。
身体の一部が互いに当たっているだけで、魂氣と魄氣それぞれの三要素を欠けば、呼吸力が受けに響くことなく、押し・引き・打・突の動作が取りから受けに及んで倒すことになる。
昇段審査や、指導あるいは公開での演武を見取り稽古する際には、その相対動作に内在する単独呼吸法と単独基本動作を透かして見るごとく感知しなければならない。互いにそのような評価に絶える稽古を持続しなければならないということを、自身も改めて覚悟する機会であった。
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