魄気の陰、つまり軸足を作って体軸を確立すると対側の非軸足は〝軽く半歩出し〟(p70)て、足先を地に置く。同側の手は掌に魂氣の珠を包んで下丹田に在るが、体軸に与ることなく呼吸と共に自在に魂氣を虚空へと発することができる。すなわち、手を伸展すると〝真空の気に結〟(p67)び、丹田や体側に巡って魄氣に結ぶと、同側の足は軸足に交代しており体軸に与ることとなる。これを〝空の気の結び〟(p79)と表現される。
今、魄氣の陰(〝三位の体〟p70)で非軸足先を進めながら下丹田に置いた同側の手で魂氣を発しようとする。受けはいち早く逆半身で横面打ちの動作を表す。このとき、受けの手刀の振りかぶりは魂氣の働きから見れば吸気に伴う広義の陽であり、緊張伸展である。
一方、取りの手は下丹田で魄気との結びを解き、開祖の言葉では〝空の気を解脱〟(p67)して呼気で掌に氣の珠を包み、弛緩屈曲している。
禊によって魂氣の陰陽という〝気の妙用〟(p85)つまり〝呼吸の微妙な変化を感得する〟(p86)ことにより、体軸に与らない手には〝神変なる身の軽さを得る〟(p105)。〝魄の世界を魂の比礼振りに直すことである〟(p149)。
母指先が同側の頸部を経て上丹田の高さへ昇るとき、同側の非軸足先が逆半身外入り身をすれば魂氣は陽の陽で受けの手刀の接点より中に入る。先手の気結びである。
また、受けの逆半身横面打ちで間合いが詰まったとき、取りの非軸足は受けの踏み込みに合せてその場で軸足へ交代すると、魂氣は上丹田にあって広義の陰で体軸に与り、上肢全体が鎬となる。対側の手は腰仙部で魄氣との結びが解けて、同時の振り込み突きで相半身内入り身運動を動作できる。
さらに間合いを詰めて受けが陽の魄気で地を踏んだなら、取りの異名側の非軸足でそこに軸足を作っても相半身内入り身は著しく遅れる。つまり、非軸足先は逆半身外入り身で進むことも、その場で地を踏むことも出来ない。自ずと外に置き換えて軸足とせざるを得ない。外転換である。上丹田に在る陰の魂氣(鎬)は同側の非軸足を外に置き換えると同時に外巡り(二教の手)で体軸から離れ、新たな非軸足側の魂氣が陰の陽(小手返しの手)で対側の頸部から顔を横に拭うような動作で巡ると、受けの手刀に陽の陽で結ぶことができる。後手である。
後手の場合に逆半身入り身を伴って外転換を試みると、明らかに間合いが詰まって捌き切れないばかりか、鎬の手もろとも側頭に受けの打撃を受けるだろう。
横面打ちには、先手、同時、後手のそれぞれの間合いで互いの魄気の結びを確実にする足腰の基本動作が必須である。それらが、逆半身外入り身、相半身内入り身、外転換である。いずれにしても、はじめに魂氣は陰の陽で上丹田に鎬として置く。単独呼吸法坐技の呼気相で上肢を畳んで側頸に母指先を向け、そこから外に回して前方に向けつつ上丹田に掲げる動作である。
〝気がまえが自由に出来ておらぬ人には、充分な力は出せません。空の気と、真空の気の置きどころを知ることが第一であります〟(p67)と、そして開祖は魂氣と魄氣のそれぞれ三要素を姿勢と動作に現すことが、〝自然の法則である〟(p105)と明言する。しかし、〝合気道には形はありません〟(p23)。〝形を出してからではおそいのです〟(p51)、と。
我々の基本動作が示す姿勢は自然の法則により体軸から解かれた〝魂の比礼振り〟(p26)を核心とするものであって、魄気と共に体軸に与るべき魂氣(手)を虚空に発することはできない。それは自由ではなく形を引き摺った姿勢である、と理解している。
〝右手をば陽にあらはし左手は陰にかへして相手みちびけ〟
広義の陽は吸気で虚空に発して円を描き、陰は呼気で丹田や体側の魄氣に結んで体軸に与る。
〝この左、右の気結びがはじめ成就すれば、後は自由自在に出来るようになる〟(p105)。
タイトル「魂の比礼振り19」から転載