ストローマン論法で批判に及ぶお方の心情は?
長年稽古をされて合気会合気道の指導的立場におられる方の、興味深い修練の動画シリーズは私も含め多くの愛好家にとって大変良い刺激となり、勉強になっているはずで、公開されていることに感謝し、楽しみにしていたのであるが。
合気道の研鑽に、合気と言う言葉や概念を抜きにするという意味の発言に疑問を持ち、合気について熱心に書かれた開祖自身の言葉があることをコメントした。
返信として合気について、わたしの現状の解釈を尋ねられたので、自分なりに整理してお答えしたところ、その後の様々な批評の発信は、よもや私のコメントから展開されたものではないとは思うものの、わたしが感じていることをすこし補足したい。現状では返信の経路を見いだせないため、ひとりごとを書き連ねることとする。
「開祖の言葉を理解しないと合気ではない、」「やりたいように自由にやってはいけない、」というようなことを思っている合気道愛好家は私のことではない。「開祖の言葉を研究すれば、技が出来るようになる」とか、「開祖の言葉がわからなければ意味がない」というようなことは考えたことも、口にしたこともなく「『合気神髄』を読み解けば、少々実技をおろそかにしても開祖のような達人に成れる」と信じたことはない。まして、私が開祖の存在に近付こうとか、あのような武人に成りたいと目指すのはさすがに想いもよらないことであった。ご指導いただいた直弟子の師範方がずば抜けた存在であった上に、その師範が開祖を評する内容はさらに超絶であったということである。
ただ「開祖の思いはどんなだったろう」「世界の老若男女に広めて下さったのだから、なにか普遍的な知恵や術技を示そうとされたに違いない」などと想像しながら、わかる言葉で伝えてくれる箇所を探しては、師範方の指導を思い起こして、愉しく稽古をしているところである。残念ながら未だに〝力んだ動き〟を示してしまうことは常である。
合気という言葉と思いが合気道から除かれるよりも、言葉と思いと動作の三位一体こそ合気道の成り立ちの第一歩ではないかと考えている。
コメントは短い言葉のキャッチボールであるから、一度に多くの思いや、読み手に想像をかき立てるような内容を伝えることは出来ない。その辺りをどうかおくみ取りいただき、今後ともお互い捕球しやすい球で楽しいキャッチボールをさせていただきたい。