『合気神髄 合気道開祖・植芝盛平語録』(柏樹社:1990年1月初版)より
〝魄が下になり、魂が上、表になる〟を動作する
〝魄が下になり、魂が上、表になる〟(p13)
〝今までは形と形の物のすれ合いが武道でありましたが、それを土台としてすべてを忘れ、その上に自分の魂をのせる〟(p129)
〝形より離れたる自在の気なる魂、魂によって魄を動かす。(中略) 一切の力は気より、気は空に結んでありのままに見よ。箱の中に入れるな。(中略)気の自由を第一に悟れ。気の流れを知りつくせ〟(p130〜131)
〝合気は禊である〟(p150)
〝魄の世界を魂の比礼振りに直すことである。ものをことごとく魂を上にして現わすことである〟(p149)
上にのせる魂とは、魄氣、つまり軸足の直上ではなく、魄氣と魂氣の結んでいる体軸を基にして、体軸から解かれた対側の手を指しているのではないか。
〝魂が上、表になる〟と言い換えていることを軽視すべきではない。魄の直上であれば体軸に与かる魂氣となって上肢は体幹に密着したままである。手を動かそうとすれば、体軸を壊して魄力そのものが手を遣わすことになる。同側の足が非軸足へと交代する前はその手が軸足側の魂氣であり、足腰と結んで体軸に与っているわけである。そのままで体幹から離して動作させることは出来ない。難場歩きの原理に反するからである。
開祖は合気の動作を言葉と思いで裏付けて普遍化することに傾注され、数多くの説明を残しておられるように見える。例えば片手取り入り身転換で受けに与えた手を下丹田に結ぶと、同側の軸足とともに体軸に与る。これを土台として対側の手足は体軸から解かれているから自在に動かすことが出来る。そこで非軸足を後ろに一歩置き換え、再度軸足交代して体軸を移すと、体の変更である。取り自身の重さはそのまま新たな体軸を経て地に下りる。しかも受けは取りの手を掴む瞬間に自らの魂氣と魄氣の結びを解き、体幹軸が地から遊離して取りの体軸に接着しており、受けの体軸は自身の魄氣との結びを失っている。取りの下丹田の手は体軸から解かれ、受けに連なったまま〝身の軽さを得〟p105て自在に動作できる。
また、体の変更には、取りの前に一歩回り込んで対峙しようとする受けの動きが伴う。すなわち、与えた手は下丹田に置かれていても、取りと合わせて受けの重さを〝忘れ〟る (〝空の気を解脱〟p67する) わけだ。つまり対側の体軸を作る魄氣の前(表)に、丹田から陽で発することの出来る魂氣の兆しが生まれるのであり、〝魂の比礼振り〟p70に喩えられる。
例えば、片手取り体の変更により下丹田で魂の比礼振りが起こった手を外へ巡り、同側の非軸足を外転換で軸足交代すると、腰仙部に結んで一瞬体軸に与っていた対側の手が同側の足とともに受けの外三角に進み、隅落とし裏が生まれる。
交互に軸足の交代が繰り返されると、いわゆる体捌きと言うことになるが、その都度魂氣は体軸の前で自在に働かせることが出来るわけだ。魂氣と魄氣の結びで作られる体軸と、同時に対側の手(魂氣)と非軸足が自在に働く合気の動作は、開祖の所謂〝千変万化〟p70の〝気の妙用〟p85である。
〝五体の左は武の基礎となり、右は宇宙の受ける気結びの現われる土台となる。この左、右の気結びがはじめ成就すれば、後は自由自在に出来るようになる〟p105。
魄の上に魂をのせるという表現は、左右の軸足と非軸足、左右の体軸に与かる魂氣(手)と魂の比礼振りが起こった手という概念を抜きには理解できない。軸足が後ろ、非軸足は体軸を解脱した魂氣とともに前、つまり表という解釈に心を留めるべきである。
禊(天地の氣に氣結びする静止と鳥船)、転換、入り身、入り身転換、体の変更、前方/後方回転といったさまざまな動きと一瞬の静止。つまり、体捌きと残心。また、先手/同時/後手の動作、下段/上段に与える手に片手/交差/諸手/両手/後ろ取り、肩取り/二人取りの初動。正面打ち・横面打ち・襟取り・突きに対する理合と気結び。
あらゆる合氣道の動作は〝魂が上、表になる〟
2021/2/20