軸足による体軸の確立、すなわち魄氣と同側の魂氣(手)が丹田に結ぶことこそは開祖の言われる合氣の具体的動作に他ならない。それは天地の氣に氣結びするという禊に通底する。その背景には天から魂氣を手に受け、地から魄氣を足腰に受けるという思いがある。
魂氣は心のたましいから、魄氣は体のたましいから得られる生命であり、これらが丹田で一つになって初めて活きる力が生まれるという考えの下に、つまり合氣によって人の姿勢、動作、手の働きが成り立っているものとする。体軸が確立してこそ対側の手足腰が最大限に働けるわけであり、体軸に与る軸足と同側の魂氣が左右で交代し続けることによって切れ目ない協働が可能となろう。これは開祖が千変万化と表現された合気の動作の術理である。
体軸に与る魂氣は陰に巡っているのであって軸足側の手は体軸から離して働かせるわけにはいかない。陰のまま体軸上でのみ動かすことができる。そうであってこその体軸確立なのである。
今、鳥船の足腰について、体軸が前方へ偏ったときと後ろの軸足に戻ったときに着目して、前者を魄氣の陽、後者を魄氣の陰と呼ぶことにする。陽の魄氣は体軸が前方へ最大限偏る瞬間として働く。陰の魄氣は軸足を確立して体軸を地に直結することで、対側の手足腰に動作の兆しを生み出す。非軸足側の手も軸足側の手と同様に、魂氣の珠を掌に包んで広義の陰で下丹田の左右に置かれているが、実は結んでいるわけではない。非軸足の歩幅に合わせて自在に空間へ伸ばすことができる。母指先から魂氣を発する思いを動作できるわけだ。対側の魂氣が下丹田に結んで軸足と共に体軸を作っているからこそ可能なのである。
さて、相対動作で受けに魂氣を与えて正面打ちや片手/交差取りを導く際、陽の魄氣で前の足を踏み込んだ状態で同側の手を差し出すことに合気を見出せるのか。手が受けに触れた瞬間、既に同側の足を軸としており、そこからなおも手を空間で働かせようとすることが体軸の確立とは対極にある事を知るべきである。
陰の魄氣によって対側の非軸足と手が自在に受けを導き、これに結ぶと同時に軸足側へと交代して丹田に結べば、正に体軸の確立とともに受けの手と体軸にも結んでおり、取り自身の体軸から解脱した対側の手足腰が存分に働いて武技を生み出すこととなる。
交代して非軸足となり、同側の手(魂氣)は体軸から解脱することで身の軽さを得る(魂の比礼振りが起こる、と表現されている)。非軸足側の母指先から魂氣を発する思いで虚空に円を描いて体側や丹田に巡ると、再び軸足交代と体軸の確立がなされ、魂氣は受けの手に結んだまま受けの体軸に響き、底を抜いて合気の技が生まれる。その瞬間こそ残心の姿に他ならない。
陰の魄氣から非軸足を進めると同時に魂氣は虚空に発せられ、陽の魄氣は魂氣が陰に巡る変換点に一致するのである。