足捌き
宮本武蔵のいわゆる〝足使い〟、つまり足捌きは足腰の捌きであり、目付けをともなって体捌きに繋がる。
また、〝一足進んで受けに近づくことが勝ちを見出す〟という武蔵の教えもある。
その術理についてさらなる言葉を以下に示そう。
〝太刀一ツ打内に、足は二ツはこぶ物也。
太刀一ツに足一ツづゝふむは居付はまる物也。
二ツと思えば、常にあゆむ足也。〟(武蔵の兵法三十五箇条)
〝二ツはこんで一と足すすむ〟ということになり、
前の足を送り足、後の足を継ぎ足で運ぶことであろう。さらに、
〝踏み詰める足は、待ちの足といって、敵に先手をとられる足使いであるから、ことに嫌うものである。〟(五輪の書 風の巻)
踏み詰める足、とは一つ送り足を踏みつけたまま二つ目の継ぎ足が出ず、動きのとまっている足のことだ。
以上のことから、足を進める、体軸を移動する、ということは必ず足を左・右と運んで踏むことになる。そのことを考慮して、合気道の基本とされる剣素振りと船漕ぎ運動・鳥船について、その足腰の使い方を考察する。
合気は禊である
『合気神髄』で開祖は、「合気は(中略)最初は天の浮橋に立たされてというところから始めなければなりません。」(p99)と古事記の言葉に喩えて教えている。「立ったならば自分が統一していなければなりません。空気を媒介として統一になるのです。呼吸いきです。人の身体に、過、現、未の全部をひきしめてしまうのです。その方法が鎮魂帰神」(p101)。雑念を払い、こころを鎮めて天地の気に気結びし、清々しい気持ちになる、ということであろう。左右対称の足で立ち、片寄りのない姿勢が静止である。
心のたましいは天に昇り魂とよび、体のたましいは地に下りて魄とされる。そこで、天から受ける気は魂気、地から受ける気は魄気ということになる(p80)。天地の気とは魂気と魄気を指し、それぞれの働きや、手・足腰を指す場合にも用いられる。
鳥船
次に動作へと移るが、開祖の言葉はこうだ。
「昔は鳥船とりふねの行事とか、あるいは振魂ふりたまの行事、いままでの鳥船や振魂の行ではいけないのです。日に新しく日に新しく進んで向上していかなければなりません。それを一日一日新しく、突き進んで研究を、施しているのが合気道です。」(p101)と。
はじめに右足を軸として左足を軽く半歩出す。両手は魂気の珠を包んで臍下丹田の両脇に置き、右手は軸足と結び体軸を確立していると心に留め置く。左手は同側の非軸足とともに、空気中へと自在に発散できるはずである。この姿勢は呼気相にあって、魄気による働きが地から軸足の足底を通して体軸の先の頂丹田にまで及んでいる、と思うことにする。私はこれを魄気の陰と呼ぶことにしている。
そこで、吸気とともに母指先が地を指したまま魂気の珠を包んだ両手を前方に差し出す。このとき右膝は伸展してその場で地を踏み続け、非軸足先は左手に合わせて同時に前方へ置き換え、脛を直立してはじめて地を踏む。腰、即ち臍下丹田は始めに正面を向いていたものが、前下方右寄りに捩れて一瞬静止し、体軸と右軸足は失われる。体幹軸のみが直立したままやや前方に片寄る。つまり体軸の延長線は底丹田の真下の地に下りることとなるが、ただ浮動するのみで地から魄気の働きが伝わっているわけではない。しかし腰が右前下方に捻られることで臍下丹田に向かって地から体幹軸を支える魄気の働きが及んでいる、と思うことにする。「心の持ちようが問題になる」(p67)と。まさしく気持ちになるわけだ。この状態を陽の魄気と呼ぶことにする。
ただし、その瞬間、踏み詰めた左足に加えて右足は地を踏んだまま伸展して軸足ではなくなったから、このまま静止するわけにはいかない。天地の気、魂気と魄気の気結びを解いたままであるからだ。一瞬のうちに右は軸足として体軸に与り、左の足を非軸足に戻すことが肝要である。陽から陰の魄気へ巡り、再び吸気と呼気の動作を行なう、その繰り返しが鳥船の動作である。
空間から魂気を包み、下丹田に巡らせて結んでは発し、次第に魂気の高まりを丹田に感じていく。すなわち、体軸の確信とともに天から受ける魂気と、地から受ける魄気が一つになって清々しい気持ちを生み出す呼吸動作である。
結局、鳥船は陽の魄気における〝待ちの足を嫌って〟陰の魄気である「正勝吾勝」(p70)に巡る動作であると結論できる。陰の魄気は単なる静止ではなく、軸足・体軸を作って対側の非軸足と自由な手を確立し、いつでも体を捌くことのできる姿勢である。
剣素振り
剣素振りについては、右半身の陰の魄気で右手に把持した剣を振りかぶる呼気相から始め、吸気で右手を伸展して剣先を前方に発し、同時に右足先を剣線に合わせて前方へ伸展したままで置き換える(正勝)。鳥船と異なるところは、後ろの軸足を伸展せずに体軸は終始その場で維持したまま(吾勝)、非軸足先は地を踏まず呼気で軸足の前に戻し、同時に剣を持つ右手は上丹田に巡って振りかぶる姿勢をとる。左手は体軸に与ったまま腰仙部に陰の魂気として常に結んでいる。
両手で剣を操る際は柄尻を持つ左手が陰の魂気として体軸上を下丹田と上丹田の間で上り下りする。剣を打った時は上体が右半身となって左の腋が閉じるから、左肘より遠位は剣とともに伸展しながらも陰の魂気である。
この剣素振りの体捌きが、徒手においては取りが魂気(手)を下段に与えて受けに取らせ、あるいは上段に与えて正面打ちが導かれる動作となる。
それに反して、鳥船の陽の魄気で手を差し出して受けが把持するまでの短い静止は、〝踏み詰める足は、待ちの足といって、敵に先手をとられる足使いであるから、ことに嫌うものである〟ということになる。
合気道の初動
鳥船は、正勝吾勝から後ろの軸足を伸展して前の非軸足をその場で踏み、即座に後ろを元の位置のまま軸足に戻して正勝吾勝に巡る。体軸移動には至らない。
ところで、非軸足を踏むと同時に継ぎ足を内に巡って陰の魄気なら内転換である。また、同時に継ぎ足で一本の体軸を確立すると体軸は一歩進めたことになり、勝速日に喩えられる。その時、継ぎ足が剣線を外せばこれが入り身であり、相打ちにならない「合気の剣」の体捌きである。〝二寸の開き〟(柳生流)なる極意はこれであろう。
一方、剣素振りで非軸足先を取りの外に半歩置き換えて軸足とし、対側の継ぎ足先が剣線と直角をなして陰の魄気とすれば外転換である。いずれにしても、合気道の初動はこの剣素振りの足捌きから魂気を上・下段に与えて始まるものである。
2022/1/21