『合気神髄』(合気道道主植芝吉祥丸監修1990年1月20日柏樹社発行):昭和25年から4年間発刊の『合気道』会誌、並びに、その後の『合気道新聞』の1号誌より104号誌に掲載された開祖の道文を集大成したもの。
p22 禊がないと、ものが生まれてきません
p23 ことごとくすべて禊で出来るのであります。合気道で出来るのであります。
p26 この道は、天の浮橋に立たねば合気は出て来ないのであります。
p69 天地の和合を素直に受けたたとえ、これが天の浮橋であります。片寄りがない分です。
p28 合気道は天地の合気、 中略 天と地を結んでしまうのであります。
p27 天の浮橋に立ちまして、そこから、ものが生まれてくる。これを武産合気といいます。
p65 正勝、吾勝、勝速日とは武産合気ということであります
p69〜70 右足をもう一度、国之常立神の観念にて踏む、 中略 自転公転の大中心はこの右足であります。 中略 右足は 中略 動かしてはなりません。
こんどは左足、千変万化、これによって体の変化を生じます。 中略
左足は豊雲野神 中略 この意義をもととしてすべてに活用するのであります。
魄を脱して魂に入れば
左は正勝―豊雲野神
右は吾勝―国之常立神
勝速日の基、左右一つに業の実を生み出します。
‥‥‥‥
以上のことから、
天の浮橋に立つ、とは左右対称の足で立ち、天に魂気、地に魄気を思うことであろう。そこで禊により心と体のたましいを一つにする、つまり魂気と魄気の気結びが合気であり活きる力を生み出す、という考えが武産合気という言葉の内にある思いである。
そこから鳥船に移る際の軸足を作る動作では、魄気、つまり開祖の所謂空の気を足底から受けている、と思うことにする。その軸足と同側の〝魂気すなわち手〟(p181)は下丹田にて結び、体軸を成して吾勝と呼ぶ。
体軸は地に立つ柱であるから動かすことができない。しかし対側の足は魄気から解脱して自在に置き換えることができる。その手は体軸に与ることなく、〝魂の比礼振りが起こって〟(p70)、身軽になって虚空に円をかく、すなわち開祖の所謂真空の気に結ぶことができる。これを正勝と呼ぶ。
手足の働きから見た場合、単に魂といえば体軸から解脱した手、魄とは対側で体軸をなす軸足を指す。その軸足に結ぶ側の手に受けの重さを受け止めながら動かそうとすることは、体軸を働かそうとすることに他ならない。そこは体軸から解脱した手を動かすべきである、と教えているに違いない。
相対動作における気結びとは、受けとの接点で拮抗せず、内側に拳一つ分以上入ることと定義出来る。体軸までが中に入って受けのそれに接すれば魄気の結びとなる。また、魂気の動作には陰陽、巡り、結びの三要素があり、魄気にも陰陽、入り身、転換・回転の三要素があると考えることにしている。このように言葉と思いと動作の三位一体が基本にあってこそ、武は〝自然の法則〟(p105)、であり〝科学せる業〟(p79)たり得るのである。
魂気と魄気を受けに結び一旦受けの存在をすべて取りの体軸に受けても、軸足交代によって身の軽さを得て、その手には〝魂の比礼振りが起こる〟。つまり、自在に魂気の働きを発揮することができるわけである。
非軸足が移り進み軸足が伸展して継ぎ足として出来る体軸、すなわち入り身を成し得た体軸に魂気が巡ると、四肢が一本の体軸となって直立し、合気の技が生まれる。これが勝速日に喩えられている。つまり、非軸足を前方に送り、軸足に交代すると同時に後ろの足は剣線を外して前の踵に接する動作であり、送り足と継ぎ足が一本の軸足として体軸を成す体捌きである。「入り身一足」という言葉はこれに当てはまる。
天地の気に気結びして、受けの底を抜いた魂氣が巡ると左右・上下肢が一つの体軸を確立する。勝速日と呼ばれるこの瞬間が合気であり、同時に技の生まれることが武産合気ということであろう。
禊から合気の技が生まれるという思い、そして正勝吾勝、勝速日・入り身一足の動作、これが武産合気の思いと動作である。