〝武産合気〟は形ではない
『合気神髄』に収載された開祖植芝盛平の言葉からこのことを確かめていきたい。
古来、心のたましいは天に昇り魂、肉体のたましいは地に下りて魄と呼ばれてきた。間を満たすものはことごとく気と考えられ、天から掌に受ける魂気が手を、地を踏む足底に受ける魄気が足腰を働かせると思うことにする。
自身の魂気と魄気が結べば〝天の気、地の気、要するに天地の気と気結びする〟(p172)〝天と地を結んでしまう〟(p28)。つまり〝合気は禊である〟(p150)
〝真空の気、空の気の結びつきによって〟〝左、右、左と巡環に払って禊すれば、四方八方位に武産が生き生きとして、武の兆しが出る〟(p95)。これは鳥船の行である。
〝武がなければ国は滅びる。すなわち武は愛を守る生命だからであり、科学の活動の根源なのです〟(p100)。
〝右足をもう一度、国之常立神の観念にて踏む〟〝自転公転の大中心はこの右足であります〟〝左足を三位の体にて軽く半歩出します〟〝左足は豊雲野神〟〝千変万化、これによって体の変化を生じます〟(p69〜70)。〝右足は〟〝動かしてはなりません〟。
〝左は正勝〟〝右は吾勝〟〝勝速日の基、左右一つに業の実を生み出します〟(p70)。
また、〝正勝、吾勝、勝速日とは武産合気ということであります〟(p65)
以上のことから武産合気とは、いわゆる形の特徴によって定義される概念ではない。天地の気に気結びして体軸を確立し、非軸足と同側の手が自在に動いて左右交代しながら遂には五体が一つに結んで天地の〝御柱〟(p149)となる。つまり、入り身転換(p174)と入り身一足による残心が技を生むことこそ武産合気なのである。
2024/10/8