魄氣の陰とは、一側の足に重心をおいて屈曲し、他側の足先をその内側前方に伸展して置き、体軸は後方の軸足に鉛直線で連なっている。
そこで、屈曲した軸足を一気に伸展し、前方の足先を半歩進めて体軸が前方に移動しかけたところで両足ともに地を踏みしめると、魄氣の陽である。体軸から地に降ろした鉛直線は両足の間で地と交わる。従って、このとき体軸を成す足すなわち軸足は存在しない。
残心とは静止の中にあって即座に動作できる体勢でもある。上肢は陰であり丹田や体軸に結び、魄氣は前後の足が一本となって軸足を作り、いつでも一側の足腰を置き換えか踏み換えのできる姿勢である。
従って、軸足の確立といえば、魄氣の陰と、残心による二足の一体化、の二通りを挙げることとなる。つまり陽の魄氣は軸足の確立についてこれらとは対極にある。陽の魄氣で静止すれば、あらためていずれかの足を軸足として動作に入らなければならない。前の足を軸とするのなら、後ろの足を継いで残心としてから軸足にする過程は欠かせない。後ろの足を軸足とするのなら、それを軸とする陰の魄氣に戻さなければならない。
また、陽の魄氣は吸気相にて魂氣を陽で発することと同期するものであるから、その静止は魂氣においても、体軸に陰で(呼気で)巡ってから次の吸気を待たなければ手の動作に移ることはできない。
陽の魄氣は動作の中で経過する軸足を失った一瞬の姿である。軸足の確立は陰の魄氣と残心に限られる。
2014/11/27
魄氣の陰が残心たり得ないことを記したことがある。ただし、陰の魄氣は軸足を後方に持っており、武器を取った場合は送り足で魂氣を極限に発した後、後ろの足を後方に置き換えて踏めば、魄氣を陰として武器を取る手が丹田に結び、初めて残心の姿勢を取ることができる。つまり武器を取れば残心は陰の魄氣である。しかし、魄氣の陽においては軸足を欠くことから、言うまでもなく残心とはなり得ない。
ところで、残心とは合氣の技が生まれることと同義である。合気道において技を掛けることは受けに魂氣を与えて芯に響かせることである。ただし、技が生まれるにはその魂氣が受けを貫かなければならない。そこで初めて受けは体軸の魄氣の結びを失い地に落ちる。
受けを貫いた取りの魂氣が自身の丹田に巡り、軸足が体軸を確立して、魄氣によって地に結んでいなければ取りの正立は叶わない。徒手の場合、入り身の完遂で両足が一足の軸をなしたとき、魂氣は同時に丹田へ結び正立が叶い、静止と共に動作が整う姿勢となる。これぞ徒手の残心である。
武器を持った場合について詳しく見ておこう。
剣・杖の打突では、入り身で陽の魄氣から足を継いで両足が一足となった瞬間は魂氣と武器は陽の極限を成し、打突の瞬間である。受けの軸に取りの魂氣が響いた瞬間は受けが地に打ち倒され、突き放される瞬間であるが、取りの魂氣は未だ丹田に巡らず、正立とは対極にある。確かに魄氣は送り足によって二足が一足に成って軸を作っている。徒手の残心の足腰に一致していても魂氣は丹田に巡っていないから、魂氣と魄氣が結ぶことは無い。
ここで静止すると魂氣の動作は整わない。つまり、速やかに丹田から魂氣を発することはできない。従って、打突の直後に呼気で陰の魄氣と共に魂氣を丹田に巡らせ、武器を中心軸で支えて把持する姿勢が必要である。つまり陰の魄氣であり、武器の場合はこれが残心である。
残心とは、技を生みだした後、単に足下の受けを注視する静止の姿勢ではなく、今後の動作に備えた魂氣と魄氣の結びである正立に相当し、陰の魂氣と目付と軸足を整えた姿勢である。
2014/12/7
合氣道の動作に残心を欠いたとき、言うまでもなく合氣道の技は生まれない。
それは、刀を相手に打ち据えても、足で蹴倒し、体で押し倒すときはたとえ刀を突き立てていようと、切り倒したことにはならないからだ。
合気道では、魄氣が受けの体軸に置き換わり、魂氣が巡って受けの底を貫き、取りに還って初めて合氣の技が生まれる。技が切れるという表現があるのは剣に繋がる氣の術理を指して言うのであろう。
たとえ上肢から受けの体軸に沿わせて魂氣が響いても、取りの体軸が受けのそれに取って代わらなければ、魂氣は受けの底を抜くこと無くただ留まるに過ぎない。だから、上肢は取りに巡る動作ではなく、受けを押し倒す動作へと移って行くのである。取りの魄氣は増々軸足を欠いたまま、地から魄氣を受けない体軸が両足の間で滞り、せめて上体を倒し掛けて上肢による押さえで受けを倒そうとする。
魄氣の陰陽から入り身の動作を残心で完結するなら、体軸は受けに取って代わって確立し、再び自身の魂氣が受けの底を抜いて巡って来る。今や、魂氣と魄氣が取り自身の丹田で結び、半身の自然体で呼気相にある。軸足は二足が一つになっている。
武器を手にしたときであれば陰の魄氣の半身か転換で軸足を後方に作って構えるか、自然本体に移して正立すれば残心の静止である。
2014/12/10
上肢の動作である魂氣の表現には広義の陰陽と狭義の陰陽がどうしても必要だ、と結論したことこそ、私が合氣道の理解を深めようと思い立った切っ掛けであろう。表現方法がより正確になると動作への緻密さは増し、合氣道の想いがより明確になるのを感じ取ることができたから、呼吸とかかわる動作にも気づくことができる。
脇を閉めて上腕から手首までが体幹に密着し、手に受けた魂氣が指の屈曲と母指の伸展で包まれる。これを魂氣の陰とすれば、脇が開いて上肢が指先まで伸展して魂氣が丹田から放たれる想いは陽に相当する。
そこで丹田に結んだ上肢の手掌が地に向けば狭義の陰、従って陰の陰とよび(画像①②)、天に向けば狭義の陽つまり陰の陽ということになる(画像③④)。陰の陽では、手掌に包んだ魂氣を丹田に巡らせる動作の終末であり、また結んだ魂氣を丹田から与えるために広義の陽へと発する動作の始まりである。
受けに接してそこから魂氣を与えるには接点の内側へ掌を天に向けて開いていく。与えなければ、屈曲した指の方向である丹田に、そのまま上肢を弛緩して巡る。
陰の陽で丹田に巡るときは小指から掌を包んでゆき、示指までが丹田に密着する。母指は屈曲した示指を塞いで腹壁に平行し、その上肢の反対側つまり内側を向く。そこから魂氣を受けに与えるときは手根を前に出しながら、掌を包んだまま脇を開いて肘を伸展していく。
一方、丹田から内側に母指先の反りに合わせて魂氣を発する想いで脇を開いていくと、禊の気の巡りの動作にあたり、掌を開きながら丹田を中心として水平に円を描く動作となる。陽の陽で手を開き魂氣を与える、これを内巡りとよんでいる。体の変更における魂氣である。
額に結んだ狭義の陽でも陰でもない魂氣はいわゆる手刀であり、振り降りて魂氣が丹田に巡ってくるときは陰の陽で小指から掌を包んでいく。横面打ちの巡りがこれである。一方、陽の陰から陰の陰で丹田に巡るとき、母指先が丹田に接するや否や母指の腹に示指が屈曲して接し、順次指が弛緩屈曲して行く。陰の陰で丹田に結ぶと母指先は直下の地を指している。
何れにしても、広義の陰の動作で狭義の陽では小指から丹田に接して掌を包んでいく。狭義の陰では母指先と示指の間の開きを閉じることから手掌を包んでいく。
2014/12/23
演武を見て、受けをして、取りをして繰り返すことが稽古であり、
体得の過程である、形をなぞることのできるのが合氣道であれば。
なぞれない合氣道は、繰り返す前に魂氣と魄氣を見極め、想い、動けば連なり、形が見える。
結果、語句が共有される。
従って、語句を選び、氣の想いを知って、動作が呼吸に連なれば形が定まり、技が生まれる。これが稽古である。
2015/1/4
初詣には神前で手を合わせ新年の無事を感謝し発展を祈願するが、この際拍手(かしわで)による音と共に邪気が払われるとされている。
合気道では天の魂氣を両手に受けて拍手の音と共に、内に取り込み自分の物とする想いのこもった動作があり、禊とよんで稽古の冒頭に行われる。このとき両足で地を踏んでおり、拍手によって合わせた両手で臍下丹田に印を結ぶと、地から魄氣を受けて魂氣と魄氣が中心で一つとなり体内に入ったと感じる。これは天地に結ぶ動作である(画像①)。
その後、天之鳥船とよばれる舟漕ぎ運動が続く。魄氣の陰陽に合わせて魂氣を陰から陽へと巡り丹田に結ぶ。呼気相に合わせて陰で結び、吸気相に合わせて陽で発する。これにより魂氣三要素を魄氣の陰陽に伴って動作し、氣の充実を想うわけである(画像②)。
このように、禊と言う語句に想いがあり、それにともなう動作がある。つまり、三位一体こそが合気道の本質であり、この調和を欠くと氣の武道は生まれない。
多くの動作が、その名称と、内にある想いに裏付けられて初めて合気道の動きとなり、真の形が生まれる。従って形をなぞることで本質は到底現れない。
2015/1/30
三教とは、腋を開き肘を直角に固定し、そこから指先までを直線の軸として受けの内側(腹側から腋の内方)に捻ることである。稽古では痛みを感じる直前に受けが合図をして取りに技を解かせることが最重要である。そのたびに程度の違いがあろうとも、痛みを繰り返して受けることの心身への負荷は測り難いからである。
三教の要訣は、軸を直線のまま捻るための手の先を掴む方法にある。
軸が曲がると捻りが甘くなり、受けの肘が落ちて上肢が伸展に向かい、陽の魂氣の母指先へ発せられる想いが動作に現われて返し技が成り立ってしまう。
正しく捻るためには受けの手首で軸が曲がらないように持つべきである、というのが先師の教えである。それには、捻ることに加えて曲がらない様に固定することをそれぞれ左右の手で動作することが肝要である。したがって、正面打ちと交差取りにおいては自ずと三教で持つ方法に相当の違いが生じる。
正面打ちでは、受けの手首に陽の陽で結び(画像①②)陰の陰に巡って受けの指先に滑らし、その手背側から揃えて包み(画像③)、真中に寄せて受けの手首を一旦反屈にしてその手掌を取りの正面に見る(画像④)。対側の手で受けの小指球を手背側から陰の陽で包み、降氣の形で母指先は受けの母指球手背側を包む(画像⑤)。そこから回外して取りの母指球を前方に突き出す(画像⑥)。さらに取りは対側の手を受けの指先から離してその小指側で受けの母指球を包んで、母指側と母指で受けの手首の屈側を包む(画像⑦)。
交差取りでは、外転換で降氣の形から(画像⑧)陽の陽に発すると、受けの小指球は屈曲して取りの手背に接しているが広義の陽は維持されている(画像⑨)。取りはここで陽の陰・陰の陽と降氣の形にして受けの手首を包み(画像⑩)、真中に寄せることで受けの上肢は陰の陰(二教の手)となり、なおかつ丹田から結びが解けることで、取りは対側の陽の陰の手を受けの上腕から離すことができる。それを陰の陽として受けの小指側から剥がし包むにつれて(画像⑪)、初動で取らせた手は受けから離れ、回外して小指側の指で受けの小指球の近位端を、母指側と母指で手首を包むようにして(画像⑫)、陽の陰で受けの腋に向けて突き上げるように捧げて(画像⑬)から取りの丹田に陰の陰で結ぶと、受けは取りの外側後方に仰向けに落ちる。
2015/1/22
呼吸法における魂氣の三要素を見ると
降氣の形からは陽の陽と回外がある。
剣や杖をとればそのまま操法に繋がっていく。
剣の合わせの突きに下段受け流しで、陽の陽なら相半身外入り身で水平切り。
回外なら逆半身外入り身で突きとなる。
従って、徒手の交差取りや突き下段受け流しでの入り身投げにおいては、外巡りから降氣の形・陽の陽(画像①)と、
下段受け流し・降氣の形から回外して陰の陰から陽の陰(画像②)の二通りに分けられる。
画像①の3カット目と画像②の4カット目を比較
2015/2/3
魂氣三要素と魄氣三要素の語句と想いに伴う動作から形が生まれるから、その拇趾と母指は自ずと方位点としての重要な役割を持たざるを得ない。基本的に動作は軸を正して陰陽、力の及ぶところの限界から限界まで、であるから、二つの方位点に想いが及ばないことは無いし、その規則性に気付くことがあって然るべきであろう。
拇趾先を母指先に合わせる
⑴片手取り入り身転換:魂氣を与えてから止まらず広義の陰に巡り丹田に向かう(鳥船ホー・イェイに一致)と同時に陰の魄氣から前方の足を更に受けの足側まで置き換える。つまり呼気相で入り身をして軸足を交代し、(入り身)転換する。このとき拇趾先は母指先に一致して内方を(拇趾先は受けの中心を)指している。
⑵正面打ち一教表の吸気相:上段に与えて一教運動表なら陽の陽で魂氣を発するとき、拇趾先は母指先に合わせて受けの前の足の内側に半歩置き換える。
⑶片手取り呼吸法の吸気相:昇氣から側頸に結んで陽の陽に発するとき踏み替えて軸足を交代し陽の魂氣と同側の拇趾先を母指先の反りに合わせる。体側へ巡るとともに踏み込んで再度軸として送り足で残心
拇趾先を母指先の正反対に向ける
⑴一教運動裏の初動で剣線を外す呼気相:前の足先は額に巡った陰の魂氣に合わせて受けの外に置き換えるが、拇趾先は陰の陰の母指先(取りの内方に向く)と反対に取りの外方(受けの前の足の外側)に向ける。軸足を交代して返し突き近似で一教運動裏(入り身転換)の動作と共に額の魂氣は陰の陽に巡り母指先が同側の拇趾先に揃う。
⑵交差取り入り身転換:与えた魂氣を呼気相で取りの外に母指先が向き脇に隙間を作る(外巡り)。同時に同側の拇趾先は正反対に取りの内(受けの外)に向けてその隙間を進め(画像①)、そこで軸足として入り身転換すれば与えた魂氣は陰の陽で腰の後ろに結ぶ(画像②)。
⑶片手取り四方投げ表:片手取りには与えた手を呼気相で二教の手とし、対側の手で四方投げの持ち方によって額に結ぶとき、同側の拇趾先を反対側に向けて踏み込み前方回転の軸足とする。回転の後、吸気で正面打ち近似にて差し出すと受けの項に取りの魂氣と手背が結ぶ。呼気で丹田に結ぶと同時に送り足で残心。横面打ち入り身運動の単独動作に一致。
2015/217
母指先は魂氣の発する点である。脇の開け閉めと手首の屈伸とともに陰陽の方向を示す点である。魂氣を体軸で掌に包んで陰とし、開いて発して陽とする。また、陽の掌が天を向けば魂氣を同時に受けることにもなり、地を向けば丹田や地に結ぶ想いが形となる。
陰の魂氣が体内を巡るあいだも、丹田や側頸から外に発するときも、また、それが体軸に還ってくるときも。指先が方向を示す点となっている。。
時には小指から順に巡る場合もあるが、そこでは母指球が掌を包み続けながらやがて陽で発するから、母指だけは屈曲する間もないのである。
陰陽・巡り・結びの三つで魂氣の働きも形もことごとく現すことができる。
そして、母指先と他の指先はそれぞれが方位点となって六方を巡ることができるのである。
2015/2/21
体軸を詰めるには、“外して詰める”(画像①)と“詰めて外す”(画像②)の二通りしか無い。
このいずれでもなく詰めるということはできないのである。
なぜなら、互いの体軸の前後に魂氣の要素を無視することができないからである。
つまり、魂氣三要素を現さなければ、ことごとく打ち当たるしかない。
合氣道では魂氣を上肢の動静に現し、魄氣を体軸と足腰の動静として現す。
すなわち、魂氣の陰陽、巡り、結びが、魄氣の陰陽、入り身、転換・回転による体軸の動静を確立させ、それがまた、魂氣の動作の連続や残心へと効果を持って繋がっていくのである。
型稽古であっても、ただ詰めれば上体は不規則な衝突に終始して乱雑に打ち当たるであろう。術理の上で接触して自己を確立するか、無秩序にもつれてたちまち自己を失うか、いずれかである。
そのいずれでもなければ、架空の動作である。
2015/3/8
武道であるから人を殺傷・制圧する技術が元になっているが、合気を取り入れることで互いを活かす技法に変わった。特定の規則により限定的な技術を取り上げることもなく、競技や試合をすることで勝敗や優劣を競うこともない。互いに取りと受けの動作を繰り返す稽古により、互いの和合と健康を維持することが目的である。自己保身や勝利によって報われる武道ではないから、特有の充足感と心地よい疲労感を持つことで稽古を終えることができる。
合気とは、氣の要素に特有のそれぞれの動作を指す。氣の概念を裏打ちとして体軸から末梢に至る全身の動作を、呼吸と共に緩急自在に連ねることで術技を生み出すものである。単独で行うことを基本とするが、相手との動作でもそのまま適用することができる。
常識的な思いつきというような安易な術技ではないが、呼吸に伴う極めて基本的な生理的動作から成り立っているから、緻密な形に伴う気力が発揮できるまでには時間を要しない。極めて合理的な成り立ちであるため、児童から老年期の大人まで皆が広く深く伝統の武道を体得することになる。
語句や観念に偏ると達成感の乏しい稽古となり、漂う動作に頼るばかりでは焦りと疲労感だけが残る。三位一体が産む充足感は合氣の妙味そのものであろう。
2015/3/11
陰の陽で上肢を畳んで母指先が側頸に向くと降氣に至る形であり(画像①)、ここから脇を直角に開くと母指先は側頸に結び、なおかつ丹田方向を指す。そのまま呼気を続けると母指先は胸から腹まで降りて丹田に結ぶ。
この降氣の形とよんでいる姿勢では、吸気で母指先から外へ陽の陽で発する場合(画像②)と、母指先を前方へ回して吸気で陽の陰で発する場合がある。後者は上肢の屈曲を体側への結びとして、これを緩めずに手首を屈曲したまま母指先を回外するという表現が用いられてきた(画像③)。一方、丹田を経由して陰の陽から母指先を外に向けて陰の陰とし、同時に脇を直角まで開く動作を外巡りとよんでいるが(画像④)、これは前腕が水平となる点で回外とは明らかに異なり、二教の手に相当する(画像⑤)。
降氣の形からの巡りとして今ひとつ、さらに呼気で母指先が顔を縁取るように額の上まで進み、屈曲した手関節が頭部を囲む形をとれば上段受け流しの姿勢となる(画像⑥、⑦)。剣を用いた上段受け流しでは手首を伸展し、陰の陽となっている点が徒手と剣の場合の違いである。
徒手の上段受け流しは、肩から肘を経て額の真中に結ぶ屈曲した手首まで、横面打ちに振りかぶった上肢と近似し、前腕は僅かに傾斜しており(画像⑧)、これは水平の二教の手とも、垂直の回外とも異なるところが核心である。
2015/3/20
手足腰目付けの一致といっても実際にすべてを同時に行うという意味ではない。それは、体の機能から見ても実行可能なことではなく、また、その必要も無いわけである。ちぐはぐであっては合氣を生むことができないのと同様、全身を同時に動こうとしても同じ結果となるわけである。
同時に行うということは、心身の働きを熟知して十分な修練の後に究極という次元において発現されるものであろう。
つまり、手足腰目付けは多くの場合連動して運ぶべきものである。同じ部位であれば、一つの動作と形が確立しなければ、次に進めて行くことができないということである。また、身体の一部の動作が他の部位の動作を可能にして順次連動していく場合もあろう。氣に含まれる流動の想いが各部の動作の連なり、すなわち手足腰目付けの一致になるわけである。
形が移り変わって行く元には氣の要素からなる合氣の術理が存在し、それは身体の隅々まで行き渡る魂氣三要素、魄氣三要素の想いと動作に他ならない(画像①②③④⑤)。
2015/3/20
片手取り隅落とし表二本
⑴ 逆半身外入り身を魂氣の外巡りと共に行う。対側の振り込み突きを払わせて送り足は相半身外入り身へと進め、外巡りによって弛んだ受けの腋に、対側の払わせた魂氣を陽の陰で発して丹田に陰の陰で結び残心。
受けは取りの背側から腹側を廻り後方へ螺旋で落ちる。
【受けの前後の足を結ぶ線を底辺とする正三角形の頂点を内/外三角の(頂)点とする。呼吸投げは内三角の点、隅落としは外三角の点の地に結ぶ。四方投げ、天地投げ、小手返し、入り身投げは取りの丹田に結び、回転投げは前方に発する。呼吸法は、前方回転で額から丹田へ降氣で結び、入り身・転換で側頸への昇氣は陽の陽で発して体側に結ぶ】
⑵ 逆半身外転換を魂氣の外巡りと共に行う。対側の魂氣を陽の陰で両手の氣の巡りとし、前の足先を軸として逆半身外入り身。残心で後ろの足を軸として前の膝を陰の陰の母指先と共に外三角の点に結ぶ。
受けは取りの腹側から背側へ廻って螺旋で落ちる。
⑴は相半身外入り身、⑵は逆半身外入り身
片手取り隅落とし裏二本
⑴片手取り入り身転換から前方の足と手を後方に置き換え足は軸とし、手は腰に結ぶ。ここまで丹田の魂氣は結びを解かず同側の足先と共に外巡りで逆半身外入り身運動。残心で後ろの足を軸として前の膝を陰の陰の母指先と共に外三角の点の地に結ぶ。
⑵ ⑴で取りの逆半身外入り身運動に受けが一歩進んで間合いが開けば取りも一歩置き換えて相半身外入り身と陽の陰の魂氣を発して丹田に陰の陰で結び残心。
⑴は逆半身外入り身、⑵は相半身外入り身
2015/3/23
魂氣三要素は陰陽、巡り、結びであり、その想いとそれぞれの動作は三位一体として坐技単独呼吸法に現わされる。
一方、魄氣の三要素は単独基本動作でそれぞれ修練している。その魄氣の三要素とは、陰陽、入り身、転換・回転である。
ところで、実際に単独で基本動作を行う場合、上肢の動きを無視することはできない。それには、単独基本動作に先立って行う坐技単独呼吸法による魂氣の三要素を遺憾なく発揮することで、正に手足腰の一致という魂氣と魄氣の結び、すなわち合気を実践するわけである。
それによって体軸は軸足に連なって目付けが維持されることとなり、一眼二足三胆四力が単に優先順位ではなく、語句と想いと動作の三位一体によって初めて可能となり、核心から形として現れるのである。
しかる後に、相対基本動作が初めて合氣道の基本として確立され、いわゆる技が産まれることになる。
2015/3/29
上肢を畳む。手で持つのではなく上体ととともに体軸で持つ。また、取らせた手は側頸を経て体軸で持たせる。いずれも体軸は受けのそれに近づき間を詰めることとなる。即ち魂氣は秋猴の身、魄氣は漆膠の身がともに現される。
そのあと魂氣を発するには再び体軸を離して上肢を伸展する。または、転換で受けに接したまま肘を伸ばして陽で発するなり、地に結んで巡らす。いずれも母指先から魂氣を発する想いで動作する。
つまり語句と想いと動作の三位一体である。
2015/3/30
諸手取りに外転換・降氣の形から回外して額に結ぶと、陰の魄氣の前方の足先は剣線を外しており、受けの背側(外)に位置している。その場で前方回転の軸として、後ろの足をその軸足先から取りの外方へ回すと一回転して受けの背側に密着する。また、外転換した陰の魄氣の軸足をそのまま後ろ回転の軸足として、前方の足を軸足踵の後ろへ回して後方回転すると、さらに受けの背側へと密着する。
前方回転を表、後方回転を裏としても、両方が受けの背側に入り身することとなる。
入り身して転換はいわゆる入り身転換で呼吸法裏や体の変更の基本動作であり、転換して入り身は隅落としや呼吸法表である。ここで示す転換・回転して入り身、は諸手取り回転の呼吸法であり、額から降氣で取りの丹田に結ぶ(諸手取り呼吸法には、降氣の形から回外せず陰の陽で側頸に結び、陽の陽で発する昇氣の呼吸法がある)。受けは肘が畳まれて自身の側頸に結び、二教で落ちる。
魄氣の回転では、回転し終わるまで、額に結んだ魂氣を解かないことが肝要。軸足を作るまでは額に結ぶが、肝心の回転と同時に額の魂氣が伸展して結びが解けると、回転軸がふらつくか、転換に留まる。回転の終末で前方の足先が地に触れたとき、踏み込んで軸足になって初めて同時に額から降氣となり結びが解ける。
2015/4/9
合氣道の呼吸法とは、呼吸とともに氣結びを為すことと言える。
氣結びには⑴魂氣の結び、⑵魂氣と魄氣の結び、⑶魄氣の結びの三通りがある。
まず、魂氣の結びは陰陽、巡り、結びという魂氣三要素の一つである。
単独動作での呼吸法は正座で行う⑵であり、単独呼吸法としている。
それに対して、単独基本動作ではもっぱら魄氣の三要素、陰陽、入り身、転換・回転を行うが、同時に単独呼吸法を為す魂氣三要素が欠けては成り立たない。
ここでは相対基本動作における氣結びについて、上述した三通りに従って整理していく。
⑴魂氣の結び(取りの魂氣と受けの魂氣の結び)
⑵魂氣と魄氣の結び(①取りの魂氣と取りの魄氣の結び、または②取りの魂氣と受けの魄氣の結び、③取りの魄氣へ受けの魂氣の結び)
受けの魂氣と受けの魄氣の結びは互いに対峙するときの受けの自然体による静止である。
①は動作する前の自然体の他、丹田における氣の巡りの途中で丹田に結ぶ一瞬であり、または氣の要素を動作し終えて残心を示した取りの左右自然体。③は受けの魂氣が取りの魂氣に結ばれており⑴、それが取りの魄氣に結ぶから①に相当する。つまり、受けの魂氣に結んだ取りの魂氣が自身の魄氣に結ぶことである。
⑶魄氣の結び(取りの魄氣と受けの魄氣の結び)
入り身、入り身転換、回転により互いの軸が接しており、そのとき取りは陽の魄氣で入り、陰で軸足を作り、残心か陰の魄氣で結ぶ。このとき取りの魂氣は陰で自身に結んでおり、もし陽であれば互いの軸は離れて魄氣の結びは無い。
ただし、取りの陽の魂氣が受けの項や側頸に結んでおれば、その魂氣が自身の丹田に巡って結ぶと、同時に受けの体軸、つまり魄氣が取りの丹田に結び、入り身・残心の成立である。
また、転換については半身の転換に連れて魄氣が半歩受けに近づくが、体軸の接するほどには接していない
次に、相対動作の呼吸法から技が産まれることを、真空の氣と空の氣(『合気神髄』植芝吉祥丸監修)の私的解釈を交えて記す。
⑴の互いの魂氣の結びについては、取りが陰の陽で玉(心のたましい)を包んで上段に与えるところから始まる。
眉間にかざして止める受けの手刀と取りの手首の接触と共に、吸気で掌をすっかり開く。広義の陽であり狭義の陽でもあるから、陽の陽と表現することにしている。そうすると、受けの手刀は広義の陽であり、狭義の陽でも陰でもなく、一瞬巡りを伴わず静止した上肢である。その上の空間は受けの力の及ぶ間合いにありながら、正しく魂氣の空しい所である(真に空しい天からの氣)。受けとの接点で取りの上肢が伸展されて受けの中(真空の氣)に魂氣が入れば(結べば)、すぐさま取りの魂氣が狭義の陽から陰に巡って受けの顔面を陽の陰で包むことになる(画像①②)。呼吸が巡るように魂氣も巡り、自身の体軸に還り、止まることが無いからである。
受けの体軸を経てその魄氣に響く接触は、取りの魂氣と受けの魄氣の結び、⑵の②である。吸気の終末で陽の陽から陽の陰に巡るとき、開いた掌を受けに見せなければ、手背が受けの異名側の頰部を向く。母指先が耳の下を通り、その反りに合わせて受けの背部に沿い、受けの力の及ばない空間(空の氣)を取りの魂氣が陰の陰で取りの丹田へ降りるから、受けの魄氣に取りの魂氣が響き、なおかつ突き抜けている、⑵の②。その魂氣が取りの丹田に結んだとき受けの魄氣も取りの魄氣に結んで⑶、その接点で地に螺旋で落ちる。両手で氣の巡りと入り身運動を行えば坐技呼吸法で正面打ち入り身投げ表の技が生まれる。
気で満ちた空間を広義の陽の魂氣である受けの上肢が、それより上の天空の魂氣と、下の空間の地から受ける魄氣に分ける。前者を真空の氣、後者を空の氣と呼べば、取りの上肢が真空の氣に巡り、足腰は空の氣で三要素を動作する。真空の気と空の氣が結ぶとは、正に魂氣と魄氣の結ぶ合氣であり、手・足・腰・目付け(体軸)の一致と言うことが出来る。
2015/4/15
身体に満ちた氣、すなわち魂氣と魄氣はそれぞれ天と地から掌と足底に受けることで、前者は上肢から丹田、または側頸・体軸を経て丹田に結び、後者は足底から足腰を経て丹田に結び、そこから頭頂に向かう体軸に連なるものとする。
このような言葉と思いに裏付けられた動作が、合氣道特有の技を生み出す。
例えば、魂氣は上肢を経て母指先から空間に発しては巡り、丹田に結んではまた発することができる。発するのを陽、巡ってくる魂氣を陰とする。
魄氣は足腰で地を踏むことで大地に繋がり軸足が生まれ、対側の足先を置き換えてまた地を踏むことで軸足が交代する。陰陽、入り身、転換・回転の魄氣三要素がこのような想いと一体となって動作が為される。
魂氣と魄氣が自身の丹田で結び、手・足・腰・体軸・目付けの動作に連なり、相対動作では、受けの氣と共にさらなる互いの氣結びによって残心に至り、合気の技が生まれる。
今、受けの魂氣は伸展した上肢に満ちて、小指球や母指先に現れる想いと共に取りの中段に差し出される。上肢を囲む空間は天地に二分され、受けの魂氣と魄氣に対して空の氣であると言える。受けの魂氣に対して天は正に空の魂氣であり、地は受けの足腰に対して空の魄氣である。取りはそれら空の氣において、自らの魂氣と魄氣を巡らせ、入り身・転換することで受けに氣結びをして響かせ、自身への氣の巡りで結び残心の姿勢へ回帰することができる。
真空の氣と空の氣は相対の間合いであって、受けの力の及ぶ所の天地に内在する空間である。そこでは取りが魂氣と魄氣で合氣を為して、取りの力の及ぶ所が生み出される。
2015/4/22
魂氣の接触する瞬間は魂氣の回路が閉じるときと考える。接触する瞬間の氣流の発生はすなわち巡りのはじまりとなり、結びに至る。離れると回路が開き魂氣が受けに響かず、取りに巡らないと考える。
“接触する瞬間”と、“接触した後”の違いを知ること。接触した後は、互いの魂氣のぶつかりによる回路内での氣流の途絶と、言わば発熱が起こり、筋力の拮抗が生じる。筋力を伝えた感触と氣流の響いたそれの違いを感じ取ることは容易である。取りに巡る残心の動作と静止の姿勢に、取り自身で結びを感じ取ることができるであろう。それが禊の本質と一体なのである。
それでも魂氣の接触した後は、対側の魂氣が接触する瞬間を作ることで別回路を閉じる必要がある。その氣流が途絶えた氣流に後押しして巡りを戻すことが肝要である。両手を遣う氣の巡りである。
従って魂氣を与えるときは対側の魂氣を陰で温存して、瞬時に発することができるようにしておくことである。それは半身の軸足に結ぶ体軸を作る魂氣でもある。対側の魂氣の無意味に垂れることを厳に戒めるべきである。
2015/4/26
ただ手首を狭義の陽から陰へ回すだけではない。
脇と肘を畳んで手掌を包んだ広義の陰で、手掌側を内に向けた狭義の陽とすれば、手首を屈曲して母指先が側頸を指すことにより、“降氣の形”が生まれる。
そのまま脇を開くと母指先は側頸に接して、魂氣が体軸に結ぶ。そこから呼気相のまま母指先が丹田まで体幹表面の正中を降りると、魂氣と魄氣が丹田に結び、上肢は脇が閉じて肘が伸展し、左右の手背は丹田にて接する。坐技単独呼吸法降氣そのものである。
“降氣の形”から脇を開かずに母指先を前方に向けると、内向きの母指先が外へ向かうのでこの手首の回転を回外と呼ぶことにしている。ただ手首を狭義の陽から陰へ回すだけではない。手首の屈曲を維持し、側頸に向かう母指先の方向を前方に反転させる。この瞬間は上肢の弛緩・屈曲を限界まで緻密に行う。なおも呼気を続けて上肢の伸展とともに母指先を地に結べば“降氣”の動作である。片手取りや諸手取りの相対動作であれば呼吸投げや固めに繋がる。
“降氣の形”から回外した基本動作を呼気相の終末として、次の吸気とともに母指先から前方に魂氣を発して陽の陰で緊張・伸展するなら、呼吸とともに広義の陰から陽、狭義の陽から陰へと巡る動作となる。
そこで、受けによる片手取りにこの動作を行えば、受けの魂氣の空の氣に結ぶこととなる。つまり、“降氣の形”が受けの手首を反屈に導き、回外の巡りによって取りの魂氣が受けの手首の下面に接することで、受けとの接点より中に母指先が入ることとなる。即ち、受けの魂氣に結ぶ動作である(画像①a,b、②)。
互いの上肢が接点で競り合うことなく、まず魂氣の結びとして接点から受けの方に取りの氣流が及び、受けの真中に、つまり体軸へと魂氣を及ぼしてさらに受けの腰に響かせ、取りの丹田や体軸に巡ってくれば技が生まれる。
受けの下段や上段に魂氣を与えた相対動作で、魂氣の三要素、陰陽・巡り・結びを行えば、いわゆる呼吸法と呼ばれる。片手取り、諸手取り、正面打ち、後ろ取りなどで、呼吸とともに氣結びを行うことが呼吸法であるが、陰陽・巡りが無ければ結びには至らない(画像③④)。
2015/5/9
外巡りで肘を落として回内二本
外巡りとは、陰の陽で臍下丹田の前に掌を包んだ後、母指先を180度外側に転じて陰の陰とし、なおも母指先から氣流を発する如く腋を開いて行くと二教の手となる。上肢のこの動作を外巡りと呼ぶこととする。
外巡りして肘を落とすと上肢は畳まれ、入り身運動によって間合いが詰められる。脇、肘、手首は屈曲し、上肢に着目すれば降氣の形から回外した状態に一致する。
相対動作の片手取りでは、取りの外巡りと入り身運動により受けの手は二教の手となり、肘を落とすと取りの手首の橈側と母指球外側が受けの手首の尺側に接している。
① ここで手首を伸展しつつ手掌を開き、受けとの接点から屈側の近位に向けて陽の陰で発すると、取りの手掌が着き氣結びが成立する。さらに回内して陽の陽に巡ると手背が一段と近位に接して結び、取りの吸気で横面打ち入り身運動を行うことが出来る。
魄氣の結びも加わり片手取り外巡り・肘を落として陽の陽で横面打ち入り身運動である。当然入り身転換を選ぶこともできる(画像①)。
②手首を屈曲したまま陰の陰から陰の陽に巡ると、母指先は前方から螺旋で上方に向かい、他指は外方から地に向かい内方に廻る。すると、掌は受けの手首を屈側で包み込み同側の頸部に結ぶ。体軸の傾斜を直立に戻しつつ、吸気で母指球を回外して前方に突き出すと、陽の陰の魂氣で上肢は伸展される。矢筈で鷲掴みにすると母指球から氣流を奔出させることが出来ない。
ところで、母指球から氣流を発する想いは手首の反屈を伴う。従って手関節から示指の付け根に至る上肢の末梢端は、腋から続く一直線を保持するべく手関節を伸展して示指付け根で氣流の放出する想いを動作に現し、受けの手首脈拍部のつぼに嵌めて体軸を預ける。片手取りを取り返して四教の動作である(画像②a,b)。
外巡りで肘を落とした後手首を伸ばすか、屈曲を維持するかによって、狭義の陰から陽に巡る同じ回内にも、その後の動作や技の成り立ちに明確な違いの生じることが解る。
2015/5/14
体の変更とは、入り身転換で半身を転換した後に前の足を後方に置き換えて再び同じ半身に戻り、魂氣を陽で差し出す動作である。つまり、転換してから元の半身にもどり魄氣は陽とする。
受けは前方に放たれて半身を転換し、取りに相対する。そこで取りは受けに対して逆半身で魂氣を与えると、体の変更が左右の半身で反復される(画像①)。
そもそも体の変更が、他の基本動作、つまり転換や入り身転換(画像②)と連なって技を生みだすことは可能なのであろうか。
体の変更は単独基本動作から派生する一つの技ではないのか。受けに取らせた魂氣を取り自身が向きを換えてその前方に差し出し、受けを前方に放ってから、再度魄氣共々結ぼうとする動作に術理は見いだし難い。
一方、魂氣を陽で差し出して取り自身の魄氣と結びを解き、なおかつ上体を半身とせずに、相対的には前方に体軸を移している受けをその場に止める動作には、体術としての価値・重要さがあり得るのか。
魂氣と魄氣を陽のままで静止し、呼吸も止めて、取り自身に魂氣と魄氣の結びを顧みないとき、受けとの氣結びについて考察するべきであろう。
2015/6/6
取りの正面同時打ちと先手で上段に与える動作 —— 受けは振り降ろす手刀と正面を守る手刀
同時打ちも先手も取りの初動は基本的に同じ魂氣である。それぞれに取りは魂氣を陰の陽で上段にかざし、受けに接すると同時に陽の陽で発する。結びの瞬間受けの手刀は前者では振り降り、後者では静止している。魂氣は巡って取りの魄氣に結ぶのが合氣道の禊の理であるから、ここでも結びに伴う入り身で魂氣が陽の陽から陽の陰に巡る。
前者は振り下ろすから体軸は接近し、陽の陽から陽の陰に巡った取りの手掌は受けの顔を包むことになるが、合氣道の技としては転換して間合いを保ってやる。すると、陽の陰に巡ったとき頤から側頸が取りの前腕橈側に入ってくる。
後者は、接近するがそのままでは結ばない。引き続き相半身外入り身と対側の陰の陽の魂氣が受けの同名側の頸部に結ぶことと一致(両手・足・腰の一致)して、陽の陰の前腕橈側は側頸に結んでいるその対側の手に、上腕の屈側は前頸部に結ぶ(画像①②)。前者と同じで、これらは受けの体軸に沿って腰背部へ響いて底を抜け、取りの丹田に結ぶ。取りは送り足(継ぎ足)で残心と為し、受けはとりの腹側から後方へ螺旋で落ちる。合氣の技が生まれる。
2015/6/12
入り身投げ表と対比した呼吸法昇氣表における術理
入り身投げ表は外入り身の連続で魂氣を陽の陰にて発する。
受けに対して逆半身で受けの外(背側)に入り、送り足で更に相半身の外入り身として、魂氣を陽の陽の昇氣で受けの前胸部を擦り上げながら受けの背に同名側の胸を接する。上肢が頤に当たれば陽の陰に巡って母指先の反りが受けの肩で取りの丹田に向かうと、前腕の橈側が受けの異名側の頸部に密着し、送り足とともに母指先は受けの背に沿って陰の陰で取りの丹田へ結ぶ。残心である。受けは取りの腹側から後方に螺旋で落ちる。
要約すると、入り身では胸が受けの背に当たり、投げでは受けの側頸に魂氣を与えて受けの腰を抜けて取りの丹田に結ぶ(画像①)。
昇氣の呼吸法表は外転換と逆半身外入り身で魂氣を陽の陽にて発する。
片手取りには外転換で丹田に結び、胸取りや突き正面打ちには外転換横面打ちで受けの上肢に振り降りた魂氣を陰の陽で昇氣に反転する。目付けは剣線方向に向けて上体の入り身運動とするから外転換の軸足側の側頸が開いている。何れも陰の陽の魂氣を止めず一気に昇氣で同側の頸部に結ぶと、取りの同側の背は受けの対側の胸に着き、取りの上腕は水平で受けの胸の上端に接している。特に取りの肘は受けの胸骨上窩に嵌り、魂氣を母指先から陽の陽で発すると、肘を中心に前腕が回旋して撓側が受けの同名側の頸部に当たり、魂氣は受けの体軸へと浸透する。前方の足先を踏んで軸とし、母指先に合わせて同側の母趾先から受けの背部に逆半身入り身運動と同時に送り足・残心とすれば、魂氣は陽の陽から陰の陽で体側に巡り腋は閉じる。受けは取りの背側を後方へ螺旋で落ちる。
要約すると、魂氣は陰の陽から昇氣で取り自身の側頸に結び陽の陽で発する。魄氣は外転換・上体の入り身運動で受けの胸に異名側の背を接して、背当て入り身投げと表現する。入身投げでは胸当て入り身投げとする(画像②)。
よく見られる片手取り呼吸法の動作について考察する。入り身転換で体軸は受けの後方に位置し、魂氣を陽の陽に発して受けを前方へ向かわせておいて、今や受けの前頸部に取りの肩だけが接している。そこで、前に伸展させた上肢は肩を中心に後方へ旋回させて受けを後ろ回転受け身へと向かわせる。取りの肩は受けの異名側の頸部に結び、回旋する上肢の中心であるからほぼ固定された部分となる。かざした上肢が受けの正中に降りてくることで、肩から受けの側頸に魂氣の浸透が生じるのか。また、受けの側頸が中心となって取りの手と共に異名側の手が上方へ向かうことで屈曲した受けの肘を、取りが同名側の手で後方へ押しやって後ろ回転受け身の補助とする動作が伴う。
術理については、取りの魄氣の三要素が入り身転換からどのように動いて、軸足の交代はどうするかが明らかにされねばならない。また、魂氣を現す上肢に呼吸法と言える動作が伴っているか、つまり呼吸と共に氣結びが為されているか。これらのことを究めなければ技の成立に確信が持てないこととなる。魂氣が側頸に響かなければ臨機応変で、取らせている腕の肘を対側の手で押し上げれば四方投げ近似で受けを後方に倒すことは可能である。
2015/6/15
三教で取った手を丹田に巡らせたまま後ろ回転の後、軸足の膝から順次地につけて受けを俯せに導き、肩を挟むように正座したとき、受けの小指球を包んだ取りの手は、腋、肘、手首が取り自身で三教の手を現しており、受けに対しては三教の固めが限界となるから、陰の陽に巡らせた対側の手で受けの小指球を包み替える。
受けの尾側の方向へ取りの体軸を傾けて、受けの手掌を異名側の取りの胸で迎えて密着させる。空いた手を陰の陽にして受けの上腕を取りの腹部に密着させ、同時に体軸を正座に戻して行くと三教固めとなる。
受けの母指球は取りの胸に密着し、同名側の取りの手は矢筈に開くのではなく、受けの小指球を包んで蓋をするように母指球が受けの手背に着く。したがって、受けの母指球は手掌とともに取りの母指球と胸の間に挟まれる。つまり、受けの手は取りの手と胸の間に結び、受けの上肢の近位は取りの異名側の上肢と胸腹部に包まれる。
三教固めでは、受けの魂氣が取りの魂氣と体軸に結び、受けの体軸と魄氣は地に結ぶ。
2015/6/23
正面打ちに
右体側から額に振りかぶり右足先は剣線に揃えると踏んで、左足は剣線を外して継ぎ足。
振り降りるのは取りの丹田と受けの真中を結ぶ剣線であり、元の剣線を外しているから受けの額を僅かに側面から打っていることになるが、剣先は正面打ちで受けの体軸の中心を指していることに違いは無い。横面を打っているようでも入り身して正面打ちと同一の中心で振り当てている。受けは剣線上で切り降ろして剣先は下段へ。柄頭を持つ左手は丹田へ。
突きに
左足は剣線を跨ぎ右半身で剣線を外し、正面で振りかぶって右足先を剣線に揃え、受けの真中を打つ。
振りかぶった剣が取りの仙腰部中心に触れることで中心を振り下ろすことができる。
正面打ちには詰めて外す、突きには外して詰める。
2015/6/27
鳥船の魂氣の動作サー・イェイは陽の陰で発し、母指を除く小指側の指を揃えて陰の陽で丹田に巡り、陰の陰で丹田の両外側・腰骨の内側に結ぶ。横面打ち入り身運動の魂氣は陽の陽で発して陰の陽で丹田に巡るが、そこでは結ばないで残心とする。なぜなら、昇氣への動作を窺う姿勢で終わるからだ。
相対動作では残心ではなく転換や入り身転換による陰の魄氣で、魂氣を陰の陽のまま母指を除く小指側の指を揃えて昇氣で側頸までを、腹から胸に沿って擦り上がる。自ずと肘関節で上肢は畳まれ、前腕と上腕は水平となり、腋は完全に開く。
つまり、陰の陽とは、まだ魂氣が陰であり続けるという動作を含んでおり、一方、陰の陰は丹田から肚に結んで静止した状態である。
杖巡りについても同様である。陰の陽で杖尻を丹田に置く間は結びではない。いつでも魄氣の陰・陽・送り足で杖先まで扱き・突いて・陰の陰で丹田に結ぶことのできる姿勢である。あるいは、魄氣の陰で昇氣に巡って額に陰の陰で結ぶことのできる動きの要素を含んでいる。
陰陽・巡り・結びという言葉は魂氣の観念だけではない。単独動作での丹田と体軸に対して呼吸に伴う上肢の動作であるからこそ呼吸法としての形を成し、技が産まれる。
2015/7/8
正面打ち一教表に繋がる単独基本動作は一教運動表である。その本態は、同じく単独基本動作の入り身運動によって両手の魂気が巡る動作である。否、取りの魂氣が巡り、受けの魂氣との結びによって生まれる隙間に、魄氣を入り身する動作と言えよう。
つまり、魂氣は単独呼吸法坐技の両手で氣の巡りの動作である。坐技入り身運動に加えて魂氣を陽で発し、右手が狭義の陽なら左手は陰で、陽の陽から体側に巡り、左は陽の陰から陰の陽で巡って陰の陰で丹田に結ぶ。
また、単独基本動作の入り身運動とは魄氣の陰から陽へと剣線に向けて足を進め、魂氣を受けの真中に発し、対側を送り足とする残心から成る。しかし、一教運動表では厳密には残心ではなく、送り足は前の足の踵を超えて前後が入れ替わり、つまり半身を転換して直に入り身運動を繰り返す。
さらに、一教運動表の入り身運動では、まず剣線を外して外側方に魄氣を陽で進め、送り足で半身を転換して再び入り身の反復で剣線に戻るのである。隅落とし、入り身投げ、天地投げの魄氣に共通する動作である。たとえば正面打ち入り身投げ表では、逆半身外入り身から相半身外入り身であり、正面打ち一教表の魄氣は相半身内入り身から逆半身内入り身である。その逆半身内入り身で魂氣は陽の陰に発し、残心で丹田へ陰の陽で巡って陰の陰で結ぶ。このとき取りの腰が受けの異名側の脇を通して体軸に結んでいる。
受けは体側が取りの腰に結ぶと同時に、取りの残心によって一直線に連なった残心の軸足に沿って直下にうつ伏せで落ちる。そこでは陽の陽で受けの手首に接した魂氣が陽の陰に巡り上から把持する。両手とも陰の陰で取りの丹田と受けの手首に結ぶ。
2015/7/21
受けの突きに相半身外入り身で横面打ち上段受け流しから外巡りで受けの空の氣に結ぶ、つまり下段の空間に魂氣が結んで行くとき、さらに陽の陰で母指先が地を向く状態で受けの同名側の肩へ結ぶには無理がある。
取りが同名側の受けの肩に結ぶ場合は、下段受け流し(剣線を外して降氣の形から回外)により母指先で側頸を突く動作が、その前で肩に手の置く方を選択することによる。合氣道では、急所を打突する術を捨てることで技を生み出す道を選んだのである。
また、受けが取りの両肩を後から取っていく場合とは、取りが上段に与えて陰に巡って外入り身転換により、受けが後両手取りへと移行するときである。つまり、取りが陰の陽で降氣の形に巡ることで自身の側頸を閉ざしたために、受けが取りの手を離して、手前の肩へ陰の陰でその手をかぶせることで後両肩取りへと変化する場合である。
いずれにしても、同名側の肩を取るには陽の陰ではなく、まず間を詰めて腋を閉じて陰の陰で手を置き、背面に入り身して対側の手を返し突き近似で、これは陽の陰にて対側の肩に手を結ぶ。送り足を後方へ置き換えて同じ半身に戻る体の変更を行えば、両手は共に陽の陰で両肩を包んで、前腕屈側が相手の背に密着して陰の陰で結ぶ。
2015/8/1
終わった後のうっすらと汗ばむ感じ
両足の裏がぴたりと地を掴む感じ
左右の仙尾部が拇趾球に連なる感じ
両肩が体軸に落ちて消えた感覚
頭頂とともに後頸部がつり上がり視界の広がる想い
2015/8/3
自然本体、歩行、入り身運動、半身、転換、入り身転換、回転、体の変更
自然本体は左右の足を肩幅に開いて対称に地を踏む。その中間点の地に上体の軸は降りる。左右の上肢は体側に垂れて掌に魂氣を包み、母指先は前方の地を指している。左右の目と肩はそれぞれの高さで両足を結ぶ線に対して平行で、なおかつ前頭断面上にあり、左右対称をなす。
何れか一方の足に重心を載せて、他方は足先を地に置くのみとすれば、上体の軸が重心を載せた足に連なり頭頂から足底まで一直線の体軸となる。地を踏まない足先は自在に置き換えることができて、次に軸足へと交代させることになる。歩行を典型とする体軸移動の機序である。
自然本体から軸足を作り、対側の手を振りかぶり同側の足をその足先方向に魄氣の陽で進めると共に軸足とし、振り降りて継ぎ足は軸足の踵に着けて共に一本の軸足とする。入り身運動である。魄氣の陽と残心から成る。
入り身で残心の直後、後の足に重心を置くと前の足は踵が浮いて爪先だけが地に着いたままとなる。自然体の半身であり、陰の魄氣である。
自然本体から軸足を作り、対側の手を振りかぶり同側の足は進めず剣線の外側で踏み替えて軸足とし、丹田に陰の陽で巡る。目付けは剣線に直角に内方へ転じ、対側の足先も目付けに合わせて剣線に直角に置いて陰の魄氣となる。転換である。
入り身運動の陽の魄氣で軸足を前方に移すとき、足先が内股で剣線に45度で交わる方向へ進め、軸とする際に目付けを後方へ転じて腰も合わせて反転すると、軸足は地を踏んで内方へ直角に捻転する。対側の足先も目付けに合わせて転じつつ軸足に引き寄せると、膝は伸展して陰の魄氣となる。入り身転換である(画像)。
回転は、軸足の交替をその足先周りか、踵周りかによって前方回転、後方回転の違いが生まれる。次の軸足は膝を曲げて元の軸足に絡み付くようにその裏側で交代する。両足で交互に軸足を作ることが、回転する体軸にぶれの生じない要訣である。つまり交代によってもぶれることのない真直ぐな体軸の周りで、目付けが肩や腰とともに転回することこそ前/後方回転の本質である。
体軸とは軸足によって地から上体の軸が直立したものである。回転にあってはその位置がぶれないこと、移動にあっては入り身一足で軸足と共にあり、静止では陰の魄氣で半身の姿勢を自然体とし、左右の足を分けて体軸が空を通れば自然本体となる。
入り身転換の陰の魄氣で前方の足先を後方へ置き換えて陽の魄氣とすれば、体の変更である。魂氣を与えて丹田に巡らせ反対方向へ発する際の魄氣の動作である。
単独基本動作は合氣であり、魄氣の動作に合わせて魂氣の三要素を動作することこそ要訣である。
2015/8/16
上肢を伸ばして掌を開く動作は、魂氣という玉を与えて母指先からは氣力を発するという想いに裏打ちされる。受けに取らせた手首、あるいは受けの手刀に接した取りの手首を中心に、魂氣を包んだ手は手首を伸ばして接点の内に入る。気結びという動作である。そこで掌を開くと氣力が接点から受けの上肢や体幹の中心に浸透していくという想いは、陰から陽へ魂氣を発して受けの体軸、即ち魄氣と結ぶ動作である。魂氣と魄氣の要素それぞれが言葉と想いと動作の三位一体から成り、技が生まれる。
魂氣と想いが受けとの接点の持たない動作を伴うなら、受けに氣力が及ぶことも中心に響くこともない。また、接点を持っても結びの無いまま掌を開いたなら、魂氣の玉は落下し、氣力は天を指す母指先から抜け出るばかりである。互いの手首が一瞬押し合って、言葉と想いによって形が出来、受けが地に落ちても取りと受け自身に三位一体の動作がない。そこに力の有無は既に的外れであろう。
2015/9/6
伝統的・合理的な身心の活動により健康を増進し、和合の心を養う合気道は、中学に限らず保健体育の教科として選択するには最良の武道と考えられる。競い合うことを目的とする格闘技では、せっかくの合理性が顧みられず、むしろそれを逸脱することに専念しかねないからである。そのことで心身に大小の損傷を被る事例が少なからず知られている。
ただし、合氣道の言葉、想い、動作の三位一体無くしてこれを修めるには困難が伴い、まして伝授し、共有することは至難の業であるはずだ。合氣道で用いられる言葉が、想いによる裏打ちとそれに当てはまる動作を悉く伴っていなければ、術理の連鎖はたちまち途絶えてしまうからである。
すなわち、手・足・腰・目付けの動作は魂氣と魄氣のそれぞれ三要素で現わされる。魂氣三要素である陰陽、巡り、結び、そして魄氣三要素である陰陽、入り身、転換・回転はことごとく三位一体からなる動作で成りたっている。
想いに限って広く解釈をめぐらせると、いつの間にか動作を忘れ、伝え難いことの追究に陥っていく。また、明確な想いによる裏打ちをなおざりにすると、その言葉に相当する動作が粗雑とならざるを得ない。基本から外れることで結局力技に偏るか、逆に接点の不確かな相対動作に陥ることとなる。いずれの場合も合氣特有の動作の確立には及ばないわけである。
教育の一環として一層広く認知される合氣道とは、その本体を次第に明確で緻密な動作とする積み重ねの成果そのものであろう。
2015/9/17
極わずかな差に見えて大違いの動作
取らせた手を二教の手、対側の手は四方投げの持ち方で両手を額に振りかぶった状態で結ぶ。つまり陰の魄氣で体軸を直立したまま腰が沈む。さらに前方の足を外股に向けて前方回転の軸足とするから一層腰が降りる。したがって上方へ振り上げることにとらわれず、単独基本動作の横面打ち入り身運動のように両手とも陰の陰で額に結ぶ動作となる。このように魄氣の陰による回転軸の確立と同時に魂氣も陰に巡ることが肝要である。
そこで、前方回転によって受けの手首を持つ魂氣を正面打ち近似で額から陽で突き出すと、受けの項に互いの手が結ぶ。しかし、魄氣の動作が入り身転換であれば互いの目付けは反対方向にすれ違い、受けの手は同側の肩に畳まれて取りの手とともに受けの肩に結ぶ。その結果受けは同側の腰と足を体軸として魄氣に結び、魂氣と魄氣が結んで正立するから地に落ちることは無い。
受けの手首を肩から外して取りの中心寄りにずらせば、魂氣の三要素とは無関係の動作であるが、受けの畳まれた肘と手首が肩での結びを解かれて激痛と共に地に落ち、負傷を被ることになるであろう。もっとも、魂氣の要素に含まれない取りの上肢の動作は筋力に依るしかなく、合気道の術理とは何の脈絡も無い動作である。むやみに、いわば捻って倒そうとする意思から来る動作は互いを活かす術技の対極にある。
技の形とは姿勢と共にあるはたらきであり、「体育と武道」(富木謙治著 早稲田大学出版部)によると、「統一(安定性)と変化(活動性)を同時に持たなければならない」とある。また、古来、「心は意識的なものであって氣は無意識的なものである」そして、気を養う方法については、「精神の根底に暗さや、邪悪があってはならない、正義に立たなければならない」とされてきた。「これには道義的背景に立つ場合と、宗教的背景に立つ場合とがある。」という。
いずれにしても、四方投げの稽古においては受けが後頭部や肘の怪我をしないよう取りが注意を払うことは言うまでもない。しかし、そのこと以前に合氣と四方投げの術理に踏み込むことで、稽古を通じて間違いの起こりえない動作を体得すべきであろう。
2015/10/6