『合気神髄』より、
〝円に十を書く、その十の上に自己の左右の足で立つ〟p172
〝天地の和合を素直に受けたたとえ、これが天の浮橋であります。片寄りがない分です〟〝右足をもう一度〟〝踏む〟〝自転公転の大中心はこの右足であります〟p69
〝こんどは左足、千変万化、これによって体の変化を生じます。左足を三位の体にて軽く半歩出します〟〝また右足は〟〝動かしてはなりません〟〝すべての気を握るのは、この右足〟である。P70
〝左足だけで巡るのである〟p172
このとき魂氣を受けた手の動作においては〝左はすべて発し兆し、無量無限の気を生み出すところであります〟〝魂の比礼振りが起こったら左が自在に活躍します〟p70
〝魂の比礼振りは、あらゆる技を生み出す中心である〟p108
p105について
開祖が左、右と限定して説明する言葉には、手と足の役割が左右それぞれ移り代わるなかに技の生まれる仕組みが表わされている。また、自然の法則、原則というわかりやすい表現にとどめて、臨機応変、自在に動くことが必要と説いている。
曰く、〝五体の左は武の基礎となり、右は宇宙の受ける氣結びの現れる土台となる。この左、右の氣結びがはじめ成就すれば、後は自由自在に出来るようになる〟
〝すべて左を武の土台根底とし、自在の境地に入れば〟つまり軸足交代によって、不思議な〝身の軽さを得〟て、〝魂の比礼振りが起これば〟〝右は左によって主力を生みだされる。また左が盾となって、右の技のなす土台となる。これは自然の法則である。この原則を腹において、臨機応変、自在に動くことが必要である〟
開祖の「動き」とは、はじめ右足を動かさず左足を巡らす。左に軸を移せば右の手は軽くなって技を生み出す主力となる。これは自然の法則である、という。
開祖の言う〝三位の体〟とは結局、軸足と非軸足をつくることであろう。体軸側の手は重く、自由に巡る非軸足側の手は自在に空間へと発することが出来る。したがって、軸足を交代すれば体軸側であった手は自由な非軸足側となって技を生むことができる。このときの手は不思議な軽さを得て魂の比礼振りが起こると比喩されており、〝心の持ちよう〟でこのことが可能になる、と開祖は言う。
かねてより私は魂氣三要素、陰陽・巡り・結びが手の働きをなすものと考えている。魂の比礼振りとは手が魂氣によって働くことを指し、魂氣三要素と同義であろう。
これらのことから、左右の手を働かす際も、杖を用いるときも、軸足側と非軸足側を随時使い分けるのが原則であって、両足で同時に踏ん張ることや、同時に両手で剣・杖を握ることはそれぞれ非合気の象徴であると言えよう。
2019/7/11
驚くほどに直截的な開祖の言葉を『合気神髄』の中から見出したときは、後生に向けられた深い思いやりを感じずにはおれない。
さらに、開祖が擬態語を発せられるくだりもある。
p118〝すべてのものをやるさいに、天の浮橋に立たされてということになれ、と、こうなる〟
p119〝こう立ったなれば、空の気と真空の氣を通じてくるところの、宇宙のひびきをことごとく自分の鏡に写しとる。そしてそれを実践する〟中略
〝相手が歩いてくる折りにじゃなア……。全部知らなければいけない。合気は相手がきたらスパーといく。今ここに相手がくる。坐って立とうとすると必ず分かる。あまれるところをもってホイ。小戸の神業である。
今日のすべての世の中の出来事は、神さまがなさる。そして立て直しは各自がしなければならない責任がある〟 中略
〝合気は相手の目を見たり、手を見たりしてはいかん。自分の心の問題、絶対に見ない。こういう具合に……。いわば法華経の念彼観音力である〟
〝スパーといく〟と言う動作は、p70〝三位の体〟で軽く半歩出した左足に始まる千変万化、たとえば燕返しのような入り身転換であろう。鳥船の魄氣の陽と陰、すなわち禊である。
〝自分の心の問題〟という指摘は、相手の動作を見て、受け止めて考えてから動作をはじめるのではない、ということか。
さらには、P67〝自由はこの重い空の気を解脱せねばなりません。これを解脱して真空の氣に結べば技が出ます。解脱するには心の持ちようが問題となってきます〟と言う言葉にも通じる。すなわち、受けと一体になった取りの魂氣と魄氣(空の気)の結びが軸足交代によって対側の手足に移ると、受けに連なった手はそのまま自身と受けの体軸から解かれて、p103〝身の軽さを得る〟のであって、言いかえると、
p70〝魂の比礼振りが起こったら〟丹田から発して母指先で虚空に円を描く(真空の氣に結ぶ)ことができる。
逆に、このことを心にとめるから自然に軸足交代がなされるわけだ。合氣の思いが緻密な動作を裏付けることになり、言葉と思いと動作の三位一体が合氣の根元である(p178参照)。
さらに、p178〝「心」と「肉体」と、それを結ぶ「気」の三つが完全に一致して、しかも宇宙万有の活動と調和しなければいけないと悟った〟。ということは、天にある心のたましい魂から手に受ける氣と、地にある肉体のたましい魄から足腰に受ける氣が、呼吸とともに丹田において一致すること、つまり合気は禊そのものであり、p179〝真理の力が身心に加わるのである〟と。
2019/7/14
言葉と思いと動作の三位一体は人の行いそのものである。
もちろん合気道だけの概念ではない。密教では三密加持、法華経では念彼観音力。
ところで、合気とは魂氣魄の三要素が呼吸とともに一致して身心を調和させ、そのことで新たに加わる生命力を実感することである、と開祖の『合気神髄』からうかがえるところである。
吸気で拡げた両手に天から魂氣を受け、地からは足腰に魄氣を受け、呼気で丹田に巡った手は軸足を経た体軸で魄氣と結び、再び吸気で上肢を伸展して母指先から魂氣を虚空に発し、呼気にあわせて丹田に巡る。
丹田で体軸に与る魂氣は〝空の気に結ぶ〟とも表現され、軸足とともに動かすことの出来ない体軸内に在り、その手は体軸上においてのみ呼気で上下させることが出来る。
一方、非軸足側の手は吸気で虚空に伸展して魂氣を母指先から、更には掌やすべての指先から、発することが出来る。『合気神髄』によると開祖はこれを、とらわれの心が一切無い〝真空の気に結ぶ〟、と表現されている。
私は真空の氣を陽の魂氣、空の気を陰の魂氣と呼んで、手のあらゆる動作を言葉で表現して伝えることが出来るようにしている。これをさらに狭義の陰陽、つまり手掌が地に向けられると陰、天に向けると陽と言うふうに分けている。そこで、広義の魂氣を先に呼んで、たとえば陽の陰とか、陰の陰というふうに呼べば手の4通りの位置が表現できる。
一方、合気道など武術に限らず、社会生活においても、言葉の概念がはじめに曖昧であれば、とんでもない判断の誤りに陥ることとなり、やがて自己存立にまで瓦解が及ぶのは自明である。
開祖曰く〝「言葉は神とともにありき」の状態におかなければいけない〟〝心を表現する言葉〟と〝調和した肉体の活動が無ければならない〟(p178)
魂氣三要素の陰陽、巡り、結びがそれぞれ呼吸とともに動作として確立しなければ技を生じることも無いのである。曖昧な言葉で動作を表現しても、技を伝えることは出来ない。
言葉は客観性を無視して個人の観念の内にあるものではない。真理を表すものでなければならない。〝「言葉は神とともにありき」の状態におかなければいけない〟
2019/7/19
1. 天の浮橋に喩える禊の念い
P28〝合気道は天地の合気、 中略 天と地を結んでしまうのであります〟 中略 〝天の浮橋〟に立ち、〝舞い上がり舞い下がるところの気を動かすことが肝要であります〟
p69〝天地の和合を素直に受けたたとえ、これが天の浮橋であります。片寄りがない分です〟
P29〝気が巡るのです〟 中略 〝魂の気で結ぶのです〟(動画①)
p95〝阿吽の呼吸が、左、右、左と巡環に払って禊すれば〟 中略 それによって〝生じた武の兆しは、世の泥沼から蓮の浄い花咲く不思議なる巡り合わせのように、不思議なる魂の花が開き、各自の使命の実を結ばせ、心で身を自由自在に結ぶ〟
P96〝すなわち魂魄の結合の武の本義を現わす〟(動画②)
2. 五体と宇宙に働く魂氣の陰陽
P104〝念は目前の勝敗という形にとらわれることなく、宇宙に正しく、気結びしなければならない〟
P105〝念は五体にとどまっていると、転生しない。結んではじめて生成してくるのである〟 中略
〝また、念を五体から宇宙に気結びすれば、五体は宇宙と一体となって、生滅を超越した宇宙の中心に立つことも出来る。これが武道の奥義である〟
私は天から受ける魂の気は丹田に結ぶと陰、吸気で虚空に発する手を陽の魂氣と表すことにしている。
3. 国之常立神に喩える呼気相の軸足確立
p75〝口を一ぱいに開いて、のどの奥底より、呼気を吐き出すこと。この時必ず「ア」と鳴り出す。 中略
ア声はいかに鳴らしても常立(とこたち)にして変化はありません。ゆえにア声を国之常立の神、国底主(くにそこぬし)の神と申します〟
P69〝左は発し、右はこれを受ける〟中略
〝右足をもう一度、国之常立神(くにのとこたちのかみ)の観念にて踏む〟 中略 〝自転公転の大中心はこの右足であります〟
P70〝今度は左足、千変万化、これによって体の変化を生じます。左足を三位の体にて軽く半歩出します〟 中略
〝右足は国之常立神として動かしてはなりません。すべての気を握るのはこの右足国之常立であります〟
4. 体軸から解かれる魂氣の喩え「比礼振り」
p70〝左はすべて発し兆し、無量無限の気を生み出すところであります〟 中略
〝魂の比礼振りが起こったら左が自在に活躍します。左で活殺を握り、右手で止めをさす。これが左の神業の意義であります〟
p105〝すべて左を武の土台根底とし、自在の境地に入れば、神変なる身の軽さを得る。右は左によって主力を生みだされる。また左が盾となって、右の技のなす土台となる。これは自然の法則である。この原則を腹において、臨機応変、自在に動くことが必要である〟
P106〝すなわち、魂の比礼振(ひれふ)りが起これば、左手ですべての活殺を握り、右手で止めをさすことができるのである。これが神業(かむわざ)である〟
5. 空の気と真空の気を魂氣の陰陽で表す
魂の比礼振りが起これば左手ですべての活殺を握る、という動作の実際は、以下の言葉からうかがうことができる。
p67〝気がまえが自由に出来ておらぬ人には、充分な力は出せません。空の気と、真空の気の置きどころを知ることが第一であります〟
〝真空の気は宇宙に充満しています。これは宇宙の万物を生み出す根元であります。空の気は物であります。それがあるから五体は崩れず保っております。空の気は重い力を持っております〟中略
〝自由はこの重い空の気を解脱せねばなりません。これを解脱して真空の気に結べば技が出ます〟〝解脱するには心の持ちようが問題となってきます〟
〝魂の比礼振りが起こる〟とは即ち〝空の気を解脱して真空の気に結ぶ〟動作が可能となることと同義であろう。さらに、右の軸足つまり空の気(魄氣)と共に体軸に与っていた右の魂氣が、左に軸足交代することで体軸から解かれて〝身の軽さを得る〟こととなる。〝これは自然の法則である。この原則を腹において、臨機応変、〟〝左手で全ての活殺を握り、右手で止めをさすことができるのである〟。
つまり、相手の魄氣と結んだ体軸が右から左手足腰に移ることで、右手は同側の足先に合わせて吸気で自在に魂氣を発することが出来る。相手にはP179〝真理の力が心身に加わる〟こととなり、これこそは呼吸力である。
6. 魄氣と魂氣それぞれの円
P171〝人間の力というものは、その者を中心として五体の届く円を描く、その円内のみが力のおよぶ範囲であり、領域である〟 中略
〝己れはたえず円転しつつ、なお己の円内に中心をおき、そして逆に、相手を相手の円外に導き出してしまいさえすれば、それですべては決してしまうというわけである〟
P172〝すべての円を、キリリと描くのである。円に十を書く。その十の上に自己の左右の足で立つのである〟 中略
〝立ったおりに、右足を動かしてはいけない。左足だけで巡るのである。そして天の気、地の気、要するに天地の気と気結びすることである〟 中略
〝円に十、気の線を描いているのである。合気というものは、宇宙の気と合気しているのである〟
P175〝五体のひびき〟と
P176〝宇宙のひびきと、同一化すること。そして相互交流。この変化が技の本となるのである。
すなわち「気の妙用」である。五体と宇宙のひびきの同化。これにより光と熱と力が生まれ、この現象は微妙な妙用である。技は五体のひびきと宇宙のひびきと氣結び、緒結びし、千変万化するのであるけれど、我々は五体のひびきから光と熱と力を生じさせるような稽古をし、宇宙のひびきの中の空に技を生み出していかなくてはいけない〟 中略
〝心身の統一は技の発兆の土台となるが、技はこのようにして宇宙の法則に合しなければいけないのである。宇宙の法則に合した技は止まることなく生成化育の大道を歩み、千変万化の技を生みなすのである〟 中略 〝我々の宇宙の本と人の本の一元を知り、すべての中心を確立しなければいけない〟
7. 軸足交代で可能となる自由な手足の働き
以下は国之常立神に喩えられた軸足についての私見である。
呼気でイエイと下丹田に魂氣を結び右足を軸とし、左足を半歩軽く出した三位の体は、禊の際、鳥船の左半身で軸足を右に置いた姿勢である(動画②)。また、右半身片手取り入り身転換で、与えた手を下丹田に結んで軸足側とし、対側の左手足先を三位の体で開いた左半身の姿勢(陰の魄氣)である。受けの左手は取りの右手にすがったまま取りの下丹田に接着する。体幹は側湾して左半側は取りの右軸足に連なる体軸へ密着する(動画③)。
はじめに〝右足を動かしてはいけない。左足だけで巡るのである〟ということで、〝後は自由自在に出来るようになる〟。転換から入り身、入り身転換、体の変更、回転など軸足交代を連ねる体軸移動と共に非軸足側の魂氣は自在に発せられ、相手に結んで竟には自身に巡って合気がなされる。その際、魂氣は受けの底を抜いて技が生まれるのである。つまり、腰仙部に抜けると受けは螺旋で落ち、下丹田と上丹田の上下に抜けると前方への投げや固めとなる(動画④)。
右半身諸手取りでは、アーと呼気で魂氣を掌に包んで上肢を畳み、右母指先で右側頸を指して魂氣を結びつつ、外転換により右足を軸として左足を半歩軽く出すと三位の体となる。右の手足腰が体軸を確立すると受けの体軸は側湾となって取りの魄氣に結ぶ。そこで左足に軸足交代すると、右の手足は入り身で呼吸法、あるいは回外した右母指先とともに右膝を地に着いて呼吸投げ、または入り身転換反復で二教入り身投げなどが生まれる。
体の変更とは、左半身の陰の魄氣で入り身転換が成った後に、左足を後方に一歩置き換えて右半身の陰の魄氣で非軸足側となった右手は下丹田に在りながら今や魂氣を発する体勢にある。しかし、一般には右半身の陽の魄氣にて鳥船で前方に両手を差し出す姿勢がとられる。これでは三位の体や軸足確立と無縁であることが明らかである。また、二足を一本の軸足とする入身一足の残心についても、常立神を比喩にした千変万化の起点とする合気特有の立ち姿ではない。むしろ、三位の体から様々に変化する足腰の動作で体軸移動が臨機応変に為された瞬間の形であろう。
8. 体軸に与る魂氣
p105を要約すると、右は宇宙の受ける気結びの現われる土台となるが、全て左を武の土台根底とし、軸足交代して自在の境地に入れば神変なる身の軽さを得る。すなわち右は左によって主力を生み出される。左が盾となって、右の技のなす土台となる。
右で全て気を握っていたものを、魂の比礼振りが起こって左手が全ての活殺を握るようになって、右手は止めさすことができるのである。
体軸から解脱した魂氣(手)こそは相手を自在に導くことが出来るのである。それに反して、相手の重さも自己の体軸も右手に受けて、右足を軸としたままで虚空へ掲げようとする動作は、五体に止まった念いが宇宙に正しく氣結びしていないわけである。宇宙と争っては気が折れかねない(p105要約)。自己の念いが宇宙を忘れて動作しようとする限り、進歩向上は存在しない(p104要約)。空の気を解脱せずして真空の気に結ぶことはできない。
2019/8/1
自然本体で後手/同時
自然本体で受けの右正面打ちに、後手で外転換は杖巡りか横面打ちでの「両手で氣の巡り」。同時なら受けの振りかぶりに同名側の右手を相半身振込突きで合わせて、続く左手の横面打ちで逆半身外入り身転換とし、同時に右手は腰仙部に大きく巡らす。
相半身で後手
右正面打ちに相半身で後手のとき、つまり、右半身で陰の魄氣(三位の体)により右手で魂氣を与えようとした瞬間、受けの正面打ちの振りかぶりがある場合。右手は上丹田に鎬を作って陰の魂氣となるから自ずと軸足側とするために右足の踵は剣線を受けの外へ外して踏み、軸足とする。左手の返し突きで逆半身左外入り身は一教裏。
相半身で同時
右正面打ちを相半身で同時に合わせて対側の左手を上丹田に鎬で置くと受けの手刀の遠位に触れる。内転換で右非軸足を剣線に直角に置き換え、同時に右手は下丹田に巡って左半身の陰の魄氣(三位の体)で左手は陽の陽で受けの手刀を抑えている。左足をその場で軸として右半身振込突きの内入り身で真中を撃って受けの左手の返し突き近似で払わせる。右足を軸として左足を後方に置き換える内転換で右半身陰の魄氣とし、右非軸足先は剣線を超えて進めると同時に、払わせた右手は外巡りで受けの手刀を近位で外に払って(交差取り入り身転換同様、母指先と拇趾先は反対方向へ捌く)右足に軸を交代し、対側の左手で逆半身横面打ちにより外入り身。「転進」と呼ばれている。
相半身で先手
先手では取りが掌に包んだ魂氣を上段に与えて受けの同名側の手刀で正面を守らせ、接触と同時に陽の陽で発して相半身内入り身で残心とする。つまり魂氣は取りの上丹田に結び右手足は体軸側となる。左足は右の足背に被り、足先は直角に逆半身内入り身の方向に進める(井桁に進む)。左手は振込突きで足先に合わせて受けの右手刀の上腕を矢筈で包み、両手で氣の巡りによって魄氣の陰の姿勢で受けの全体を下丹田に吸い込む。相対動作の一教運動表。
参考:片手/交差取りの逆半身/相半身
三位の体から下段に与えたあとの入り身においては足先をさらに半歩進めるが、片手取りにしろ交差取りにしろ、与えた手の母指先は足先とは反対側に巡らせて入り身の進路に隙間を作ることが必要。前者は取りの内に巡らせ、後者は取りの外に巡らせる。いずれも受けに対しては背側へ入り身の足先をすすめる。
参考:横面打ちに同時(後手は省略)
逆半身横面打ちに異名側の手で鎬を造って相半身入り身にて対側の手で振込突きとするが受けに払わせることで相半身のまま内転換で陰の魄氣(三位の体)とする。払わせた手を外巡りで受けの上体と手刀を取りの外へ捌いて、同側の非軸足を受けの背側へさらに半歩進めて軸とし、対側の手で逆半身横面打ちにて外入り身転換とする。このときも、外巡りの母指と同側の半歩進めて軸とする足先(対側の手による横面打ちあるいは返し突きのための軸足)は剣線を境として互いに反対方向へと動作する。
魂氣と魄氣の動作の方向が反対になる場合がある。一方で、取りの胸と受けの背を合わせる入り身投げや、取りの背と受けの異名側の胸を合わせる昇氣呼吸法のように、陽の魂氣を虚空に発する際は同側の非軸足先を同方向へ大きく半歩出すことになる。
「転進」と入り身投げ・昇氣呼吸法は同側の手足の動作が対照的であることに留意すべきである。
2019/8/14
禊は合気であり、合気は禊からはじめる(合気神髄p145)、合気は禊である(同p150)。
禊とは、左右かたよりのない足で立って天地の気を思い、これに結ぶ(天の浮橋に立つ)。そして鳥船である。呼気でイェイと体軸を後の軸足に載せて上体を直立させ、前の足先は軽く半歩出して地に触れるのみとする。これは開祖の教えである三位の体(同p70)と考えられ、私はこれを魄氣の陰と呼ぶことにした。
吸気でホーあるいはサーと両足で地を踏みつけて体軸をその間に進めるが、上体はあくまで直立し、両手は魂氣を発する思いで半身にて差し出す。自ずと後ろの足は伸展し、前は下腿が直立して体軸は前方に寄り、魄氣との直接の連なりは消えて軸足を失う。これを魄氣の陽とする。鳥船では息を止めずに呼気相へ移るから静止せずに魄氣の陰へと巡る。
「合気神髄」から、三位の体は千変万化、合気道の足腰の動作における基本である。たとえば魄氣の陽を経て継ぎ足によって入身一足の残心、つまり両足が揃って一本の軸足となり体軸が直立する。同時に吸気で魂氣が極限まで発せられ、伸展した手で円を描いた瞬間が魄氣の陽であり、体軸に巡った手が呼気で魄氣に結んだときこそ残心である。呼気の終末には再び三位の体を表し、あくまで体軸は一本の軸足に預ける。
一方、前の非軸足が対側の踵の後に回って軸足交代すると体の変更となり、さらに軸足交代で入り身転換、後ろ回転へと動作出来る。前の非軸足がその場で外股の軸足へと交代すれば後の非軸足は一歩前に進んで内方へと回転出来る。前方回転である。
また、前方の非軸足を畳んで膝を地に着けば軸足交代で体軸は膝と共に直立し、他方の足も畳んで膝を着くとその場に正座が可能である。
すなわち、両足が前後に踏ん張って(魄氣の陽で)、体軸がその間で地に結ばず、言わば浮いた状態にあって、そのまま静止することは天地に結ぶ合気の姿とは言えまい。つまり、魄氣の陽は動作の中にあるべき姿勢であって、静止の形や残心の姿とはなり得ない。
魄氣の陽は入り身から残心に繋がる動作の瞬間に現われる足腰である。
それに比べて魄氣の陰はあらゆる変化へ向かう静止の姿勢である。魄氣の働きは軸足の交代で足腰が陰陽に巡って体軸の動静を確立させることにある、と言えよう。
2019/8/22
手刀は広義の陽であるが狭義の陰でも陽でもない。受けの手刀に取りが手刀を同時に合わせた瞬間、掌に包んで与えた先手の場合のように陰から陽への結びに伴う入り身は実現しない。すなわち三位の体から陽の魄氣で受けの内に入ることはできない。
また、後手のときは陰の陽で上丹田に結ぶ鎬を造り、同側の非軸足で剣線を外して軸とし、体軸に与ることができる。一教裏の初動である。もっとも、剣線を外せない瞬間にはそのまま軸として外転換で魂氣は陰から陽へ結ぶことが出来る。軸足交代して陰の魄氣となることで剣線を外すわけである。
すなわち、同時の手刀は先手でも後手でもなく、敢えて先手と同様の動作に入れば接点で抵抗に会い、後手の動作へ退けば剣線を外す間もなく詰められる。手刀の片手単独では魂氣の巡りと結びが生まれない。
受けの手刀へ同時に手刀で触れた瞬間、対側の魂氣を陰の陽で鎬にして、手刀は陰で巡って同側の非軸足と共に外巡りで受けの内に転換するしかない。そうすれば、剣線は外れ、鎬の手は陽の陽で開くから受けの手刀を取りの下段へ抑えることが出来る。そこで軸足交代すると外巡りの手は陽の陰で正面当てへと滞ることがない。その相半身内入り身によって陰の魄氣から軸足が前に代わる瞬間、受けは対側の手で取りの外から内へ正面当てを払うのが理合である。取りは即座に相半身内転換で再度剣線は外し、払わせた手は受けの手刀の上腕から遠位へ再度外巡りで外へ払うと、同時に前の非軸足先を外股でさらに半歩踏み入れて軸とし、受けに対して逆半身横面打ち入り身転換とする。
互いの形を考えて動きを繋ぐことは現実的ではない。軸足交代と両手の陰陽・巡りが理合いとして息継ぎの中で連なることが肝要である。
外巡りの手と反対に同側の非軸足を前へ進めるのは「転身」と呼ばれている。たとえば片手取り入り身転換では与えた手を内に巡って同側の非軸足が入り身し、交差取り入り身転換では外に巡って同側の非軸足が入り身する。魂氣と魄氣が同時に逆方向へ巡り・発せられる動作である。
これと対照的には、入り身投げや昇氣呼吸法、あるいは一教表の振込突きに伴う逆半身内入り身のように、大きく半歩進む非軸足先に合わせて、体軸から解かれた同側の魂氣が同方向へ最大限に円を描いて虚空へ発せられる動作がある。
左右の魂氣については、単独動作や片手取りにおいて入り身転換反復の際の取りのそれぞれの陰陽が軸足交代との恊働に与る。あるいは、両手取りに見られる陰陽・天地と反対に動作するのは受けの体軸に捻れを造り、合気の合理的恊働と言えるが、同側の魂氣と魄氣にも反対方向への動作があってよいわけだ。それと言うのも、魂氣は円を描いて巡るうえに、魄氣は必ず軸足が交代して転換を連ね、速やかに同側で互いの氣結びが為されて合気が生まれるからである。
2019/8/24
天之常立神(あめのとこたちのかみ)は天の床立ちの神:天(てん)の床は確固と立っていて、天が落ちてくることはないという確信を伝えた神
国之常立神(くにのとこたちのかみ)は国の床立ちの神:国土の床は堅固に立っていて、床が抜けて落ち崩れることはないという確信を伝えた神
これらの神が姿を現した時は、我々の先祖が物の認識を始めた時期であり、言葉を持つようになった時期であろう。
大津栄一郎 古事記上つ巻 きんのくわがた社
2019/8/29
入り身と二教は合氣道を特徴づける代表的動作・技である。よく稽古に取り上げられ、独特の動作は確かに取り受け双方にとって印象が強い。私も初めて稽古をつけてもらって数日のうちに、体の芯が崩される圧力と、腕の先から体の底に抜ける圧倒的な激痛を知った。しかも、繰り返し技を受けて体が故障するわけではなかった。受けが合図と同時に解放される瞬間には安堵感と達成感が同時に湧き上がりこれも独特の快感であった。
無論二教では常に阿吽の呼吸が肝要である。これを怠れば怪我を生じることとなり、試合のない合気道においては恥ずべきこととなる。また、二教の秘訣は、母指球から小指球へと魂氣の作用点が掌の幅だけ受けの手首尺側から伸側近位へ入り、同時に下丹田へ母指先が巡ってくる動作に尽きる。
今、鳥船の足腰の動作を魄氣の陰陽と呼び、陽の魄氣から軸足を前に交代させた時を単独動作の入り身の完成、すなわち残心とする。二本の足が一つの軸足となって直立する瞬間である。
魄氣の陰から陽を経て静止せず入り身の完成する動作、つまり継ぎ足から軸足交代によって体軸が受けの中心部に密着する瞬間は、二教において母指球から小指球へと接点が受けの手首上で近位に移り、魂氣がその中心にまで及ぶことと近似している。軸足交代による入り身と母指球から小指球への交代による二教は、魄氣と魂氣の違いはあるものの、動きの特徴が近似する。その特徴とは気結びである。
二教が単に受けの手首を捻り押さえつける動作ではなく合気・呼吸法であることを以下に詳述する。
片手取りに外巡りから陽の陰で母指先が受けの真中の空間に入って地を指すと母指先の反りに合わせて受けの橈側手首に母指球外縁が接し、それを支点として小指球が掌の幅だけ受けの手首近位に狭義の陰で入り、同時に上肢全体が広義の陽で緊張伸展すると、母指先の反りは円を描いて下丹田を指す。魂氣は陰の陽に巡り下丹田に氣結びすることで二教の技が生まれる。
入り身は軸足交代による体軸移動、つまり魄気の陰陽から残心で受けの芯に喰い入る。二教は母指球から小指球への交代に連なる魂氣の巡りが受けの芯を掬い取り、下丹田へと結ぶ。
立技片手取り外巡り・外転換二教では、魄氣の陰陽陰の巡り(入り身)が魂氣の陰陽・巡り・結びと同期する動きになることは言うまでもない。
2019/9/1
魄氣という言葉には、地から肉体のたましいに由来する氣が足腰を経て下丹田に結び、軸足を作って体軸を直立させるという思いが込められている。また、非軸足を自在に置き換えては軸足を交代し、体軸の位置は様々に変化する、という動作も含まれている。
他方、魂氣という言葉には、吸気で掌を天に向けて拡げ、虚空の気とともに天から心のたましいを受けては、呼気で丹田を経て体軸に取り込むという思いと手の動作が含まれている。坐技の単独動作呼吸法である。更に吸気で上肢を伸展しては母指先から魂氣を空間に発し、呼気で掌の魂氣を包んでは丹田に巡らせる手の動作がそれぞれ魂氣の陽と陰の働きによるものと考えることにする。
いま右足腰に魄氣が結んで軸足の確立したとき、同側の魂氣は陰で巡って軸足とともに体軸に与る。腋が閉じて上肢は体幹に密着し、まさに体軸の一部となる。手首が弛緩屈曲して上を向けた掌に魂氣を包んだ手が狭義の陽で下丹田に密着する。このとき左の手は広義の陽で虚空に掌を開いて差し出し、同側の非軸足は軽く半歩出して足先が地に触れており、〝三位の体〟と呼ぶ(『合気神髄』より)。単独基本動作入り身転換・左半身の姿である。足腰に限って言えば鳥船の呼気で下丹田に魂氣を取り込んだ姿勢であり、これを陰の魄氣の働きによると考えることにする。
そこで、左手足を後ろに置き換えて軸足交代すれば左手は腰仙部に密着して、左手足腰が体軸に与り、右手は下丹田に在りながら最早体軸から解かれている。右足は軽く半歩出した姿勢となって足先が地に触れるのみだ。右半身の三位の体である。左半身から右半身へ(三位の)体の変更が軸足交代によって行われたわけだ。左足腰を軸とする右半身の陰の魄氣となる。
今、鳥船のイェイで吸気とともに右手の掌を上にして魂氣を差し出し、後ろの左軸足を伸展して体軸が前に偏ったとき、魄氣は右半身の陽と呼ぶことにする。つまり、体の変更とは鳥船近似で陰の魄氣(三位の体)から陽の魄氣へ体軸が前に振れて、魂氣は下丹田の陰から虚空へ陽で差し出される動作である。
次に相対基本動作である。左の掌に包んだ魂氣を陰の魄氣で差し出し、左手首を取らせる瞬間、母指先を地から内方へ巡らせて同側の非軸足と腰を腋の隙間から受けの外側に進め、内股で着地すると魄氣は陽となって腋が閉じる。
軸足を前方の左足に交代して左上腕は体幹に密着し、左足底が地を踏みつけてさらに45度内方の捻りによって腰が180度転換すると、受けの手に連なった左手首は弛緩屈曲したまま掌が上を向く狭義の陽で相対的に下丹田と結ぶ。これと同期して右手は陽で正面に差し出し右足は非軸足となるから爪先を右手指先方向に合わせて半歩軽く出した状態となる。左半身から右半身へ入り身転換して陰の魄氣、すなわち三位の体に戻ったわけである。受けの手と取りの左手足腰は体軸となって地から直立している。したがって受けの体軸は側湾となって取りの上体に寄りかかっている。片手取り入り身転換は受けの魂氣のみならず魄氣も取りの下丹田に結んでいると言える。
そこで、右手足を後ろに置き換えて軸足交代すれば右手は腰仙部に密着して、右手足腰が体軸に与り、左手は下丹田に在りながら最早体軸から解かれている。左足は軽く半歩出した姿勢となって足先が地に触れるのみである。左半身の三位の体である。
左半身で魂氣を与えて右半身への入り身転換から再び左半身へと(三位の)体の変更が二度の軸足交代によって行われたわけだ。足腰は左半身の陰の魄氣である。
今、鳥船のホー(またはサー)で吸気とともに左手の掌を上にして母指先から魂氣を差し出し、後ろの右軸足を伸展して体軸が前に偏ったとき、魄氣は左半身の陽と呼ぶことにする。つまり、体の変更では鳥船近似で左半身の陰の魄氣(三位の体)から陽の魄氣へ体軸が前に振れて、魂氣は下丹田の陰から左手で虚空へ陽で差し出される。同時に左手首に連なる受けの右上肢も、取りの左足腰からなる体軸に結んでいた受けの魄氣も、今や体軸から解かれて前方へと放たれる。
下丹田に結んで体軸に与る魂氣は、同時に虚空へ発することはできない。体軸は上中下丹田を連ねて魄氣と結んで地に根を張るのであって、「空の気」(合気神髄)に相当する。また、「真空の気」(合気神髄)とは天空に広がる自由なる魂氣そのものであろう。
〝空の気を解脱して真空の気に結ぶ〟という表現は、互いの魄氣が結んだ取りの体軸から、軸足交代によって解かれた手を伸展させて受けに取らせたまま自在に虚空へ魂氣が発せられることと考えられる。体軸に与る陰の魂氣が魄氣との結びを解かれて陽で発せられるということである。
開祖は、〝身の軽さを得る〟、〝魂の比礼振りが起こる〟とも表現されている。
単独動作の入り身転換とは、鳥船近似で陰の魄氣から魂氣を与えて内巡りとし、下丹田に巡ると同時に腋の隙間から同側の非軸足を半歩入り身し、内股で軸足交代の上に目付けを180度転換して陰の魄氣(三位の体)に戻る。つまり魂氣は与えかけたものの、巡って下丹田に結び体軸に与る。対側の手は始めの腰仙部の体軸から解かれ、非軸足先に合わせて目付けの先へ陽の陽で掲げる(動画①)。
体の変更は、入り身転換から非軸足と同側の魂氣を後ろに置き換えて軸足交代し、陰の魄氣(三位の体)で始めの半身に戻る。対側の手は陰の陽で魂氣を包んだまま下丹田に置かれているが、体軸から解かれて〝身の軽さを得る〟状態である。つまり何時でも陽で発することができる。
このとき、鳥船近似で魄氣を陽として下丹田から魂氣を陽の陽で差し出すと、相対動作で片手取りの場合、受けの手と体軸は前方に放たれる(動画②)。
または、前方の非軸足を目付けとともに外へ直角に置き換えて同側の魂氣を下丹円から陽の陰で発する、つまり外巡りで腋を大きく開くと、軸足交代によって対側の足先を非軸足として剣線に直角に向ける。したがって目付けも同方向に置く。魂氣は陽の陰から腰仙部へ陰で巡り体軸に与る。半身を転換して三位の体を維持すると、受けの手は取りの陰の魂氣に結んで腰仙部に導かれ、隅落とし裏が生まれる(動画③)。
2019/10/5
動画①
動画② 体の変更で陽の魄氣は受けを前方に放つ
動画③ 残心が〝陰の魄氣〟と〝二教の手で入り身運動〟の二法
片手取りでは呼気で掌に魂氣を包んで内に巡ると、同側の非軸足先は半歩内股で前に置き換えて軸足に交代し、転換することにより下丹田で魄氣と結ぶ、つまり合気である。同時に魄氣の働きとして体軸を確立する。
そのとき対側の足は非軸足となって伸展し、外股に転換した足先を地に置くだけで、いわゆる三位の体を維持する。今や、受けに取らせた手は体幹に密着して受けの体軸と共に下丹田に結んで自己の体軸に与る。
反面対側の手足は体軸から解かれて陰の陽で差し出せば、天から掌に魂氣を受け、目付けは正にその反射を見ることで体軸を直立させる。呼吸法のように陽の陽で過伸展して円を描く手ではない。鏡返しの手そのものである。
姿勢の良さとは正にこの機序による。
2019/10/14
内(うち)/外(そと)転換や入り身転換、そして体の変更へと軸足交代した際は、常に陰の魄氣(三位の体)である。
ところで、体の変更において入り身転換の軸足のまま非軸足を一歩後に置き換えつつ陽の魄氣になった場合、体軸は前の足から離れて両足の間で地上に浮動することとなる。
相対動作であれば、受けに繋がる手を体軸側のまま下丹田から離して魂氣を陽で発しようとするわけで、難場歩きの機序と矛盾する。軸足と非軸足の無い体軸は地上で浮動すると同時に両足は共に地を踏んで固定せざるを得ない。自ずと魂氣の陰陽・巡りは曖昧になる。
常時剣線を外して受けの真中を撃つ基本がおろそかになるわけで、入り身・転換・回転・残心という足腰、つまり魄氣、の働きは充分に発揮されない。
鳥船の動作における陰の魄氣の本体である軸足確立は、三位の体として開祖が教える体の変化の要である(合気神髄p70)。
2019/10/15
P116美わしきこの大地の御姿は 主の造りし一家なりけり
本当に立派な、美わしい世界はすでに出来上がっている。我々は人として、この地上に本当の楽しい世を建設しなければならない。つまり、争いのない平和な国にしなければならない。 中略 この宇宙は大きな家族、つまりいうところの世界に一元の大きな心を現すようにすればよい。 中略 いいかえれば、物と心の調和した世界を造ればよいのである。どちらにかた寄ってもいけない、物と心とは一つのものである。
p125〜126愛がなければ国が、世界が、宇宙が滅びる。愛より熱も出れば光も生じ、それを実在の精神において行うのが合気道であります。
人は最後に創られたものだからして、生命と祈りとで造られている。いいかえれば宇宙の要請によって造られた、すなわち引力の固まりである。ゆえに人々はすべてのものの主体となって宇宙の経綸を行い、造り主の御心を表に出すよう努めなければならないのであります。 中略 人はその経綸を行ない、中略 それは同時に自己の完成であり、それぞれの分野で立派に花を開き、実を結ぶことです。
あらゆる命の元は宇宙でありその中心は愛である、と教えている。
2019/10/18
右軸足と、丹田(または腰仙部)に結ぶ同側の陰の魂氣
左非軸足と、虚空に結ぶ(差し出す)同側の陽の魂氣
はじめにこの左、右の氣結びが成り立てば軸足交代によって左の手足が軸となり、右の魂氣は魄(右の非軸足腰)とともに身の軽さを得て自由自在に技ができる。難場歩きの左右の足腰と手の動作が入り身転換に通じるわけである。
『合気神髄』で、開祖は以下の如く入り身転換の動的機序を自然の法則として語られている。
p105
(念が)「気の妙用」に結ぶと、五体の左は武の基礎となり、右は宇宙の受ける気結びの現われる土台となる。この左、右の気結びがはじめ成就すれば、技は自由自在にできるようになる。
すべて左を武の土台根底とし、自在の境地に入れば、神変なる身の軽さを得る。右は左によって主力を生みだされる。また左が盾となって、右の技のなす土台となる。これは自然の法則である。この原則を腹において、臨機応変、自在に動くことが必要である〟
左はすべて、無量無限の気を生みだすことができる。右は受ける気結びの作用であるからすべて気を握ることができる。
p106
すなわち、魂の比礼振りが起これば、左手ですべての活殺を握り、右手で止めをさすことができるのである。
2019/10/19
心のたましいは天に昇って魂、体のたましいは地に下りて魄とよばれる。間を充たす氣は吸気とともに天から魂氣として上肢の伸側と掌に注がれ、呼気では弛緩屈曲した手に包まれて体軸にしみ込む。次の吸気では母指先からすべての魂氣を空に発するように指先まで伸展する。呼吸とともに魂氣は天空と体幹の中心を巡る。
魄氣は足底を経て下丹田で体軸を直立に支え、同側の手が呼気で下丹田に魂氣を巡らせて体幹に密着すると、これを氣結びと呼ぶ。このとき、その半身が直立歩行の体軸を確立する(難場歩き)。
半身とは、左右何れかの足を軸として対側を軽く半歩出す、三位の体と開祖は教えている。ただし、一般に、軸とする足ではなく、半歩出した方の足(非軸足)がたとえば左なら左半身と呼ばれている。
開祖は「合気神髄」のなかで、魂氣の陰陽、巡り、結びについて、以下のように説明されている。
P84
我々は神人和合して、無限の力と実力を整え、和合の道に進んでいかなくてはならない。人の身の内には天地の真理が宿されている。 それは人の生命に秘められているのである。本性のなかに真理が宿っている。
天地万有は呼吸(いき)をもっている。おのが呼吸の動きは、ことごとく天地万有に連なっている。つまり己れの心のひびきを、 ことごとく天地に響かせ、つらぬくようにしなければならない。
また、息の動きはすべての万有万神へ、己れの精神から発するところのひびきである。
P86
氣の妙用によって、心身を統一して、合気道を行ずると、呼吸の微妙な変化が得られる。この呼吸の変化は、宇宙に氣結びされる。
また、呼吸の微妙な変化が 五体に深く喰い込み、喰い入ることによって、五体はその働きを、活発にし、千変万化神変の働きを示すことができる。
この呼吸の微妙な変化を感得することによって各自に合気道の業が生ずるのである。
呼吸の微妙な変化は真空の氣に波動を生じさせる。この波動の極烈と遅鈍によって、心身の凝結が知られる。
技は、すべて宇宙の法則に合していなければならない。宇宙に結ばれる技は、人を横に結ぶ愛の恵みの武ともなる。宇宙と結ばれる武を武産の武というのである。
P87
武産の武の結びの第一歩はひびきである。 呼吸の凝結が、心身に漲ると、己が意識的にせずとも、自然に呼吸が宇宙に同化し、丸く宇宙に拡がっていくのが感じられる。その次には一度拡がった呼吸が、再び自己に集まってくるのを感ずる。
2019/10/23
令和元年は、紆余曲折した二人取り四方投げの術理である。平成31年の稽古の記録・年頭所感では二人取り四方投げの術理について私見を述べている。しかし、確立したと実感する現在まで1年かかっていることになる。
すなわち、体の各部を表現して、そこでの魂氣と魄氣の働きに思いをめぐらし、それぞれに相当する相対動作を確かめ、やっと言葉と思いと動作の三位一体で体得したと言える。
四方投げ表の魄氣の動作は前方回転の一回転法もしくは半回転の二回繰り返しである。また、裏は後ろ回転である。
しかし、二人取り四方投げの場合は単純ではない。その要訣は、まず前方回転の半回転繰り返し法から動作を始め、次の半回転目の軸足踏み替えを、後方回転の体の変更部分と重ねることにある。言い換えると、はじめに前方半回転で一歩出した非軸足を後方回転開始時の内股の軸足とし、体の変更近似で後方への非軸足一歩置き換えの後、その場の入り身転換で後方回転を完成させるとき、前方回転の後半の半回転に重ねることで前方回転も同時に完成する。
魂氣(手)の働きを加えて詳述すれば、内転換で陰の魄氣とし、前方の非軸足側の手と同名側の受けの手を四方投げの持ち方で把持する。同側の非軸足を外股で踏む前方半回転ではじまり、対側の手は一方の受けの異名側の手を陽の陰から陰の陽に巡って把持し、上丹田に掲げて後方回転に繋いで、前方半回転を完成すると、同時に後方回転の完成に合致する。つまり、四方投げ表と裏が同時に生まれる。
結論:前方半回転・後ろ回転・前方半回転で二人取り表裏同時四方投げ
2019/10/28
単独/相対基本動作での入り身転換/片手取り入り身転換は魂氣(手)を与えきらずに下丹田へ巡らす。
まず、陰の魄氣で手首を弛緩屈曲して差し出した(鳥船のホー)後、母指先を内に巡ることで、開いた腋には剣線上で受けに対する隙間ができ、そこを取りの非軸足・腰が半歩進む。腋が閉じて下丹田は魂氣の包まれた掌に接近して、内股で着地した非軸足の軸足交代で腰が転換するとともに下丹田が魂氣を受け止めて接着する。魂氣と魄氣の氣結びである。そして半身を転換した陰の魄氣となっている。
正面打ち一教表では、非軸足の相半身内入り身とともに上段にさし上げた同側の陰の魂氣(手)が受けの手刀に接すると同時に掌を開き、反屈して受けの手刀に氣結びする。つまり接点から取りの手は拳一つ分受けの中に入る。掌は開いて天を向く。氣の思いとしては掌に包んでいた魂氣の珠を受けには取らさず、天に還すことにある。
非軸足は軸足へと交代し、後ろの足は地を蹴って前の軸足の甲に踵を重ね、半身を転換して三位の体とする。陰の魄氣である。開いた掌は受けの手に結んだまま、同側の軸足に移った体軸へ巡って自身の丹田に結び体軸に与るのであるが、もっとも近い上丹田に結ぶのが自然である。即ち額に接してその半身は体軸となって動かすことはできない。上肢は頭部の半分を覆い、手首は反屈したままであるところが鎬と異なるところである。
交代した非軸足は受けの真中を指している。直ぐさま逆半身内入り身で同側の手は側頸の高さから振り込み突きを受けの手刀の上腕伸側に与え、下丹田に巡る。ちなみに、側頸は中丹田に左右からつながり、陰の魂氣が体軸に結び、また陽の魂氣が虚空に発せられる場所である。
正面打ち一教裏では非軸足を進めることができない。魂氣は掌を包んで陰のまま自身の上丹田に結んで受けの正面打ちから守るしかない。鎬である。非軸足の踵を剣線から外して踏んで軸とし、陰の魂氣とともに作る体軸は受けの外に位置することとなる。同時に後ろの足は非軸足となり、体軸から解脱した同側の手とともに返し突きで一歩受けの後ろに入ることができる。つまり、逆半身外入り身で受けの上腕伸側を異名側の手で打ち払う。坐技単独呼吸法の両手で氣の巡りに通じる。
入り身転換によって軸足交代の結果、受けの上腕を包んだ手は陰の陰で上丹田に在り、鎬の手は体軸から解脱して陰の陽で受けの手刀の手首側面に着いている。大仏の手で足腰は陰の魄氣、つまり三位の体である。
下段に与えて下丹田に結ぶ、上段に与えて上丹田に結ぶ。
四方投げでは下段に与えて、側頸に巡って上丹田に結ぶ
回転投げでは下段に与えて外巡りから上丹田に結ぶ。降氣から円を描いて天に掲げて受けの異名側の手を取り返す。対側の手で正面打ちを受けの項に撃って側頸を包むと下丹田に結んで体軸とする。両手の間が回転投げの半径になる。
2019/11/2
下段に差し出して取らせた手を、引き戻さず下丹田へ巡らせて結ぶには、入り身をして同側の足腰が手に近づき、転換して下丹田がこれを受け入れなければならない。片手取り入り身転換という動作はこの言葉と氣の思いに裏打ちされて初めて合氣の相対基本動作となる。
魂氣の陰陽
この場合、手には禊によって掌に魂氣の珠が包まれていると思うことにする。固く握りしめるのではない。弛緩屈曲と表現できる示指の作る輪に、伸展したままの母指で蓋をすると同時に手首は体軸に向けて巡るほどに屈曲する。後述する入り身によって腋が体側のほうから閉じるにつれて手は下丹田に近づき、これを広義の陰とする。包まれた掌は天を向いて行き、狭義の陽と呼ぶことにする。合氣の言葉のみならず思いの核心はここにある。指先から氣という〝物〟を発し、それを受けに伝えてその姿勢・動作を制御するのではない。氣の働きは氣という思いそのものにあるのではなく、氣の思いに裏打ちされた動作にあるのだ
入り身
はじめに、掌に包んだ陰の魂氣を同側の非軸足とともに下段に差し出して受けに取らせ、さらに足・腰を入り身することが肝要である。その際、取らせた手は引くことも押すこともできないものとするのが術理である。受けに抗えば受けの反動を生むだけとなるからだ。しかし、取らせた手の位置をそのままにして、真下にある同側の足先を受けの背側に接して進めることはできない。受けと剣線の間に隙間を作って入っていくのだが、その前に、取り自身の手と足腰に隙間を作ることが必須である。そこで、体軸から解かれた手と非軸足との間では、互いに自由な動きが維持できることにあらためて着目すべきである。
与えた手の母指先で地を指す状態から取りの内側を指して手首を90度曲げることについて、受けとの接点では何の抑制も働かない。この動作を内巡りと呼んでいる。それだけで上肢と非軸足の間で腋に隙間が生まれる。つまり、手と受けの接点で押し引きなく、手の微かな巡りに応じて非軸足を半歩受けの背側に踏み入れることができる。しかも同側の腰は手に近づいて、相対的に魂氣が下丹田に巡ることとなる。
転換
進めた非軸足が地に着く際、足先を内股にして踏むことで軸足交代によって体軸が移動するのみならず、目付けの転換で体軸を反転することができ、足腰も180度転換する。したがって下丹田に接した陰の陽の魂氣はそこに密着して母指先も受けとの接点も180 度転じるが、受けに取られた腕を引き回すのではなく、今や体軸として手足腰目付けの一体で転換する。つまり、取りの魂氣は陰陽に巡り、魄氣は受けに入り身転換することで下丹田において氣結びを成すこととなる。
受けにおいては取りの手首を握った手が取りの下丹田に吸着されんとするわけで、もとより自身の同側の軸足との間は離れており、その距離は微妙に開くばかりとなる。受けは取りの手共々自らの力の及ぶところに、つまり腰に近付けたいのであるが体軸は両足の間にあって、その手は対側の足が軸とならない限り確かな動作をすることができない。難場歩きの理である。
ここに、受けの手は把持せんとする取りの手と共にその下丹田に繋がり、転換によって同側の胸は取りの異名側の背に接触せざるを得ない。今や軸足を失い両足の間で浮動する体軸と、取りの魂氣に連なる手は、取りの後ろの軸足に連なる体軸の中にある。すなわち取りは陰の魄氣(鳥船の呼気でイェイと魂氣を巡った姿勢)で受けの体軸と手を自身の魄氣に結んでいる。このままでは受けは取りの体軸から抜け出すことはできない。
体の変更
取りは直ぐさま前方の非軸足を後方に一歩踏み換えて軸足へと交代すれば、半身が再び転換して体軸は後ろの軸足に移る。同側の手は同時に後ろへ回し、腰仙部に結んで体軸に与る。足腰は魄氣の陰による姿勢であり、体の変更と呼ぶことにする。ここでもっとも重要なことは、下丹田に結ぶ手が陰の魂氣であっても、すでに体軸から解脱しているということである。開祖のいわゆる〝身の軽さを得る〟のだ。同時に取りの背は受けの胸から退くために受けが前方に軸足を作り、同側の手は取りの下丹田から離れようとする。そのとき取りの新たな非軸足でその場の地を踏み、後方の軸足を伸展すると体軸は前方に片寄り(魄氣の陽)、同時に魂氣を陽の陽で発すると受けは取りの前方へ一歩放たれる。
開祖の教え
体の変更の原型は陰の魄氣であるが、陽の魄氣で魂氣を発すれば受けを放つ動作となる。また、魂氣を下丹田から外巡りで非軸足とともに外転換で二教の手の入り身運動を行えば隅落としが生まれる(動画①)。
下丹田から昇氣で側頸に進め、受けの後ろ三角の真中に非軸足を入り身すると同時に魂氣を陽の陽で発すれば、受けの同名側の頸部に取りの橈側前腕が密着して、それが取りの体側へ巡るうちに受けの体軸から魂氣が底を抜け、受けは螺旋で落ちる。呼吸法である。
片手取り体の変更で陰の魄氣の瞬間、〝空の気を解脱して、身の軽さを得る。魂の比礼振りが起こる〟のだ。そして〝真空の氣に結ぶ〟つまり〝円を描いていく〟と入り身一足で残心が合氣の動作を完結する。合気道の技が生まれる。
正面打ちに対しても入り身転換から体の変更、外転換で入り身投げ裏が生まれる(動画②)。
2019/11/12
P124 合氣は和合の道、全人類、全宇宙が大きく和して一体をなすべき万物本来の姿の現われである。 中略
P125 この世界は美しき愛の世界、一つの造り主の愛の情動の世界であります。愛がなければ国が、世界が、宇宙が滅びる。愛より熱も出れば光も生じ、それを実在の精神において行うのが合気道であります。
それを人が行なう。人は最後に創られたものだからして、生命と祈りとで造られている。いいかえれば宇宙の要請によって造られた、すなわち引力の固まりである。ゆえに人々はすべてのものの主体となって宇宙の経綸を行い、造り主の御心を表に出すよう努めなければならないのであります。
p126 それは同時に自己の完成であり、それぞれの分野で立派に花を開き、実を結ぶことです。
p138〜139 禊によって浄められた世は、泥沼から蓮の浄い花が咲く不思議なる巡り合せのように、不思議なる魂の花が開き、魂魄の結合の武の本義を現す。
P135 春の朝を迎える折は、みな日の出を拝むであろう。それで我が地球、自然、山河草木はことごとく霊気をはいている。山も河も海もすべてのものが、一つになって霊気をはいている。 中略
我々はどこまでも天地の恵みをいただいて、ともに織りなすところの新しい世界を、日に日に新しく進んでいるのである。
P147 我々は要するに、この大元素の気をことごとく生みなしてくれた伊耶那岐、伊耶那美の神様に神習い、我々はそれをいただいて人生を営んでいるのである。
2019/11/10
合気道は氣という言葉と思いと動作の三位一体の武道である。したがって、受けが片手取りに至る前提として、魂氣を掌に包んだ取りの手が母指先で地を指し、手首で屈曲して他の指を取りの方に向けたまま、腋は半開きで魂氣を下段に差し出すことから始まる。鳥船のホーで発する魂氣である。受けは異名側の手で取りの手首を掴む。
坐技では同側の膝の上に置くことで受けが手背を上から覆って抑えに掛かる。
そこで、何れの場合も母指先を内に向け、立ち技ではその手の外側に同側の足腰で入り身して軸足を交代し、体軸を前に移動する。坐技では入り身運動で腋を閉じ、振り子運動で同側の膝に軸を置くと肘が畳まれ母指先は天を指し、その外側に体軸が移る。同時に呼気のまま上体を軸足方向へ直立すると、体軸に与る魂氣は受けに連なったまま中丹田まで昇る。
次の過程であるが、立ち技では入り身転換から体の変更で軸足交代すると、魂氣は下丹田に在りながら体軸から解脱して身の軽さを得る。したがって同側の非軸足とともに吸気で自在に動くことができる。たとえば魄氣を陽で鳥船近似にて差し出すと、受けは前方に放たれる。
坐技では振り子運動で吸気とともに体軸を一気に反対側へ移すと、手は相対的に過伸展し、母指先から反りに合わせて魂氣を発する思いで、受けの手を超えて空間に円を描くことができる。受けは取りの母指先方向へ、つまり取りの体側へと螺旋で落ちる。
魂氣を包んで蓋をした母指先が内に向くこと、つまり内巡りが共通点である。
2019/11/14
禊は合気であり、合気は禊からはじめる(合気神髄p145)、合気は禊である(同p150)。
禊とは、まず左右かたよりのない足で立って天地の気を思い、拍手を打ってこれに結ぶ(天の浮橋に立つ)。そして鳥船である。呼気でイェイと体軸を後の軸足に載せて上体を直立させ、対側の非軸足の先は軽く半歩出して地に触れるのみとする。これは開祖の教えである三位の体(同p70)と考えられ、私はこれを魄氣の陰と呼ぶことにした(画像①)。
吸気でホーあるいはサーと両足で地を踏みつけて体軸をその間に進めるが、上体はあくまで直立し、両手は魂氣を発する思いで半身にて差し出す。自ずと後ろの足は伸展し、前は下腿が直立して体軸は前方に片寄り、魄氣との直接の連なりは消えて軸足を失う。これを魄氣の陽とする。鳥船では息を止めずに呼気相へ移るから静止せずに魄氣の陰へと巡る。
「合気神髄」によると、三位の体は千変万化、合気道の足腰の動作における基本である。たとえば魄氣の陽を経て継ぎ足によって入身一足の残心、つまり両足が揃って一本の軸足となり体軸が直立する。それは吸気で魂氣が極限まで発せられ、伸展した手で円を描いた瞬間が魄氣の陽であり、体軸に巡った手が呼気で魄氣に結んだときこそ残心である。呼気の終末には再び三位の体を表し、あくまで体軸は一本の軸足に預けて陰の魄氣が静止である(画像②)。
一方、前の非軸足が対側の踵の後に回って軸足交代すると体の変更となり、片手取りでは受けに与えた手が下丹田で結びながら体軸から解脱する。そこで陽の魄氣とともに魂氣を前方に狭義の陽で発すれば受けは前方に放たれる(画像③)。また、単独動作で入り身転換(画像④)の前の非軸足がその場で外股の軸足へと交代すれば後の非軸足は一歩前に進んで内方へと回転出来る。前方回転(動画)である。
前方の非軸足を畳んで膝を地に着けば軸足交代で体軸は振り子運動の膝と腰に連なり傾くが、他方の足も畳んで膝を着くとその場に正座となって体軸は直立する。
すなわち、両足が前後に踏ん張って(魄氣の陽で)、体軸がその間で地に結ばず、言わば浮いた状態にあって、そのまま静止することは天地に結ぶ合気の姿とは言えまい。つまり、魄氣の陽は動作の中にあるべき姿勢であって、静止の形や残心の姿とはなり得ない。
魄氣の陽は入り身から残心に繋がる動作の瞬間に現われる足腰である。
それに比べて魄氣の陰はあらゆる変化へ向かう静止の姿勢である。魄氣の働きは軸足の交代で足腰が陰陽に巡って体軸の動静を確立させることにある、と言えよう。
2019/11/17
腹式呼吸と難場歩き
いずれも武道の動きの中で最善の働きを担保する機能と言われている。
しかし、合氣道において、腹式呼吸の生理と難場歩きの実際は、言葉と氣の思いと動作の三位一体で真摯に咀嚼しなければ、上辺の方便に終わってしまう。
合気道に限らず多くの行動が両腕を胸の前で用いることを常とするから、胸式呼吸に頼ることは先ず出来ない。また、受けとの絡みで限界までの働きを腕に頼る一方で、自己の直立動作を確実にする体軸は、一方の足腰のみではなく上体とそれに連なる上肢と目付けに依らなければ忽ち傾いでしまう。軸足側の手を振り上げようとしても、体軸の維持に矛盾することと相手の抑制によって固まるか崩されてしまう。武術や難場では間違いなく命取りとなるだろう。
腹式呼吸とは胸、つまり胸郭の拡大に頼らず、腹、つまり腹圧の増減で横隔膜を上下させる呼吸である。胸の両端に連なる腕は左右で胸を閉じて駆使されることが多い。その間軸足の確立(陰の魄氣)にともなって無意識に腹壁を絞ったり、軸足の膝を伸展するとき、つまり対側の非軸足を進めて軸足へ交代する直前(陽の魄氣)に腹を膨らませる呼吸は目的に叶っている。
これら自然の法則を端的に包蔵するものでなければ基本動作とはなり得ない。その上で左右の指先から足趾まで、頭頂から踵までの緻密な姿勢と連動が自ずと生まれるのである。
2019/11/21
魂の比礼振りとは魂氣の三要素、陰陽、巡り、結びという働きを象徴するものであろう。
円の中に十字を書いて置いた右足は魄氣を地から受けて体軸に与り、右手は魂氣を天から受けて同時に受けの存在にも結んでいる。つまり、右の手足腰と上体は体軸を成している。このとき右の魂氣は陰の働きを持つと表現することにする。
であるからこそ左の手足は自在に働き、その結果軸足交代して左の手足腰が体軸を支えるなら、右の手足は不思議な軽さを得る。すなわち右は左によって武を生み出すわけだ。左は盾となって、右の技のなす土台となる、と表現される。
体軸から解脱した右の魂氣(手)こそは相手を自在に導くことが出来る。その手を魂の比礼振りに喩えられたのであろう。手を伸展して空間に円を描くことができ、これを陽の魂氣とする。
それに反して、相手の重さも自己の体軸も右手に受けて、右足を軸としたままで虚空へ掲げようとする動作は魂氣が五体に止まるばかりで、天に発することはできない。開祖は〝宇宙と争っては気が折れかねない〟と言う。自己の念いが宇宙を忘れて動作しようとする限り、進歩向上は存在しない。〝空の気を解脱〟せずして〝真空の気に結ぶ〟ことはできないのである。
軸足交代によって陰の魂氣が陽へと発する兆しの生まれることを、開祖は〝魂の比礼振りが起こる〟と表現され、それには〝心の持ちようが問題となってきます〟と開祖は教えているようだ。
法句経に、思いはすべてに先立ち、すべては思いになる、と。
2019/11/24
相半身両手取り外転換昇氣呼吸法の動作を例として。
下段に魂氣を与えて片手取りと同時に内巡りで魄氣の陽から軸足へ交代して相半身内入り身で対側の足を一歩進めるとともに吸気で対側の手を直突きによって半身の交代をする。受けは相半身両手取りとならざるを得ない。
取りは、はじめ与えた手を小手返しの手(広義の陰・狭義の陽)で下丹田に結び、陰の魄氣でそれを体軸としている。つまり直突きから取らせた手も内巡りで母指先は天を指して陽の陽で掲げ、受けの異名側の手に結んでいる。ここで取りは相半身両手取りに陰の魄氣となり、いわゆる三位の体を成す。
陽の魂氣は母指先の反りが外を指し、同側の非軸足もそれに合わせて呼気とともに軸足へ踏み換えると、下丹田の魂氣は体軸から解かれて同側の非軸足とともに逆半身外入り身転換へと動作することができる。手は下丹田から呼吸法の昇氣で側頸に昇り、そこで再度体軸に与り、対側の手は入り身に際して入れ替わって小指から下丹田に結びながら転換ではすぐさま体軸から解かれている。
陰の魄氣で受けに対しては外入り身転換・昇氣呼吸法で魂氣を側頸に陰の陽で結び、肘は受けの胸骨上窩に嵌まっている。その時点で捻れつつ畳まれた上肢の発条が体軸に与り、同側の取りの背は受けの異名側の胸に接して魄氣の結び・入り身が成り立っている。
下丹田に入れ替わった魂氣と同側の非軸足をその場で内股の軸足へと踏み換えて入り身転換すると、側頸の魂氣は体軸から解かれて(空の気を解脱し身の軽さを得て)上肢の発条は一気に陽の陽で伸展し(真空の氣に結ぶ)、母指先方向に円を描いて巡ると受けの同名側の頸部に魂氣が響き、その体軸から底を抜けると取りの体側へと結ぶ。そのとき母指先に合わせた同側の非軸足は半歩受けの後ろ三角に置き換わって陽の魄氣となった後、継ぎ足によって二足が一本の軸足となって体軸移動が確立する。受けは螺旋で地に落ちており、この瞬間をまさに〝入り身一足〟と私は呼んでいる。
同時に残心とはこの一瞬の静止であると考えたほうが良いのではないか。ここから即陰の魄氣で軸足と非軸足を分けて三位の体による千変万化へ展開するわけだから、必ずしも単独の相手に向かって軸足を固定して静止を維持することはないであろう。残心とは魂氣と魄氣が結んで(合氣)、直立した体軸を成し、同時に技が生まれた瞬間なのである。
ところで、剣で打ち込んだときは入り身一足で剣先から相手に氣が伝わった瞬間であるが、魂氣は自己の体軸、つまり魄氣にまだ巡っていない。次に柄頭を持つ手が下丹田に結んで同側の足腰が軸となり、陰の魄氣の姿勢がなり成り立った瞬間こそ三位の体であるから、あらゆる対応が可能であり、これが残心である。
2019/12/1
( )内は筆者による。
P84
我々は神人和合して、無限の力と実力を整え、和合の道に進んでいかなくてはならない。人の身の内には天地の真理が宿されている。 それは人の生命に秘められているのである。本性のなかに真理が宿っている。
天地万有は呼吸(いき)をもっている。おのが呼吸の動きは、ことごとく天地万有に連なっている。つまり己れの心のひびきを、ことごとく天地に響かせ、つらぬくようにしなければならない。
また、息の動きはすべての万有万神へ、己れの精神から発するところのひびきである(陽の魂氣)。
P86
氣の妙用によって、心身を統一して、合気道を行ずると、呼吸の微妙な変化が得られる。この呼吸の変化は、宇宙に氣結びされる(陽の魂氣)。
また、呼吸の微妙な変化が 五体に深く喰い込み、喰い入ることによって、五体はその働きを、活発にし、千変万化神変の働きを示すことができる(陰の魂氣)。
この呼吸の微妙な変化を感得することによって各自に合気道の業が生ずるのである。
呼吸の微妙な変化は真空の氣に波動を生じさせる。この波動の極烈と遅鈍によって、心身の凝結が知られる。
技は、すべて宇宙の法則に合していなければならない。宇宙に結ばれる技は、人を横に結ぶ愛の恵みの武ともなる。宇宙と結ばれる武を武産の武というのである。
P87
武産の武の結びの第一歩はひびきである。 呼吸の凝結が、心身に漲ると(魂氣の陰、巡り、結び)、己が意識的にせずとも、自然に呼吸が宇宙に同化し、丸く宇宙に拡がっていくのが感じられる(陽の魂氣)。その次には一度拡がった呼吸が、再び自己に集まってくるのを感ずる(陰の魂氣、巡り、結び)。
以下は筆者の論評
陰の魂氣とは呼気に合わせて虚空から魂氣を包み、母指先だけが伸展したまま丹田に巡る動作(画像①)。丹田では体軸において魄氣と結ぶ、つまり合氣である。
陽の魂氣とは吸気のもとにそれを母指先から発する思いで上肢の先まで緊張伸展して掌を開き、氣の珠を差し出す動作(画像②③)。呼吸とともに合氣の動作は連なる。
言葉と思いと動作の三位一体こそは合気道の原点である(動画)。
2019/12/8
単独動作にしても軸足側の手、つまり体軸に与る陰の魂氣を、そのまま陽で働かそうとすれば自己瓦解するしかない。受けに与えて上から取らせた場合は尚更、体軸を維持したまま軸足側の手を動かそうとしても、体軸に与る腕の大部分は重いのであって微動だに出来ない。
なぜなら、軸足側として丹田に置かれた手は、魄氣と結んで体軸を確立する魂氣(これを陰とする)によって働くと考えるのが合気であるからだ。他方、陽で発して同側の非軸足とともに前方に進め、受けがその手を取ると同時に軸足へ交代するなら、その手は丹田には置かれず、つまり体軸に与ることなく(陰の魂氣ではない)、受けに取らせた状態で、なおかつ動かそうと陽の魂氣を思っても、難場歩きの原理から明らかに無理である。自然の法則に背き、無駄な試みである。そのとき手は陽でも陰でもない魂氣となる。
たとえ丹田にある陰の魂氣でも、取らせた手首の遠位は母指先を中心に内外へ巡らすことがかろうじて出来るのだ。掌に気の珠を包んだ手を陰の魂氣と呼ぶのであるが、弛緩屈曲した示指の輪に、外から蓋をした母指の状態は常に伸展したままである。母指は魂氣の陰陽を問わず常時気を通している特異な働きを持つと考えることにする。
対側の非軸足を軸足に変えて体軸をその方に移せば、その同側の魂氣は陰で陽仙部や下丹田に結び、それまで受けに与えて体軸に与っていた方の手は非軸足の手に代わり、それぞれ陽の魂氣と非軸足へと移り代わることになる。このとき丹田に着いたままであってもその手は〝身の軽さを得る〟。すなわち〝魂の比礼振りが起こる〟のである。吸気で非軸足を置き換えると同時に、その手は魂氣の陽で緊張伸展して虚空に円を描き、呼気で丹田に巡ることができる(動画①②)。
入り身運動に伴う魂氣の円の巡り合わせが合気であり、相対動作なら合氣の技が生まれる。呼吸とともに気結びをなして腋が閉じ、体軸や地に結べば呼吸法であり呼吸投げにもなろう。
2019/12/25
〝最初は天の浮橋に立たされてということから始めなければなりません〟。天より心のたましいである魂の気を手に受け、拍手で下丹田に結ぶ。また、地からは体のたましいである魄の氣を足底に踏んで、足腰から体軸に滲みわたる思いで下丹田にて魂氣と結ぶ。
この魂氣と魄氣が真中で結び、命と体が確立するから合気と言う。
対称に開いた両足の間で静止しながら地上に浮動した体軸は、動作への変化を持たない。そこで、先ず一側の足(開祖は右足と定めて教えている)で魄氣が体軸を支えて地に根ざす軸足を作り、対側は軽く半歩出して足先を地に触れるだけの非軸足とする。この姿勢を陰の魄氣と呼ぶことにしている。いわゆる半身の姿勢を魄氣の働きから見た用語である。左/右自然体とも言う。『合気神髄』では三位の体、小林裕和師範は三面に開くと伝えている。
今、吸気で非軸足をさらに半歩進めて、後ろの軸足は地を踏んだまま伸展する。そのとき非軸足側の魂氣を差し出すと掌を開いて上肢は伸展する。これを陽の魂氣と言う。
非軸足は自ずと地を踏んで下腿が直立すると、体軸は後の軸足を離れて前方に片寄りながら二足の間にあり、軸足を失う瞬間である。魄氣は両手を差し出した鳥船に近似し、前後の両足底に伝わる。
吸気の極期で伸展した後ろの足は、呼気で地から解かれて前の踵に引きつけられる。前方の足に交代した軸へ体軸が完全に移動する瞬間は、二本の足が一本の軸足となる。入り身運動の足腰である。
陽の魂氣は呼気で弛緩して丹田に巡るか、または伸展したまま円を描いて体側に巡る。これは魂氣が陰に巡って丹田で魄氣と結んだ状態であるから、開祖は〝合氣は禊である〟と明言されたにちがいない。そして、これは一側の手が陰から陽、陽から陰へと巡って結ぶ一動作であり、軸足交代を繰り返して体軸移動する中で、両手の魂氣が次々に働いて合気が連なっていくことになる。開祖は〝円の動きのめぐりあわせが合気の技であります〟と記されている。
また、〝魂の比礼振りは、あらゆる技を生みだす中心である〟とも言われる。つまり、体軸から解かれた陰の魂氣には、自在に陽の魂氣へと発せられる兆しが生まれることを指すのであろう。開祖は〝身の軽さを得る〟とも言われ、吸気で空間への緊張伸展を経て、呼気相で弛緩した手指が再び掌を包み丹田に巡り、この気結びの動作が自在に為されるということを説かれているのであろう。
つまり、与えた手をいまさら動かそうと試みたり、そのうえ単に「力を抜け」と指導されたりすることが、如何に矛盾しているか。無理、無駄、無法に陥ってはならない。
2020/1/2
片手取りに外巡りで対側の手の振込突きを払わせて相半身外入り身転換は、外に巡った手を陰の陰で上丹田に結び鎬を作り、それが相半身外入り身のための軸足側となる。逆に、対側の振込突きは掌を包んで蓋をした母指先から陽で差し出して異名側の手で払わせ、なおも陽で同側の非軸足と共に相半身で外へ入り身すると、魄氣の陽から転換へと内股で着地する。払わせた手は腰仙部に陰で結び、交代した軸足側の手となる。
ここで両手がそれぞれ上丹田と腰仙部(下丹田の背部)の天地に結び、共に陰の魂氣で体軸に結ぶ瞬間となる。入り身転換に際する魂氣の置きどころの一つである(画像)。
実はこれぞ『合気神髄』にて示される合氣の特徴の一つであり、腰仙部に置く軸足側の手は体軸の一部であるから動くことは無い。そして対側の非軸足側の手は上丹田にあり、陰であってもすでに陽で発する兆しを持ち、非軸足を一歩後ろに置き換える動作とともに同じ方向へ振り降りると回転投げに進展する。開祖のいわゆる〝空の気を解脱して真空の氣に結ぶ〟を動作することになる。はじめ軸足側の魂氣は上丹田に陰で結び体軸の一部となり、入り身転換で非軸足へと交代すれば魂氣は陽に発する兆しを得る。
今、天地の結びから非軸足を後方へ一歩退いて軸足になると同時に天の手を陰の魂氣のまま狭義の陽で側頸に降りる。対側の非軸足の踏み換えで入り身転換反復とともに非軸足側となった側頸の魂氣は空間に発せられ、魄氣の陽・継ぎ足で残心の過程では魂氣が陰に巡って母指先から取りの体側に結ぶ。その途中受けの同名側の頸部に前腕橈側が密着して魂氣は受けの体軸の底にひびく。つまり、陽の魄氣では、それに合わせて魂氣を陽で発するのではなく、そこではすでに陰へと円を描いて巡り始めるのである。魂氣と魄氣はただ同期するものではない。これは呼吸法の代表例で、受けの同名側の頸部にひびかせる(異名側の背・胸合わせ)入り身投げである(動画①)。ちなみに通常の入り身投げは言わば同名側の胸・胸合わせ入り身投げである(動画②,③,④,⑤)。
片手取り外巡り・相半身外入り身転換による呼吸法、呼吸投げが生まれる過程を、開祖の言葉で表現すれば以下のようになる。
〝三位の体にて〟非軸足を〝軽く半歩出す〟〝千変万化、これによって体の変化を生じます〟。〝右手をば陽にあらわし 左手は陰に返して相手導け〟。
〝空の気を解脱して〟〝魂の比礼振りが起これば〟〝身の軽さを得る〟。したがって〝真空の氣に結ぶ〟ことができる。
〝魂の比礼振りは、あらゆる技を生みだす中心である〟〝円の動きのめぐりあわせが合氣の技であります〟
2020/1/18
最後のコマで左足腰・手が体軸に与かり、右足は非軸足、右手は上丹田に陰で結んでいるが陽で発する兆しを持ち、魂の比礼振りが起こっている。円を描いて真空の気に結んで行ける。
2020/1/18
動画 ①背・胸合わせ入り身投げ
動画 ②胸・胸合わせ入り身投げ表・裏
動画 ③正面打ちに入り身転換・体の変更八相返し入り身投げ
動画 ④ ③と同じ
動画 ⑤正面打ちに入り身転換反復で入り身投げ裏
天の浮橋に立つ合気
自然本体は偏りのない左右の足で立つ。両手は自然に垂れて脇は閉じる。両手掌は弛緩屈曲した指で包まれ、示指の作る輪を伸展した母指が塞ぐ。母指先は微かに反って、示指の第二関節より先に出る事はない。掌には小さな空間が常時保たれ、魂氣の珠を包んで転がすような気持ちで振り魂を行った後、下丹田に結んでから母指先が前方に向き、両手は自然に垂れて脇は閉じる。母指球は大転子の下で大腿の外側に触れる。この時、天と地の間に在って、下丹田で魂氣と魄気を結ぶ合気によって自らが改めて活かされていると思うことこそ天の浮橋に立つということである。
ところで、静止からあらゆる動きが可能となることこそ武の本質であって、基本的には足腰の動作によって体軸が移動することに集約される。さらに言えば、非軸足を置き換えてそこで軸足に交代させることが動きの連続を生むのである。
二人取りについて
相対動作の中で二人取りとは両手を二人の受けに諸手取りで与えた状態である。自然本体で両手を陽の陰で差し出している。母指先は地を指して、脇は少し開いている。この静止した状態から受けに制圧を許さず、取りの有意な姿勢へと導くために動作することとは、すなわち合気を行うのである。体軸を移動させる合気の動作でなければならない。
二人取りの入り身転換
はじめに軸足を作り同側の手は体幹に結ぶ、つまり一方の手足に体軸が移動する。軸足側の受けは取りの体軸に密着してそれぞれの魄気と魂氣が結び、取り自身の魂氣と魄氣も中丹田で結ぶ。すなわち合気が動作される。対側の手は脇が開いて相対的に差出した状態となり陽の魂氣を発しており、足は体軸から説かれて非軸足となる。
合気の思いから手の動きを言葉で表せば、吸気で掌を開いた全指が呼気で弛緩屈曲しながら魂氣を包みこみ、母指先は巡って更に天を指しつつ体軸の片寄りに合わせて脇が閉じ、手が畳まれて陰の魂氣となる。すなわち手足腰が体軸を確立し、同時に受けは諸手が縦に並んで体軸は反って、取りに密着するようになる。
対側の魂氣は脇がさらに開いて母指先は内に巡って全指で掌を包みながら天を指して陽の陽で伸展する。母指先は受けの同名側の屈側手首で尺側に密着して差し出される。受けの諸手はやはり縦に並び、取りの魂氣が接点よりこぶし一つ分中に、つまり受けにとっては近位に、入ることとなる。
取りはこの時点で入り身転換を行なったことになり、足腰は陰の魄氣である。軸足側にて受けと結んだ魂氣は同時に自身の中丹田(側頸)に結んでいる。非軸足側ではもう1人の受けと魂氣のみが結んでいる。
二人取り入り身転換反復
そこで、非軸足を軸足へと交代して同時に魂氣は腋を閉じて陰に巡り同側の中丹田(側頸)に結んで移動した体軸に与る。先に側頸に結んだ魂氣は体軸から解脱して母指先を回外し、前方を指しており、身の軽さを得ている。入り身転換反復である。
順次体軸を移動して左右の魂氣を地に結ぶ
次に非軸足の膝を着きながら再度軸足となって体軸は移動し、同時に母指先で地を指すほどに肘を伸展する。受けの魂氣も地に向かってそこに着いて呼吸投げが生まれる。反対側の手はそのとき母指先を回外して同時に正面を指すことになる。縦に並んだ受けの諸手の接点から近位に取りの上肢が結び、体軸から再び解脱しており、同側の非軸足の膝とともに地についてこちらも呼吸投げが生まれる。
2020/2/5