軸の廻りにあるものが緊張・弛緩や陰・陽、上段・下段、入り身・転換、前/後方回転で巡るわけで、軸そのものが回転や脱力や屈曲するわけではない。
歩行や入り身や残心などの体軸移動のみならず、回転のような一見軸に移動の無いように見える場合も、実際は軸足の交代が行われている。
腰の上下の動きは魄氣の陰陽の間では見られない。膝の軽度の屈曲は陽でも前の足で曲がるし、陰では後ろの軸足が曲がる。このとき常に対側の足は伸展している。唯一両足ともに伸びるのは残心の送り足であり、後ろの足が前の軸足に着き一本の軸となった瞬間である。
徒手ではこのとき魂氣が丹田に巡るが、武器では送り足の瞬間が魂氣の陽の極限であるから、真の残心は直後に後ろ足に重心を置いた瞬間である。すなわち、徒手と武器での差は、魂氣が発する点の大きな違いが間合いに現れることである。それとともに、残心の際、前者では送り足で揃った両足が軸足であり、呼気相で魂氣は丹田に結んでいる。後者では軸足が一本になった瞬間は魂氣が陽となって発した吸気相の極限であり、残心はその後の呼気相にあり、武器を取った手は陰の陽で丹田に結ぶ。従って陰の魄氣で軸足は後ろの足である。
魄氣の陰陽と残心の想いが曖昧になれば、軸足と体軸の連なりや腰の上下動の必然と時機が不定となる。言い換えると、この曖昧と不定を克服することこそ核心を動作する修練に相当する。
2014/10/29
道歌 右手をば陽にあらはし 左手は陰にかへして 相手みちびけ
広義の陽は脇を開いて魂氣を与える動作である。同じく陰は脇を閉じて魂氣が丹田に巡る動作である。
両手取りでは、陰の陽で掌を包んで同側の足を前方に置く陰の魄氣で、上肢を伸展して魂氣を与える(画像①)と同時に、対側の足を一歩進めて他方の魂氣も与える(画像②)。このときそれを取ろうと受け止めた受けとの間に相半身両手取りが成立する。
先に与えた魂氣は相対的に丹田へ巡って結び、陰の陽のままである。対側の手はそこで陽の陽として受けの手に結ぶ。つまり母指先は丹田の結びと受けの手首への結びによって広義の陰と陽であり、互いに正反対の方角を指している(画像③)。
脇は一方で閉じ、他方では開いている。ちなみに、両手とも狭義の陽であり、手掌が天を向いている。
魄氣は陰であり、単独基本動作入り身転換の形そのものである。前方の足先を軸として逆半身で外入り身から一教運動表の魄氣では天地投げへ(画像④、⑤)。外転換なら、右半身陰の魄氣で昇氣にて側頸に結び、右足を踏んで軸として(画像⑥)、左半身入り身で(画像⑦)・魂氣を左母指先から陽の陽(画像⑧)で左拇趾先に合わせて残心(呼吸法表)へと展開することになる。
画像⑥⑦で明らかなように、両手取りにおいては外入り身転換で受けの手を剣線方向に引っ張ることは不可であり、外転換で剣線に直角方向へ陽の陽の結びを行うことができる。従って呼吸法表である。
2014/10/30
地から体軸への魄氣の連なりは天から魂氣の体軸への響きに通じる。
体軸は頭頂から丹田を経て足底に至る鉛直線である。
従って、陰の魄氣と残心が真の体軸を持ち得る。
魂氣と魄氣が結ぶということは体軸、則ち中心の確立である。
また、取りの魂氣が受けの魄氣に結びその魂氣が残心で自身の丹田に巡れば、受けの体軸は取りの中心を螺旋で落ちて地に結ぶ。
側頸は体軸への左右の出入り口である。
2014/11/8
陽の魄氣は軸足を持たない。足間を体軸が移動中の形そのものであるからだ。軸足の形成は他側の足による軸の移動、すなわち入身、転換、回転の始まりである。つまり軸足によって体軸が地に結ぶ瞬間は動作の成立し得る瞬間でもある。
また、陽の魄氣は両側の足から体軸が離れている状態であるから、その瞬間の形からは動作を起こせない。陽の魄氣から送り足による残心、つまり両足の一体化による軸足の形成があれば、次に陰の魄氣へと移行することは容易となる。または、陽から軸足を完全に交代して転換や回転で陰の魄氣になり、軸足がもどれば同時に動きは甦る。
何れにしても軸足の存在は運動性を有している。言い換えると、陽の魄氣の瞬間は軸足の消失を意味し、動作の中では瞬間の状態でしかない。一方、静止そのものは動作性を有していなければ成り立たず、残心と陰の魄氣という軸足の存在する静止こそ動作性を持つものである。
入身とは、陰の魄氣である静止から陽の魄氣で始まり、送り足(継ぎ足)による両足の一体化での軸足形成、つまり残心で終える。
転換は陽の魄氣で軸足を交代させ、他側は送り足ではなく足先を外へ回旋させて引き寄せる。回転では他側の足先を前後へ回旋させて再度軸足を交代することで、転換よりも大きな角度で体軸の周囲が巡る。いずれも陰の魄氣で終える。
魄氣の三要素としている陰陽、入身、転換・回転は真に体軸の動静における核心である。相対動作では、剣線の際(きわ)における体軸の動静のもとに、陰陽、巡り、結びという魂氣三要素によって、“真中を打て”という教えが生まれたのであろう。
2014/11/11
合気道の稽古法でよく見られるのは、指導演武を行ってその技を指定して、取りと受けを交替しながら互いに稽古することである。
特定の技を決めることが、基本動作をあらかじめ選択し配列して固定するものであってはならない。とはいえ、各技の成り立ちをすでに固有の動きとしてそれぞれ体に覚えさせることに留まれば、尚更合気道から遠のく稽古になろう。
つまり、ある技の一連の動き方を決めて修練するのではなく、術理を具現する基本動作の連なりを習得するのである。その上で、その連なりが一続きの想いに裏打ちされた切れ目ない動作へと、言わば成形されることが武の産すびの修練になると考える。
そのためには、基本動作こそが稽古の中心であり、その更なる核心は呼吸と共にある魂氣三要素と魄氣三要素である。
2014/11/14
四方投げ全般に裏の方がなんとなくやりやすい、という印象は大半の稽古人が感じるところであろう。それには理由があるはずで、表題に掲げたことを一つの答えとして想うところを記すことにする。
はじめに、回転そのものが困難な場合は単独基本動作の回転(前/後)に習熟していないか、相対動作では魂氣の体軸への結びが不十分なのであろう。
単独では、交代していく軸足の膝と腰に両手が常に結んでおり、陰の魄氣で動作する間の体軸の確立がなされている。つまり魂氣と魄氣は自身のなかで結んでいる。
一方、相対動作での回転によって四方投げへと至るには、受けの手を四方投げの持ち方で取ると同時に振りかぶって陰の陰とし、額に自身の手背を結ぶことで受けの魂氣が取りの体軸に結んでいることが必須である。体軸に連なる軸足の交代が回転の本質であるから、その体軸が確立しなければ、自身のわずかな動きにもたちまち正立すら叶わず自ら腰が落ちるであろう。むしろ受けの体軸の方が静止している分安定である。
いずれの回転も陰の魄氣から始まり陰で終わる。その間前方回転では軸足が4回代わり、後方では3回で陰の魄氣に落ち着く。しかも前方では、二回目の軸足交代には後方から前方を経てさらに後方へと一回転の後に着地する。目付の先導で、膝の屈曲により軸足へ螺旋で巻き付くようにしてからの着地が、一回転での安定を得るための要訣である。
この基本が欠落すると、まず軸足を陰の魄氣で作り、後ろから前方へ足先を伸ばした瞬間、魂氣も伸展して額での結びが解け、両膝が伸展して着地するから両足で地を踏ん張ることとなり体軸は足間に留まる。軸足の交代が中断すると、もはや回転はしない。足腰の形は自然本体に似るものの、魂氣は受けの片手に取りすがり、その瞬間は万歳して腰を伸ばして静止する。合気の想いからするとおよそ自然本体の対極である。上肢の伸展は足腰の伸展に連動しているから、手を戻そうと繰り返し稽古しても元を正さなければ結びを保つことはできない。
魄氣の要素である回転を相対動作で発現するには、魂氣の額への確実な結びにより体軸の安定することが欠かせない条件となる。
2014/11/16
前後・左右・上下を考えるのが動作である。動作とはこの空間を巡ることにあり、合氣道では氣の玉が禊によって肚で磨かれ、これが掌に包まれて動く。そして丹田や側頸という点から、体軸という線へと結んでは空間に発せられて、終には丹田に巡ってくる。つまり、上肢の動作は魂氣を与えて巡らすことで前後に動き、水平に左右へ発して巡り、上下には振りかぶり、振り降りる。
一方、足が地を踏んで魄氣を受けて軸足となり、体軸に繋がって直立すれば、対側の足先は前後・左右・上下を動くことで次の軸足となる。体軸が軸足の交代に連れて移動するわけで、これは魄氣が空間を動作すると言ってよいだろう。前後は入り身・送り足、置き換え、左右は転換・回転、上下は踏み替えの動作に相当している。
天地の氣を受けて魂氣の動作も魄氣の動作も丹田を中心としてこの六方を充たす想いで、手足腰体軸と目付の限りない動作が可能となる。
合氣道の動静が自在であると共に整然とした美しさを備えるのは、魂氣と魄氣の想いとそれぞれの三要素により呼吸とともに為される術理が見え隠れするからである。
自在とは、動静の連続の中に身体各部の同期が絶えずあって、しかもそこに理の核心を常に伴うことである。
2014/11/25
魄氣は陰陽、入り身、転換・回転を三要素とするが、このうち、入り身は魄氣の陽と、送り足により二足を一足の軸とする残心から成り立つ。また、一教運動表の基本動作では入り身の送り足を対側の足の内側に置いて半身の左右を交代する。
ところで、一教表、隅落とし、天地投げ、入り身投げ表の相対動作としての魄氣(足腰体軸の動作)は同じである。これらはいずれも単独基本動作一教運動の足腰の動作を行う。そして、一教の固めを除いて残心で投げ技が生まれる。
また、魂氣は丹田に巡るが、他側の上肢は腰の後ろに結ぶ。ただし一教は受けの手首を伸側から把持しており外側に伸展する。さらに受けの開いた腋の間に入り身で結んだ直後、転換して陰の魄氣から順次膝を着いて固めに移る。
つまり、技の形としての違いは殆ど魂氣の動作によるものである。すなわち、一教は単独呼吸法両手で氣の巡り。隅落としは入り身運動の陰の陰、天地投げは両手取り呼吸法で地は陰の陰、天は昇氣。入り身投げは両手で氣の巡りから陰陽を返して反復する。
言い換えると、魂氣の巡りが様々に変化する中で、魄氣の要素としての入り身が確実に動作できなければ、相対動作の結びのみならず、単独動作の所謂合氣が成り立たない。魂氣が六方を自在に動作する中にあって、魄氣の足腰は目付けと体軸を伴い、頑なに意識的に一元の動作を貫くことが肝要である。
2014/12/6
『武道論』(大修館書店 富木謙治著)には、柔道原理の一つである「柔の理」を嘉納治五郎師範の言葉として「始めに譲って、終局において勝つみちである」と引用されている。「始めに譲る」と言うことを合氣道に当てはめるなら、「魂氣を与える」ということになろう。
この与えるという想いに相当する動作は、受けに対して斜め前後から襟や肩を取らせるか正面で掌を包んで狭義の陽で差し出すことである。「終局において勝つ」には、それが接触した途端に取りへと巡り、そこから受けの手首を廻って吸気で再び発して、受けの中に差し入れることである。同時に入り身で詰めて送り足で剣線を外すか、転換で外して入り身で詰めるという魄氣の動作が要訣である。
今ひとつ、「始めに譲る」動作には後手を引くことが含まれる。入り身を断たれた瞬間は軸足の左右への置き換えで剣線を外す転換の動作しか無い。魂氣を軸足に合わせて取りの中心に巡ってから、場合によっては対側の魂氣を陽で受けに発する。そのとき陰で中心に結んだ魂氣は始め譲ったのであるが、両手で氣の巡りであるから受けの手首を廻って例えば陽の陽で発する。つまり、右手をば陽で表し、左手は陰に返して相手導け、である。
すなわち、「始めに譲る」ことから「終局に」至る方法は巡ることである。単独呼吸法両手で氣の巡りや入り身運動、一教運動、あるいは相対基本動作呼吸法のことごとくは、魂氣三要素の陰陽、巡り・結びと魄氣三要素の陰陽、入り身、転換・回転を動作することであり、「柔の理」そのものである。透かしたり、当てたり、押したり、引いたり、足先と手先が隔たったり、両足が居着いて体軸が捻れたり、これらはことごとく「始め」を「終局」に連ねるものではない。
2014/12/18
降氣の形(陰の陽で母指先が側頸に向く)から回外して、母指先を前方に向けた状態で肘を開くと魂氣は直下の地に結ぶ。脇と肘を同時に開くと母指先は前方に陽の陰で差し出される。
ところで、この回外から脇を開くと同時に、母指球を差し出して上肢を伸ばすと、手首は陽の陰で僅かに反屈する。その手首をそのまま伸展すれば脇から肘・手背・示指の付け根と一直線になる。このとき四教のつぼに嵌めるか三教に取って、受けの脇の方向を経て中心に結び直に脇を閉じれば、一直線で地へ結ぶ。また、受けの項に結べば丹田に巡って残心で四方投げとなる。
いずれも、広義の陽で母指球を差し出し、続いて手首を伸展して手背から示指の付け根にかけて一直線にする動作が、その想いの面から“気を出す”、“陽の魂氣”と表現される。
想いの表現がその名称に相当する的確な動作を伴うことこそ三位一体である。
2014/12/30
自然体とは静を意味している。
静には真中の氣結びも軸足もあってなおかつ鮮明な形が特定しうる。
一方、動については、それが無数の形の連続であり、つまり風にひるがえる旗の如く一定の形が無い。
しかし、行き着く静のある限りにおいてそれは核心に連なる。
すなわち静に連なって初めて動たり得る。
確たる静なければ術理は存在せず、従って真の動は生まれない。
術理に合わせて行き着くところは逆にたどれば一本の幹に戻る。
合氣の諸々の動作は、たましいと氣の想いにそれぞれ裏打ちされる特定の形に帰結する。
2015/1/5
正面打ち三教表で受けの腋を開き異名側の半身を差し入れて三教に取るのは、受けが上体を戻して対側の手で反攻する動作を封じるためと伝え聞いた。
今思うのは、受けの小指球を自身の軸から包んだうえで、一気に母指球を全身から差し出そうと想えば、すなわち魂氣を陰から陽へと発するには、自ずとそのような形が生まれるのであろうということである。
呼気と共に上肢を畳んで手掌を自らの側頸に向けて、所謂陰の陽の降氣の形で受けの小指球を包み取るには上体を陽の魄氣と共に迎える必要がある。つまり一瞬差し入れて近づけるしかない。その直後一気に母指球を回外して受けの脇の方向に突き出し、陰の魄氣で上体も遠ざけて、脇の開きとともに上肢を伸展させる。その上で同側の膝を地に着けると同時に手背をも伸展させ、母指球は膝の側面に着けて共に地に結ぶ。
つまり陽の魄氣から継ぎ足で残心に至るのではなく、陰に巡って元の軸足に還り、対側の足から地について三教の手と結んだまま正座を成す。固めは受けから離れる方向へ振り子運動。
2015/1/10
刀剣と木刀の違いは材と刃の有無
木刀と手刀の違いは鎬と節の有無
働きに違いがあるのは明らかである
したがって、徒手の動作に
違いが意識されるべきである
徒手の形に術理があらわれているか
言葉と想いと動作の三位一体が形を産むことで
手足腰目付は整然と映る
2015/1/19
呼吸法とは呼吸とともに氣結びを為すことと言える。
ここで、氣結びとは魂氣三要素、陰陽・巡り・結びの一つである。また魄氣三要素は陰陽、入り身、転換・回転としている。
魂氣三要素も魄氣三要素も、それぞれ言葉と想いと動作の三位一体で成り立つ。
例えば単独呼吸法坐技では魂氣三要素を充たす一連の動作があり、天の魂氣を吸気で受けながら上肢を指先まで伸展してそこから発する想いを持ち、次に呼気に移って上肢を弛緩屈曲しながら体幹中央(側頸か臍下丹田)に寄せ、魂氣が入ってくる想いとともに手掌は手指で包まれて体表に接する(画像①)。それで吸気に移れば再び上肢は伸展して魂氣を手掌に受けつつ手指から発する想いを持つ(画像②)。
相対動作の呼吸法は取りと受けの間でこの三要素が呼吸とともに動作され、氣結び(接点から取りの拳一つ分以上受けの内に入ること)を為すことであり、その際、取りの体軸が移動するなり、魂氣が巡って動作すれば受けはその一部として共に動くこととなる。このとき呼吸力によって動作していると表現する(画像③)。つまり、相対動作で呼吸と共に魂氣三要素を動作することが呼吸法である(画像④)。
立ち技であれば魄氣の三要素を足腰で動作することが加わって呼吸法が行われる(画像⑤)。その原則は、魄氣と丹田の結びが軸足を作り、それによって体軸が確立し、丹田から体軸を経て上肢の先端と天の間に巡る魂氣が手を動作させる(画像⑥⑦)。
また、静止とは体軸の確立と同時に魂氣が陰で体軸に結ぶことと言える。そして、動作とは魂氣が巡り軸足が交代して体軸が移動することである(画像⑧⑨⑩)。
2015/1/29
剣・杖・徒手ではその形と働きが大いに異なるが、手の用い方(魂氣の陰陽)にはそれぞれに特徴的な違いを認めるのみである。一方で、足腰と体軸の動き(魄氣の動作)は、相対動作での間合いを除いて概ね共通であるところに合気道の目指したる術理、核心が伺える。
その様々な提示や動作に際しては、たえず一元の想いに帰することが必然であり、意図して整えるものではない。その表層を眺めるのみでは動作での姿の違いを見ることに留まる。想いの裏付け無き動作をただ繰り返すことに終始するだけであってはならない。意図することをいかに念じようと動作に繋がりはしない。
想いと動作を繋ぐものにこそ核心がある。術理である。しかし、想いとは念じることでも期待することでもない。念じることは術理の対極にある。
想いは正に空白である。
2015/2/3
小指球を包んで受けが二教の手となり、肘関節が伸展すれば二教表。
取りは体軸を着けて魄氣が結び、魂氣を陰の陽として真中に二教で持てば、受けの手関節と肘関節はそれぞれ直角に屈曲して腋は開く。
取りの対側の手は初めに包んでいた手と交代して降氣の形で受けの小指球を腋の内にて包むと、取りの母指先は自身の側頸を指しているが、回外して母指球を一気に突き出すと三教。
2015/2/6
片手取り外巡りから逆半身外入り身転換(画像①)と、相半身外入り身転換(画像②)の違いは、天地の結びの天について、前者は手をとらせて結んだまま受けの側頭に横面打ちで結び、後者は陰の陰(二教の手)で取りの額に結ぶ点である。一方、対側の魂氣はいずれも腰の後ろに陰の陽で結び魄氣は陰である。
共通しているのは、基本動作であるから転換でいったん静止して、左右の魂氣を与える動作が反復して行われることである。
つまり、静止することが目的ではない。特に相対基本動作は、静止して受けの動作が封じられることで制圧する技を見いだすものではない。技の静止は残心であって、動作の静止は単に魂氣三要素の一区切りの動作である。あるいは一呼吸の動作であるとも言える。従って相対基本動作における静止こそ、技においてはあってならない瞬間であり、正に動作の連なりによって消し去るべき形である。
基本動作で魂氣・魄氣を表した後の技の稽古では、この点に集中されるべきであって、求める形は残心をおいて他に無いと言ってよい。
2015/2/16
回転の動作を体得することは、“静止を突き詰めなければ動作が生まれない”ことを知る最良の機会と言ってもよい。
単独動作の回転は前方/後方いずれも自然体から最初の軸足作りで始まる。前方回転では、剣線に直角の外股で足先を置き換え軸足とする。対側の足を軸足先に回してその膝窩を軸の膝頭にかぶせるように膝の屈曲によって足先が一回転して剣線上の地に触れる。そこで軸足を一瞬交代して元の軸足をその場で270度外方向に廻して直ぐ軸足に戻る。その瞬間に対側の足先を90度内方に踏み替えるとそれが最終の陰の魄氣の軸足となり、前方回転は完了する。
後方回転では、剣線に直角の内股で足先を置き換え軸足とする。対側の足を軸足の踵に回して膝を屈曲して膝頭が軸足の膝窩に嵌まるように跳ね上げた後直下の剣線上に足先を着地して一瞬軸足とする。その直後に元の軸足をその場で225度内方向に廻して直ぐ軸足に戻ると、対側の足先がその場で135度外に廻って剣線に沿って置かれ、陰の魄氣で後方回転が完了する。
陰の魄氣の軸足が出来て終わるのが前方回転、陰の魄氣の前方の足先が置かれて終わるのが後方回転。いずれも目付けが前方の足先に先導して廻っていく。気持ち、目付け、体軸が先行して足腰の魄氣を動作していく。
魂氣は単独の場合、膝の上と腰の後ろにそれぞれ置かれるが、完了した陰の魄氣では腰の手は陽の陽で前方に発し、対側は膝の上から腰の後ろに結ぶ。
2015/2/26
静止は形、その連なりが動作である。魂氣三要素の陰陽と結びは形であっても、陰から陽、陽から陰への巡りは動作である。
また、吸気と呼気にはそれぞれ始まりから終わりまでの相があり、吸気と呼気の境目は正に点である。魂氣の陽は吸気とともに発し、陰は呼気とともに結ぶことであるから、形は各相にあり、巡りは境目にあるということになる。つまり、相という間に静止が、境目の点に動作があるのだ。
ところで、相を点に近づけることが一気であるから、ひと呼吸を一気で行えば、静止も動作も一点で行える理屈となる。
一方、魄氣の三要素である陰陽、入り身、転換・回転のうち、体軸の移動は入り身に伴う残心と入り身転換による軸足の交替においてのみ可能である。すなわち、動作は入り身と転換であり、陰陽は体軸が軸足から前方に揺れるだけで明らかな動作ではない。
さらに、回転は軸足の確立とその場での交代によって、体軸の安定した静止をもたらす。足・腰・体軸の魄氣が不動であるからこそ、魂氣の動静が発揮されるのである。
魄氣の陰陽と回転は体軸から見れば静止であり、入り身(残心)と(入り身)転換または(内/外)転換は動作である。
2015/2/28
呼吸相の吸気は魂氣の陽、呼気は陰の動作であり、吸気で上肢が緊張伸展し、呼気で弛緩屈曲して体軸に帰る動作である。境界点は呼吸の一瞬の静止であるが、上肢の動静は魂氣三要素のうちの陰陽の巡りであるから動作に相当する。単独動作で魂氣の結びとは呼気の終末で掌を包んだ手が丹田や側頸に接触し、あるいは狭義の陽で開いた手の上肢全体が体側に着いた状態であり、いずれも静止である。しかし、境界点で巡って吸気と共に魂氣を発すれば、やはり点上での動作となる。
動静一如という語句の解釈であるが、一つには、時間軸上において限りなく近い動静が、互いに必然的な関連をもつ順序にあることを指す。
ただし、呼吸相の境界点においても、呼吸の静止とともに魂氣の巡りという動作を同時に伴うものであるという意味で、正しく動静一如と言えるのである。
相対動作では、巡ったときの魂氣の間合いが、接点から拳一つ分入ったときに結びが生まれるから、結びそのものは巡りに続く魂氣の静止である。例えば、呼吸とともに氣結びを成す呼吸法は、境界点上の静止と魂氣の動作つまり巡りが重なるとともに吸気で魂氣の陽を示す。
その上で、呼吸相が“一気”によって限りなく一点に近づく稽古を行えば、ひと呼吸の動静が一点で現されることになる。それほど速い動作が静止に重なるとき、動静一如という語句から“勝速日”を思い浮かべずにはおれない。
2015/3/6
動静一如には、静止の連続が動作であり、動作は無数の静止の連なりであるという意味が含まれるであろ。。また、一瞬の点が無数に集積した線上を時間とすれば、その時点に対応する姿は一つの形であり、連続して変化する形の無数の集積が動きである。
ある語句のもつ意味がそれぞれの想いを動静として伴う場合、それを技という。特有の形が時間とともに連なっていくということに他ならない。
言葉と想いと動作の三位一体は、言い換えると特定の形の各部位における必然性である。これは術理であったり、氣の要素を具現する動きであると言っても良い。従って動作とは特定の術理に伴った、特有の緻密な形の変化であり、静止とは変化を伴わない一定の形である。
どちらでもないのは動静たり得ない姿、すなわち魂氣と魄氣の要素に一体となり得なかった形のことである。いや、形なき姿という方が正確か。
2015/3/9
言葉と想いをそれぞれに反芻し、その一方で体を動かして、その間に脈絡の現れることが期待できるであろうか。言葉と想いの直結しない動作というと、神経支配を失った筋肉のようなもので、利のある動きは望めない。確かに初動から終末までの大半を片手が垂れていたり、中心部の動きに釣られて揺れていたりするだけで、魂氣の要素が発現されない動作を見ることはままある。両手足を存分に生かさなければ徒手の武技はたちまち劣勢となるのである。
ただし、無駄の無い動作とは両手足を終始突っ張る訳ではないし、力なく垂れ下がる訳でもない。陰陽を巡らすのである。足腰では軸足が地に結んで魄氣を受けているとイメージし、それは必ず片足であり陰の魄氣とよんでいる。対側の足が置き換わりそこで次の軸足となる。これを繰り返すことが即ち歩行であり、入り身、転換、回転、残心である。
両手も一方が陽なら他方が陰であり、それは広義でも狭義においても当てはまることである。従って、呼吸とともにいつまでも巡っていられ、いつでも結ぶことができる。その上、この魂氣の三要素は魄氣の動作に欠くことができない。単独動作も相対動作もその動静は魂氣と魄氣の両輪から成り、これこそが合氣の本質である。
2015/3/14
天から魂氣を上肢に受けて側頸から体軸を下り丹田に結び、地から魄氣を足腰に受けて丹田で体軸を支える。このような語句と想いこそ合氣道の動作を生み出す肝心の要素であり、これらの三位一体で新たに生み出されたものこそ合氣道であると理解している。
上肢の動作には、丹田から魂氣を発するだけでなく、体軸を昇り、側頸か額の真中から発する一方で、その逆の道を辿って丹田に降りるか地に結ぶ場合がある。
ここで、上肢に天から魂氣が巡る思いを欠くと、その動作はたちまち足腰から延長した魄氣の裏打ちによるものとなろう。一般に、上肢の動作は足腰体軸から発せられるものほど力強さを生み出すものであるが、その力も、呼吸の裏付けが必要であり、出しっ放しでは瞬時に中心から枯渇してしまう。呼気と吸気という正反対の動作こそが上肢の機能には必須であって、呼気に伴う上肢の弛緩屈曲と吸気に伴う緊張伸展である。つまり、魂氣の陰陽・巡りである。
足腰のただ延長として上肢が動けば、魂氣の三要素が疎かになる。直ちに魄氣の陰陽による軸足と体軸の結びが曖昧となり、目付けは伏して呼吸が滞ると魂氣無き上肢という悪循環に陥ることとなろう。
2015/3/18
弘法大師空海が平安時代初期に大成した真言密教の教えを教義とする真言宗では、その修行方法を三密加持(さんみつかじ)とよぶ。仏の身(しん)と口(く)と意(い)の三つの行為を三密(人々の理解を超えているので密)という。一方、人々の行いは身業(しんごう)、口業(くごう)、意業(いごう)の三業と呼ぶ。
仏の大悲(だいひ:仏の大きな慈悲の心)の力が衆生に加えられ、一方衆生の信心が仏に伝わることで双方が相応一致することにより、仏と人々の持つ三密(三業)が入り混じって各種の効果、不思議な能力が発揮される。これを三密加持という。この状態を、人と仏が一体化し不思議な能力が覚醒するという意味で入我我入(にゅうががにゅう:仏が我に入り我が仏に入る)と呼んでいる。
われわれの合氣道では、語句とその想いとそれぞれに伴う身体の動静が三位一体となった形こそが合氣である。そして、形から入れないものが合氣である。
入我我入とは天地の氣結びに繋がり、また不思議な能力が覚醒されるとは魂氣と魄氣の結びからなる氣力(呼吸力)を体得することに通じるであろう。仏を天地の神に置き換えたなら、さらに魂氣と魄氣に置き換えるなら、三密加持とは正に合氣と通底する。それは禊に他ならない。
*参考:高野山真言宗 総本山金剛峰寺 公式サイト
2015/3/23
基本動作の連なりが昇華されて、目にすることのでき無い形こそ技の核心であり、目にする技の形からは形の無い核心を知ることが出来ない。また、魂氣三要素と魄氣三要素を稽古する単独呼吸法と単独基本動作無くして技という形は現れず、技をなぞって形から入る稽古では形の無い核心の形に届かない。
語句(技の名前)と、それに対応させようとする想い(氣の思い入れ)の下に動静(技)をなぞっても、核心の形に届くことはない。それは合氣の三位一体ではない。語句(魂氣と魄氣の三要素)と、その想い(魂氣魄の天地の結び)と動静(禊と単独呼吸法・動作)の三位一体こそ合氣である。
三位一体では基本動作の一部の形が消えて、技の形が産まれる。禊に示される魄氣の陽こそ、そのものである。一方、技をなぞって形から入る稽古では基本動作の形に無い形を産み出してしまう。
核心の形を昇華することの対極にあって、核心にはない形を作ってしまうことこそ戒めねばならない。
2015/4/2
天地の成り立ちを魂氣魄とする想いがそもそも合氣道の根元である。
そして、魂氣と魄氣の丹田に結ぶことが氣結びすなわち合氣であり、その動作が禊である。これを『合気神髄』から読み取れる概念として、稽古を組み立てている。つまり、魂氣魄や魂氣の三要素として陰陽、巡り、結びといった語句とその意味とそれぞれに応じる動作の三位一体により合氣の姿が現れる。
魄氣においても陰陽、入り身、転換・回転という三要素によるそれぞれの三位一体が動静を明らかにする。魂氣と魄氣が臍下丹田に結ぶとき、この三位一体が産みだすものを合氣の基本動作と称するのである。
つまり、このような特徴を有する魂氣と魄氣の結びが相対的に為されるとき技が産まれ、これら氣を核心とする武道が合氣道である。
一方、心技体を三位一体とする武道や技芸全般の概念では、心の働きである意志や価値観、体の働きである健康と身体能力、これらを基にした技量が互いに影響しあって、各々の道で全人格的な向上が望まれるということになろう。
しかし、技そのものがいかにして形作られるかという点では、各武技や技芸において特有の要訣が存在するわけである。したがって、特定の武道において、心技体を修練上の概念や心構えに置くことが、的確な指針とはなり難いと感じるのである。
2015/4/2
語句とその想いと、対応する動作の三位一体で呼吸法を知る
まず、呼吸法とは呼吸と共に氣結びを為すことである。吸気・呼気の一呼吸か、一呼吸半、あるいは二呼吸で魂氣の結びのみならず魄氣の動作として体軸の結びが含まれる。
魂氣は陰陽と巡りで氣結びに至る。魄氣では、陰陽と入り身転換あるいは転換・入り身で体軸が結ぶ。転換から回転の場合もあるし、いきなり後ろ回転もある。いずれにしても、魂氣が結ばなければ入り身転換や回転を為すことはできないし、一方、入り身転換や転換・入り身をしなければ魂氣の結びに至らない場合もある。魂氣と魄氣のそれぞれ三要素が連なって呼吸と共に氣結びの動作が行われるわけである。
三要素にはそれぞれに言葉と想いと動作の三位一体がすでに包含されており、これらを呼吸と共に行えばすなわち呼吸法である。
ピットフォールの典型はこうだ。ある形や状態を望んで念じるように体で表現しようとする。魂氣三要素を欠いて次第に筋緊張と収縮が亢進し、正に硬直するかのごときである。そのような場合、魄氣の三要素も消え失せている。むろん呼吸は止めたままであろう。この正反対は、互いに相対動作が終始弛緩して陰陽の巡りを欠落していることである。
氣の三要素自体が曖昧となれば、三位一体も成り立たないことになる。語句と想いと動作に脈絡が無ければ、ただ空転するのみである。
氣の要素それぞれの語句に、想いと、動作が伴い、魂氣と魄氣を呼吸と共に結べば三位一体の呼吸法となる。
2015/4/8
両手で気の巡り 正面打ち
⒈ 陰の魄氣
自然本体から呼気で左手を腰の後ろに廻しながら左足に重心を寄せて、右足先を剣線上の前方に置き換え魄氣の陰としつつ(鳥船イェイの足腰)、右手を体側に沿わせて前方へ丹田まで巡ると母指先は左方を指し、掌を包んだ他指は丹田にあって天を指す。右上肢全体が右半身(はんしん)に密着し、右半身(はんみ)入り身運動残心からの陰の魄氣の姿勢に相当する(画像①)。
2. 片手で氣の巡り
この姿勢から単独呼吸法坐技の両手で氣の巡りを動作する。吸気で右手陰の陽の魂氣を上段に与える。つまり魄氣は右足を半歩前方へ進めて、母指先は左内外方から受けの正中眉間に向けて差し出し、吸気相の終末は魂氣を陽の陽で手は完全に開き、母指先は反りに合わせて右外方を指し、他指は揃って受けの眼裂の右から左に向けてなぞり、左足は送り足で右踵に接してその足先は左前方を指している。同時に魂氣は右体側に巡り、上肢は自然体同様腋が閉じて伸展したまま体側に密着するが掌は前方を向き、狭義の陽で広義の陰を呈している。残心である。この場合、左手は終始腰の後ろに結び右手だけを巡らす(画像②)。
3.両手で氣の巡り
左手を同時に陽で発する場合もある。右手を陰の陽で上段に与えると同時に左手を陽の陰で発して(つまり両手で氣の巡り)、呼気では陰の陰に巡り丹田に結ぶ。母指先は地を指し上肢全体が右半身(はんしん)に密着し(画像③)、上体は右半身から左半身に転換し、左足は残心としての右踵への送り足を更に進めて左踵を右足内側中央へ着けて左半身となる。左半身陰の陰の入り身運動残心に相当する。この場で重心を右足に移して軸とし、左半身陰の魄氣になり魂氣をそれぞれ左は陰の陰から陰の陽、右は陰の陽から陰の陰に巡ると、上記2.の状態で魂氣と魄氣が右から左に転換した姿勢となる。一教運動表連続動作である。
魄氣を外転換でこれを行えば横面打ち後手・転換(画像④)で次に入り身となる。外して詰める魄氣の動作に伴う魂氣である。
2015/4/21
⒈坐技両手取り呼吸法
地は①内巡りで丹田に陰の陽、②降氣の形から陽の陽で母指先方向へ発し陰の陽で体側に結ぶ
天は①内巡りで昇氣(上体は入り身運動)、②外巡りで肘を落として回内/陽の陽で横面打ち入り身運動、③降氣の形から回外して陽の陰、
⒉後ろ両手取り
天地に結び、天を軸足に乗せる
①天は降氣の形から回外して頬から額に陰の陰結ぶ
地は丹田に陰の陽
②天は昇氣で側頸に陰の陽
地は腰の後ろに陰の陽
2015/4/22
合氣道では、目付け・体軸・手・足・腰の一致を基本的術理として最重要視すべきと考える。また、体軸と目付けの一体であること、腰と体軸は連続するものであることから、その核心は、軸足と体軸と手の直結に集約することができる。
手は魂氣の動作、軸足は魄氣の動作を現し、体軸を中心にして連なることが、つまり魂氣と魄氣の結びである。合気道とはこの魂氣と魄氣が一体になる姿勢と動作から始まり、それを裏打ちするのが魂氣・魄氣それぞれ三要素の語句と想いである。
単に足ではない。たとえ軸足であっても体軸を介する手の連動が無ければ意味をなさない。そして、手が魂氣三要素を現そうとも、軸足と体軸の魄氣三要素と同期しなければ合氣は生まれないと言うことである。
新しい着想から合氣道において意義のある新たな価値を創造し、合氣道の稽古と理解に大きな変化をもたらす幅広い変革、合氣道の新しい捉え方が、その時代時代に生まれてしかるべき、と考える。一方で、一人の合氣道に新たな切り口を加えるだけで、そのものが変わるわけでは全くないのである。また、その切り口が合氣道の核心に向かわないのであれば、当然論外と言うべきであろう。
合氣道を被う霞には新たな切り口もなにも見出すことはできないはずだ。
2015/4/25
取らせた手を天(額)に結ぶ場合、降氣の形から陰の陽の魂氣を側頸で陰の陰に巡って頬を伝って額に結ぶと、取らせた受けの手も二教の手となる。対側の手を差し上げ受けが後ろに廻って同名側の手で取ると同時に取りは両手を地に降ろす。
受けが前受け身で離れていくと呼吸投げであるが、技の成立を見ないときは、すなわち、地に着いた取りの陰の陰の手には受けの同名側の手が繋がっている。外巡りで地を母指先方向(外側)へ滑らすと受けの上肢は取りの前で伸展して地に結ぶ。対側の手は地で陽の陰に巡り受けの上腕伸側に結び固め。
後ろ両手取りの呼吸投げでは、呼吸と共に受けと氣結びを成す呼吸法に加えて、地に結ぶことが不可欠である。なぜなら、受けに与えた魂氣は受けが手首を取ることで繋がるものの、取りがその上肢を単に振り出して受けを投げ放つ動作に移っても、陰陽、巡り、結びの呼吸法が伴わないため呼吸投げには至らないからである。
投げが生じるということは、受けの体軸が両足の内三角に倒れ、一側の手がその地点に結んで前受け身の初動が始まらなければならない。従って受け身で地に着く手は、取りの魂氣がすでにそれと結んで地に巡らなければ動作を引き起こすことにはならない。結びを解き放つのではなく、陰に巡ってひときわ内に入ること、つまり二教の手で受けの手に結ぶことが肝要である。
2015/4/28
真髄とは基本を措いて他にない。
道を体得することは、則ち真髄を突き詰めることである。
したがって、初心者、若年者、老練者を問わず、道を歩むものはすべからく常に基本を為すべきである。
応用とは基本を逸脱するまいという意志のもたらす結果に他ならない。
つまり、基本の際立つことでこそ上達が明らかになるというものである。
基本即真髄。
また、基本は魂氣と魄氣の結びであり、それぞれの三要素を行うことが合氣道である。なぜなら、三要素がそれぞれ、言葉と想いだけでなく動作を伴う三位一体であるからだ。
形は傍観の映像に過ぎないけれど、基本がそのまま現れるのも形である。しかし、形の映像を動作することが合氣を生み出すわけではない。魂氣と魄氣それぞれの要素を成す言葉と想いと動作の三位一体が、形に現れ、技を生みだすのである。
2015/5/12
横面打ちを丹田に巡る(画像①)、または、下段に与えて片手取りを丹田に巡る。
何れも上肢は伸展して同側の胸腹部に巡り、同側の腋は胸に対して閉じるものの体側は開く。
それに連なる同側の足先と腰は体側と共に前方へ置き換わることが可能となる。それは魄氣の陽、つまり鳥船における体軸の前方移動に相当する。後方の足を前の踵に送り、両足を接して一本の軸足とすれば残心で、次の瞬間どちらの足でも軸とすることができる。
入り身転換では、後の足を一瞬軸とすることで前を内股に踏み替えて軸とし、目付けと上体を振り向いて、後に位置していた足先を目付けに合わせて転換する。陰の魄氣であるからその足先は地に置くだけで、足底にて踏み込むことはない。これこそが重要な点である。下段に与えた初動での半身は、今や転換して陰の魄氣で振り向いている(画像②、a,b)。
つまり、上肢の魂氣が上体に巡り、密着して魄氣に結ぶことで腋から下方に隙間が生まれ、同側の足腰を初めて前方に進めることができる(画像③)。魂氣の丹田への結び無しに入り身・転換は成立しない。また、結びとは陰陽・巡りによって為されるのが魂氣三要素の法則であり、これらの語句とその想いに伴う動作は三位一体であるから自ずと形は一定し、魄氣の三要素がそれに応じて生み出され、その動作は入り身・転換そのものである。
魂氣三要素の無きところで魄氣三要素(陰陽・入り身・転換回転)、つまり足・腰・体軸・目付けの動作を行おうとするのは、形をなぞる動きに留まるということである。魂氣はすでに筋緊張の持続で息の滞りとともに受けの上肢に突き当たり、その接点は受けを排除するための仕事量にかかわる場にすぎない。
2015/5/27
受けに魂氣を与えて片手取りを例とする。受けは取りの手を鷲掴みにしているが、握る力は取りの手首全周に及び、受けの掌に向かっていく。受けが取りの上肢から体軸・足腰に掣肘を加えるということは、取りの手首を握った受けの手を腋の開閉によって自身の中心に繋ぎ止めようとする動作である。この動作を弱めて尚かつ取りの手首への繋がりを保持するものは、魂氣の三要素に裏打ちされた取りの動作であり、魂氣の結びに帰結する。結果受けの行動を取り自身の体軸において、取りの主導で行うことを魄氣の結びと言う。それによって自在に導く運動量を呼吸力と表現することになる。
そこで、受けの手と取りの手首の繋がりであるが、受けの手は弛緩屈曲の高じるにつれて取りの手首を離すことができない。なぜなら離すには手指を少なくとも伸展させなければならないからだ。
次に、受けからの握力を減らす方法として、一つには受けにとらせた手首と受けの掌との接着面積を少なくし、浸透力を減らすことがある。取りが手首と肘を屈曲し、掌を陽で母指先を頸部に巡らせて広義の陰とすれば、我々の言う降氣の形である。受けは手を反屈にして、三教の手に導かれる。すなわち、受けの掌底から手掌の中程にかけて取りの手首表面から離されていく。
今一つは、受けの手に浸透力を発揮させないようにすることである。伸筋の緊張を減じることにより上肢の伸展に伴う浸透力を接触面において弱めるのであって、弛緩屈曲を行わせることである。つまり二教の手とすることである。
いずれの場合も受けの上肢をその躯幹に密着させないで腋を開けさせることが肝要である。初動で受けが魂氣を発することは丹田との結びを解いた状態であるから、それは同時に受けの氣力の及ぶところが受け自身の上肢に限られることになる。したがって、受けの上肢によって天地に分けられた空間は、たちまち取りの魂氣が入り得るところとなる。氣結びとは受けとの接点から取りが拳一つ分以上中に入ることと定義しているから、受けの上肢の周りを取りの魂氣が巡って結ぶのである。
一方、地に分けられた空間には取りの足腰、つまり魄氣が入り得るわけで、正に入り身である。魄氣の三要素を動作して転換と陰の魄氣の姿勢で魂氣がむすぶとき、受けは二教の手を示しており、取りから離れることはない。ただし、取りの手がさらに母指先から陰陽へ巡る際、対側の手が切れ目無く受けの手を包み取り自身の体軸に着け、魄氣と結ぶことで合氣が為される。
魂氣と魄氣のそれぞれが互いに結ぶとき、そして魂氣と魄氣が取りにおいて結ぶとき、その言葉の想いが動きを現して形が生まれることは術理である。
形に現れない結びは三位一体の合氣ではない。
「合氣道は二教、三教、入り身である」と。
2015/6/18
禊(画像①)と単独動作(単独呼吸法坐技と単独基本動作)と相対動作が観念のみで繋がっているのではなく、言葉と想いとそれぞれに対応する動作(三位一体)がそのまま共通するのである。
手肘脇が魂氣の三要素;陰陽、巡り、結び、を。また足膝腰が魄氣の三要素;陰陽、入り身、転換・回転、をそのまま現し、軸足は丹田の上に体軸を連ねて目付けが生まれる。
母指先からは伸展のまま魂氣の兆しが常に存在し、陽で発するのも、陰で巡るのも(画像②)母指先の反りに合わせるから結びが成り立つ。魂氣と魄氣それぞれの三要素が丹田に結び、巡りが動作を連ねて行く上で一眼二足三胆四力が自ずと体感され、特有の達成感が稽古の度に再現される。
理を持って伝達され、共有されるべきものが術である。理とは粗玉を磨き美しい模様を出すことに由来する、と言う。開祖が先達に伝えられた理は、その核心から見事な模様を表出しているのであり、それらを共有できることの感謝こそが稽古の心である。
2015/8/9
片手取り入り身転換・体の変更で見逃しやすい合氣の本質とは。
魂氣三要素と魄氣三要素はそれぞれの言葉に想いが裏打ちされ、それぞれに相当する上肢と足腰の動きが伴う。しかし、言葉に想いが符合しない場合、あるいは想いと動作が合致しない場合、つまり、言葉と動作が互いに一つのまとまりを欠くと、それで術としてまとめようとしても三位一体へと昇華することはない。
腋、肘、手首、指で上肢は屈伸するものである。ところが、手首を受けにとらせて上肢を伸展・固定したまま筋緊張を高め、上体をねじり、体軸をずらすことで受けを四方へ動かそうとする動作を、時折目にする場合がある。両足とも地を踏みしめながら足底をひねることで上肢を微動させても、魄氣の陽で体軸がとどまり、魂氣も陽のまま息が詰まるだけである。
魂氣と魄氣の要素が不確かな上に、受けを掣肘するという想いの際立った動作は呼吸法による氣結びの対極にある。
陰の魄氣で魂氣を丹田に結んだ入り身転換(画像①)から、前方の足を後方に置き換えて魄氣を陽とし、魂氣を丹田から陽の陽で差し出すと、受けは取りの手を取ったまま取りの背に密着した状態から前方へ放たれる。体の変更である(画像②)。
2015/8/23
諸手取り呼吸法においては 外転換で剣線を外しつつ上肢を呼吸法で陰として母指先だけは側頸に向かう狭義の陽で掌に魂氣を包む想いとする。つまり、降氣の形と呼ぶ上段への結びを行う広義の陰で狭義の陽の魂氣である。
降氣の形から陰の陽で側頸に結び、昇氣の呼吸法同様に脇を開いて受けの胸骨上窩に嵌まった肘を中心に前腕の伸展で側頸から魂氣を発する。一旦畳んだ上肢はこのとき完全に伸展している(画像)。
それに反して、一旦与えた手首と腕を単に氣力を念じて再び使おうとする動作はことごとく受けの制圧に突き当たる。側頸に巡らず脇の開閉が曖昧で宙に浮いたままの肘を支点にして掌を包むだけでは、すでに失った魂氣の巡ることは無い。つまり、そこから上肢を伸ばして受けの中心へ魂氣を及ぼそうと動作しても、手首から近位の上肢が受けの抵抗力をまともに受けることとなる。なぜなら、取りが魂氣と魄氣の結びを側頸でなし得ないために、受けの魂氣は自身の魄氣のもとで発せられている状態に変わりはないからである。
取りの魂氣が掌に包まれていないということは受けの方から接点へ魂氣が及んでいることに他なら無い。受けの発する魂氣は受けの体軸に巡ってこそ丹田に結び足腰に連なりその体軸が維持される。それは受けの制圧が四教として成り立つときである。
2015/8/29
受けの魂氣を包み魄氣と共に取りの魄氣に結ぶ動作
魂氣の接点から拳一つ分中に入ることが氣結びの定義であるが、一方、取りの魄氣に受けの魂氣や魄氣が包まれ取り込まれることもまた氣結びである。
丹田に結ぶとは体軸に結ぶこと、軸足が確立していると言うこと。逆に軸足が無くて両足で踏ん張ったとき、丹田の前方で動作をしても、存在しない体軸とは結ぶことがない。つまり相対動作に当てはまれば、受けとは魂氣においても魄氣においても結んでいないこととなる。
典型は小手返しで受けの母指球を包んだ時である。丹田の前で小手を取っても軸足が無ければ体軸に結ばず、ただ片手一本で受けの手を取っているだけで、受けにとっては取りから魂氣を受けること無く体軸を取りに寄りかかることも無い。互いに腕の分だけ離れているだけである。
小手返しは受けの掌が取りの軸の中で陽から陰に返ることであり、必ずしも手首を屈曲させることではない。互いの中心から離れたところで受けの手首を取れば、大きく屈曲させて取りの体軸まで前屈にさせることで投げを起こさざるを得ないであろう。
取りの軸の中で受けの魂氣が陽から陰に巡るとは、取りの魂氣にまず受けの魂氣が包まれることである。取りが受けの母指球を包み、丹田で体軸に密着して後ろ回転で軸が転じるとき、小指球を対側の手で包む。これにより受けの魂氣は取りの魂氣に包まれ、同時に取りの体軸、魄氣にも結ぶ。すなわち合氣が成り立つ。
ちなみに、二教と三教は先に小指球を包み、次いで二教裏は母指球を側頸の近くで体軸に密着することで受けの手を取りが完全に包むことになる。三教表では母指球が取りの膝上に密着し、裏固めでは取りの異名側の胸に密着する。受けの手はいずれも陰に巡っている。即ち受けの魂氣は陰に巡って掌は取りの体軸を経て魄氣に結ぶのである
また、鏡返しでは一側の手で受けの手首を取り、対側でその手背を全体に包み、杖の返し突き近似で手首から先を刈り取るように後ろ回転する。取りの体軸は一回転し、受けは取りの体軸を中心に螺旋で落ちる。
2015/9/15
手の動作を魂氣の三要素で、足腰目付けの動作を魄氣の三要素で現す
(柔道では崩し、捌きと言うようである)。
前者は陰陽、巡り、結び、後者は陰陽、入り身、転換・回転である。これらはそれぞれ魂氣と魄氣の単独動作であるが、相対動作となれば互いの魂氣・魄氣をそれぞれに結ぶ動作が生まれる。そして、いわゆる間合いの概念は互いの魂氣の陰陽の動作により生まれる。また、剣線の概念は入り身、転換・回転の動作が生み出す。
終には取りの単独動作に戻り、天地の結び、つまり魂氣と魄氣の結びが残心となって、そこには技が生まれる。また魂氣が丹田から直下の地に結べば投げや固めになる。
ここでは魄氣三要素、すなわち単独基本動作から生まれる技を列挙する。足腰目付けの形をそのまま共有する技が明確となる。
2015/10/3