*神氣館【 高槻市 天神町道場 】               Shinkikan aikido tenjinmachi-dojo (公財)合気会公認道場                                   Takatsuki-city Osaka JAPAN         大阪府合気道連盟加盟道場                                       開祖植芝盛平の言葉と思いを動作する basic techniques from words and thoughts of the Founder, Morihei Ueshiba        不動の軸足に陰の魂気:〝吾勝〟  非軸足と魂の比礼振り:〝正勝〟        〝この左、右の気結びがはじめ成就すれば、後は自由自在に出来るようになる〟:軸足交代         二つはこんで一と足すすむ・入り身一足と、体軸に与る両手の巡り:〝左右一つに勝速日、業の実を生む〟       〝正勝吾勝〟で剣素振り 合気の剣は〝勝速日〟 〝正勝、吾勝、勝速日とは武産合気ということであります〟                      「魄阿吽の理念力」のタイトルに 1. 合気道指導演武 2025/1/1                       2. 合気道では何故剣素振りを欠かすことができないのか 2025/1/25 「令和7年のおしらせ」に1月の稽古予定                          稽古の記録 2010/8/15〜2025/1/26

1. 「うっちゃり」(打っ棄り)と合気道の返し技は〝正勝吾勝〟

 「うっちゃり」(打っ棄り)と合気道の返し技は〝正勝吾勝〟

 

相撲にある「うっちゃり」とは次のような技である。

【土俵際に寄り詰められたとき、腰を落とし、体を反って相手の体を腹に乗せ、左右にひねるようにして土俵外に投げ捨てて勝ちます。土壇場で劣勢を逆転する技です。】(日本相撲協会ホームページ)

 

【土俵際まで寄せられた、または土俵際で吊り出されそうになった力士が腰を落とし、体を捻って、相手力士を土俵の外へ投げるもの。語源は「捨てる」を意味する「打ち遣る」から。そのままでは寄り切られるところを、逆転する技である。

うっちゃりを決めるためには相当の瞬発力と勝負強さ、そして強靭な足腰が必要である。

吊りや四つ身を得意とする力士がこの技の使い手で知られており、またアンコ型の力士が自分の太鼓腹に相手を乗せるようにして掛けることもある。】(ウィキペディアより)

 

 【逆転する技】は合氣道での返し技に相当する。

 【体を捻る】とは、左右の足で片寄りなく踏ん張って上体を支えた上で、体幹軸を左右いずれかに捻ることである。

 また、「打ち遣る」とは接頭語の「打ち」が「遣る」に付いてその動作を強調する語であり、「遣る(棄てる)」とは、この場合、「物や人を遠くへ行かせる」という意味であろう。

そこで、相手の圧迫、重さを左右対称の両脚で受け止めた上で体幹軸を捻るには、確かに強靭な足腰が必要となる。

 

【不十分な場合は、同体で取り直しになる場合もよく見られる。失敗して掛けた方の体が先に落ち、行司差し違えで負ける場合(この場合の決まり手は寄り倒しなどになる)も存在する。】(ウィキペディアより)

 

【不十分、失敗】とは、つまり体幹軸を捻る動作についてである。腹に乗りそうになった相手の体が、技を掛ける力士の体幹軸を捻る方向に打ち遣られる途中で、その回転角度が乏しければ体幹軸は捻れながら両足が土俵際を踏み詰めたまま後ろに倒れるわけだ。多くの画像を見ても、体軸が作れず左右の足を対称的に踏み詰めたまま体幹軸だけを捻ろうとし続ける例に失敗が多い。

しかし、【体】とはその運動性から見た場合、片側の手、足、腰と方向を示す目付け(頭部)が一本の直立する軸となって、対側の手、足、腰は自由にその位置を置き換えるという機能を持つ。つまり、体軸を中心にして対側の手、足、腰、体幹が置き換わり、前後左右に軸足が交代していくことで非軸足側が連続して、直線的にも転換しながらも移動することが可能である。これは直立二足歩行の機序である。したがって【体】については体幹軸と体軸を区別しなければならない。

 そこで、いずれかの足を軸足として体幹軸をそれに直結し、体軸を確立すると同時に転換すれば、体軸は90度近く回転することになる。正確には体軸が回転するわけでなく、軸の周りを非軸足側の上下肢と体幹の半分が相手の圧迫の半分とともに外に開き、相手の体は土俵の外へ回りながら落ちるであろう。つまり返し技の本質は、まず自身の体の半分を「捨てる」動作である。

 非軸足先には相手の重さが伝わらず、うっちゃる方が土俵を割ることはない。相手の体との接触部が少なければ、それだけうっちゃることが容易になる。

 

体捌きを交えるなら、必ずしも常識を超えた強靭な足腰が必要とは限らない。動作の文章化をもう少し丁寧にすれば以下のようになる。

体幹軸を捻るのではなく、振り子運動で体軸を作った瞬間、正対から非軸足側へ直角に方向転換すると、土俵際に置かれたまま伸展した非軸足側に相手の重さの半分が掛かり、残りの半分が体軸に接着している(結んでいる)。体軸は捻じれるのではなく、足底が土俵上を踏みつけながらほぼ90度内に転換するから非軸足方向に回るのであって、上体は扉のように土俵外に開くこととなる。

相手の上体は術者の非軸足側の半分が土俵外に向けて進み、締め込みを掴んだ術者の同側の手は軽さを得る。相手の体幹軸は土俵外に向けて捻れるため体軸側の相手の重さは急速に非軸足側の土俵外へと移り行き、やがて相手の体幹軸に連なる足は非対称となって体幹を支えきれない。術者の軸足とは対象的に相手の異名側の足は土俵上から離れ、対側の足は傾斜した体幹軸に連なるだけで体軸を作り得ない。そして相手の上体は反転して土俵外に落ちる。術者は体軸が確立していれば土俵上で完全に残ることも可能である。

 

この動作は開祖のいわゆる〝正勝吾勝〟(『合気真髄』p70)そのものである。

例えば、返し技の本質は体軸の確立、もしくは左右交代にある。体軸とは片側の手・魂気と足腰・魄気が結んで(繋がって)、足底から頭頂までが一本の軸となって直立するものである。つまり、対側の手足が体軸から解かれて、それぞれが自由になることを含んでいる。それまでその手足にあずけていた相手の重さと自らの体重が新たな体軸に移るということになる。開祖はそれについて、〝空の気を解脱して真空の気に結ぶ〟(同p67)と表現する。

 

まとめ

    体幹軸を捻る:片寄りのない両足で地を踏む

     体軸で開く:片足を体軸にして対側を棄てる 

  いずれも両足ともに地から離れないが、

    後者は捨てた方の足先も地についたまま離れない。

                                2024/4/4

2. 合気道における上肢の運動表現

 伸筋の収縮で肘関節が良肢位から開いた状態を緊張伸展とし、弛緩して閉じることを弛緩屈曲と呼ぶことにする。手首と手指も同様の表現である。

 肩関節では、腋が閉じて上肢が下垂した状態を弛緩、腋が前方へ軽く開くと下段に伸展、直角に開いた状態を中段に緊張伸展。腋がさらに開いて肘が肩より高く上がると、上段に掲げて振りかぶる動作となる。ただし、これは整形外科学的な可動域表現とは異なる。

                               2024/4/10

3. 合気道は争わない、表と裏で気結びする

真の武道は大きく和するの道であり、身心の禊である〟(p162)

〝合気は和合の術である〟(p163)

〝争いに勝たんがためならず〟〝正勝吾勝勝速日の道程から 中略 善や正しさを知らんまで修業せねばならぬのである〟(p158)

〝大きく和し、一体となすべき本来の道である〟〝すべてのものが一体にまつりあわせ、和合させることが宇宙の心である〟〝真に和合する宇宙の心を実現する。この合気道こそ、宇宙を和合する唯一の道である〟(p36)

 

 手刀で争うとは互いに中心で当たること。つまり魄氣の陽で同側の足を踏み詰めて体軸を失い、体幹軸を前後の足で支え、その両足先を結んだ線の延長が相手の真中に結ぶように立って互いに手刀が離れないように、上下、左右、前後に競り合うことである。

したがって、争わないとは中心で当たらないこと、すなわち中心を作らないことである。はじめに魂氣の珠を包んだままの陰の気を受けの真中に与えるのである。開祖の正勝吾勝で手刀に合わせる。

中心はない。体軸・吾勝が確立している。対側の魂の比礼振り、自由な手が触れる。そこで円を描いて初めてその中に中心が生まれる

 

〝自分の中心を知らなければなりません。自分の中心、大虚空の中心、中心は虚空にあるのであり、自分で書いていき、丸を描く。丸はすべてのものを生み出す力をもっています。全部は丸によって生み出てくるのであります〟(p154)

 

相手の手刀に接して円を描けばその中心は受けの手刀の中心に一致する。当たらない。その結果、取りの手は接点が螺旋を描いて、掌を開いた手が相手の内に入る。これが魂氣の表の気結びである。

合気道は中心を奪い合って争うのではなく、気結びをするのである。手刀を陽で固めるのではなく、はじめに魂氣の珠を包んだままの陰の気を受けの真中に与えるのである。

 

魂氣を与えようとして後手を引き、受けが手刀を正面に打ち込むとき、陰の気のまま受けの上段に陽で発することはできない。もはや受け流しの選択しかない。陰の陽の魂氣を自身の上丹田に結び、非軸足をその場で軸として体軸が作られると、受けの手刀は取りの体の真中、つまり取りの魂氣の手背に接するが、手根部から前腕伸側にかけて鎬の理によって流れて落ちる。裏の気結びであり、対側の非軸足と魂氣は外入り身で返し突きを受けの後ろ三角へ放つことができる。一教裏や入り身投げ裏が生まれる。

つまり、はじめに与えようとした魂氣は後手を引いたために対側が気結びするための〝土台〟(p105)となり、入り身転換をなせば陰から陽へ返って円を描くこととなる。そこで気結びが成立する。

 

気結びとは、接点から拳一つ分以上手・〝正勝〟が内に入るか、対側の手足腰・〝吾勝〟が転換した〝正勝〟の入ることであり(p70)、後者では互いの魄気が一体となる。

 括弧内は『合気神髄』からの引用ページ数である。

                              2024/5/20

4. 種火

ここで種火とは、母指先に灯っていると思うことにする生命の火である。呼吸の相にかかわらず常時発せられる。掌には魂氣の珠が包まれ、母指は屈曲した示指に嵌って掌を塞いでいるが、母指先には魂氣が種火のように持続的に出ているものとする。(画像

非軸足側にあって体軸から解かれた手では、母指先を体幹から空中に向けることができ、広義の陽の魂氣の兆しを得る。「正勝」と抽象化された。

 体軸を作って丹田や体側から腰仙部に結ぶ手では、陽で発することはないが、体軸上や腰の周りで、陰のまま巡らすことができる。つまり、体軸に与っていても、その軸上であれば手の動作は可能であり、それも母指先からの魂氣の働きによる。このことは「吾勝」と抽象化された。

 吸気とともに母指先から大きく魂気を発する思いで「正勝」の掌を広げて上肢を伸展すれば、吸気の終末には母指先の反りにしたがって魂氣は巡り、手は円を描いて丹田に巡ってくる。魂氣の広義の陰である。

 ここで狭義の陰陽の魂氣について定義する。掌が地を向けば陰、天を向けば陽とする。広義の陰陽を先に、狭義を後に表現することにしている。

 今、広義の陽の魂氣に同期して非軸足が半歩置き変わり、魂氣の巡りに同期した継ぎ足とともに一本の体軸が確立し、一足すすむ動作が完遂する。入り身一足である。左右の手が共に体幹へ密着して魄気と結び、五体は一本の体軸として屹立し、一瞬の静止となる。これは「勝速日」とされた。

 これより直ぐ正勝吾勝で体軸と非軸足を作れば、非軸足側の手には自ずと丹田から陽に発する兆しが現れる。開祖植芝盛平はこれを「魂の比礼振りが起こる」と表現された。

                                                                                   2024/7/4

5. 合気道の指導法

合気道における指導の目的は、行いを共有すること、言葉と思いと動作の三位一体で互いに体得することである。

 

古い動画に残っている海外での講習会などを見ると、すべてを教え切らないという方法があったようだ。

指導者がやって見せてから受けに交代すると、効果的な動作が進まないように振る舞う。つまり、取りの手に結ぶことなく決して崩れず中断させる。手の内を明かさず、指導を受ける人には術技の奥深さが焼き付けられる。それによって探究心が強まり、辛抱強く継続する人が生まれるであろう。ただし、一方では興味を持てなくなって離れる人も少なくないはずだ。十分に教えてもらえなかったという思いを口にする人もいるだろう。

受けは有段者といえども、その動作が遮られる体勢のとられていることに気付き、それを超える工夫が課題として認識させられるという、これも指導の一環であるといえばそうなのであろう。

しかし、その対極にある指導として、その時に可能な限りすべてを教えるという方法がある。小林裕和師範は常々そのことを信条として我々に説いていた。空になるのを惜しいと思わずに全てを与えるなら、必ず周りからそれ以上に多くのものを容れて一杯にしてくれる、と。

 

合気道の稽古を楽しむ者にとって、はじめに達成感をわずかでも得ることができれば、その上での探究心や向上心は予想以上に膨らむであろう。いずれにしても相対動作上の考え得る不備は、顕在化したその場で指導者が共有して解決してやることこそ望ましい。とりわけ初心者に対しては習熟程度に合わせて適切な問題意識を共有することが肝要であって、無力感に覆われるままで稽古が終わることのないよう配慮することが大切である。

指導のその場で互いに礼で終わるのは形だけのものではない。

                               2024/7/16

6. 相半身内転換とは単独動作の外転換に続く体の開き

 相半身内転換とは単独動作の外転換に続く体の開き(体の変更)である。

交差取り入り身落とし、入り身投げ、一教など。

 逆半身で片手取り外転換から体を開くと、隅落とし、手を取り返して二教、三教変法など。

 

 逆半身内転換の一つは逆半身内入り身から体の開き、他に体の開きで相半身へ。または、相半身内入り身で振り込み突きから体の開き。

                                2024/8/17

7.植芝吉祥丸二代道主の『合氣道』

開祖が説かれたように、合気道の〝練習は常に愉快に実施する〟ことが心得の一つとされている(『合氣道』:創始者 道主植芝盛平監修 道場長植芝吉祥丸著 昭和32年光和堂 p164)。

 

植芝吉祥丸二代道主は、以下のように解説されている。

〝武道を通じての「行」は倦まず撓まずやっている中に、そこに実に楽しい境地が出て来るものである。武道の修業は、得てして苦痛を積みかさねるを以て第一とするように思い違いをしているむきもあるが、絶えず気持ちよく鍛錬してこそ真の修業であり、それは、苦痛を苦痛と思わぬ精進三昧になれば実に愉快に実施することができるのである〟(同p165)。

 

「行い・修行」というものは、仏教の三密(口密・意密・身密)加持にもある如く、言葉と思いと動作の三位一体こそがその本質であろう。言葉や用語が不適切であれば、動作とその思いを正しく共有することができない。思いを伴わない語句や動作には安定も力強さも欠くことになろう。動作が不確かになればその思いを表現し実践することが叶わない。

 

〝合気道の技法は全く休むことのない異なった気形の連続であるといえる。そこには何等その一つ一つを区切って取り出すことができない程につながっており、在来の形の範囲を出ているものである〟(同p7576)。

                                2024/8/20

8. 開祖のいわゆる〝自然の法則〟

開祖が〝体の変化〟(p70)を〝千変万化〟(p70)と表現するように、合気道の体捌きは非軸足とその同側の手の自由な動作が次々に作る形を指している。しかし、魄気に基づく軸足と同側の手が作る体軸は動作の対極にある。それは、開祖の言う〝宇宙の受ける気結びの現れとなる土台となる〟(p105)のである。

円を描いて空間に発した対側の手が〝盾となって〟(p105)次にはそれが、はじめ体軸にあずかった手足の〝技のなす土台となる〟(p105)。つまり、軸足の左右交代で非軸足を連続的に左右で維持していき、その同側の手は常に魂の気で自在に陰陽の巡りを動作できる、すなわち円を描いていくことができる。

〝これは自然の法則である。この原則を腹において、臨機応変、自在に動くことが必要である〟(p105)と明言する。

(『合気神髄』より開祖の言葉を引用、かっこ内はページを示す)

                               2024/8/31

9. 正勝吾勝勝速日と魂の比礼振り

動かしてはならない軸足や踏み詰めた足が、魂気を発しようとする手の土台となればその魂氣は魄気と結んで体軸にならざるを得ない。開祖はこれを〝吾勝〟(p70)と呼んだ。その手は丹田に結んでおり、体軸内を上り下りする陰の魂気として動作することは可能であるが、空間に発することはできない。〝微妙な働きができなくなる〟〝魄力はいきづまるからである〟(p18)。

したがって、体軸から解脱した〝魂の気で、自己の体を自在に使わなければならない〟(p18)。これは〝正勝〟(p70)に象徴される非軸足とその同側の手である。

体軸から解かれ、手足の結びが解けて魂気を思う心で手足が同期しつつ自在に動かされる。そこに生まれる姿こそは、〝魄が下になり、魂が上、表になる〟(p13)。下になる魄は体軸側であり、表になる魂は非軸足側であることを読み取らなければならない。

片手取り呼吸法では非軸足とその同側の手が同期して入り身し、〝勝速日〟(p70)で残心を現す。まさに円を描いた〝気形〟(p161)の典型であり、体軸側や踏み詰めた足と同側の手は〝つまっている〟(p18)から、陽の魂気として発することはできないということだ。

非軸足側の〝魂気すなわち手〟(p181)は〝身の軽さを得る〟(p105)。開祖が喩えるところの〝魂の比礼振りが起こった〟(p70)状態であろう。開祖は脱力という語句を用いず、〝空の気を解脱せねばなりません〟(p67)そして〝魄の世界を魂の比礼振りに直す〟(p149)。これは〝自由自在の技〟〝あらゆる技を生み出す中心である〟(p108)と説いている。(以上のページ数は『合気神髄』からの引用)

 

植芝守央三代道主は、著作『合気道 稽古と心 現代に生きる調和の武道(内外出版社)において次のように記されている。

〝全身の構造にしたがった自然な動きにより、効率よく集中して発揮された力を「呼吸力」と呼んでいます〟(p72)

〝無駄な力の抜けた自然体の構えから発揮されるものです〟(p73)。

 

力を抜くではなく、「力の抜けた」と表現されていることに着目すべきである。しかも、この「呼吸力」とは、屈筋や伸筋の収縮力そのものではなく、相手を導いた、いわば仕事量、を生み出す「理論語」に相当すると考えられる。

相手と接触する瞬間に繋がる気結びにより、一体となって動くいわゆる呼吸法を裏付ける要素として〝発揮されるもの〟である。

                                                                                                2024/9/7

10. 開祖植芝盛平の武産合気とは特定の形を指すものではない

『合気神髄』に収載の開祖の言葉から武産合気を理解する試み

 

古来、心のたましいは天に昇り魂、肉体のたましいは地に下りて魄と呼ばれてきた。間を満たすものはことごとく気と考えられ、天から掌に受ける魂気が手を、地を踏む足底に受ける魄気が足腰を働かせると思うことにする。

自身の魂気と魄気が結べば〝天の気、地の気、要するに天地の気と気結びする〟(p172)〝天と地を結んでしまう〟(p28)。つまり〝合気は禊である〟(p150

〝真空の気、空の気の結びつきによって〟〝左、右、左と巡環に払って禊すれば、四方八方位に武産が生き生きとして、武の兆しが出る〟(p95)。これは鳥船の行である。

〝武がなければ国は滅びる。すなわち武は愛を守る生命だからであり、科学の活動の根源なのです〟(p100)。

 

〝右足をもう一度、国之常立神の観念にて踏む〟〝自転公転の大中心はこの右足であります〟〝左足を三位の体にて軽く半歩出します〟〝左足は豊雲野神〟〝千変万化、これによって体の変化を生じます〟(p6970)。〝右足は〟〝動かしてはなりません〟。

〝左は正勝〟〝右は吾勝〟〝勝速日の基、左右一つに業の実を生み出します〟(p70)。 

 また、〝正勝、吾勝、勝速日とは武産合気ということであります〟(p65

 

以上のことから武産合気とは、いわゆる形の特徴によって定義される概念ではない。天地の気に気結びして体軸を確立し、非軸足と同側の手が自在に動いて左右交代しながら遂には五体が一つに結んで天地の〝御柱〟(p149)となる。つまり、入り身転換(p174)と入り身一足による残心が技を生むことこそ武産合気なのである。

                               2024/9/28

11. 正面打ちに合わせる手・魂気

正面打ちに一教運動は相半身で合わせて表では、魂氣の珠を包んだ手(陰の陽)つまり小手返しの手が橈骨伸側面で受けの手刀の尺側手首に触れた瞬間母指先が受けの上段を指して陽の陽で掌を開き、母指先が天から取りの外へ回るように魂氣を発すると、取りの手首伸側が受けの手首伸側から橈側へと移っていく。正に魂気の気結びである。

この動作は単独基本動作の両手で気の巡りであり、そもそも〝右手をば陽に表し左手は陰に返して相手導け〟であるから、陰の陽から陽の陽で接触すればそのまま気結びが成り立つのである。一教運動の終末を大仏の手に喩えたのはこの手捌きによる。

これに対して、陰の陰、すなわち二教の手で受けの手刀の手首に触れた瞬間掌を開けば、陽の陰となった取りの手首の屈側が受けの手刀の手首尺側から伸側に向かって接しながら移っていくこととなる。つまりは取りの小指球が受けの伸側に密着してそのまま掌に包むことで自身の下丹田に巡るわけだ。鳥船の手捌きで下丹田から後方に振れると小手返しの手・陰の陽で受けの手首の尺側から手首下面(伸側)を掬うように受け止めている状態となる。魂気は受けの手首に伝わらない。

 

一方、手刀で合わせると互いの尺側手首乃至小指球が当たるだけで、衝突の瞬間にすぎない。通常手刀は進展した指先方向、つまり取りの頂丹田へと後退する。

 

気結びののち取る、あるいは包む。いきなり取りにいくと撃たれるだけ。

 

正面打ち一教表の魂気・手の捌きを詳述した。小林裕和師範の口伝を文章化したものである。

橈骨に比べて尺骨は非常に細い、ということと、合気の剣の切り返しに通底する手捌きであると解釈した。

 

裏の手捌き、及び足捌きと体捌きの一致については次の機会に。                                                                                                                            2024/11/8

12. 正面打ち一教裏の手捌きなど

正面打ちに相半身抜刀近似で魂氣を包んだ手を合わせた瞬間に掌を開いて陽の陽で発すると、取りの橈側手首が受け手刀の尺側手首から伸側、橈側手首を超えて掌は天を受ける。徒手の場合、魂氣の珠を包んで蓋をした母指が取りの刀である。

呼気相で陰の陽に巡って取りの下丹田に結ぶと互いの魂氣の結びが成り立ち、取りの尺側手首は受けの同部に接して単独呼吸法の両手で気の巡りの終末動作に一致する。大仏の手であり一教運動の表を成す。

 

 一教裏とは、初動で陰の陽から広義の陽へと魂氣を与えることができない、正面打ちでは上段に掲げることができない、いわゆる後手の瞬間からはじまる。〝手、足、腰の心よりの一致〟(『合気神髄』p98)と言われるように、正勝として魂気と魄気が同期して陽で発せられない状態である。つまり母趾先を軽く半歩出すと同時に母指が下丹田から離れて上段に掲げられようとするが、途中から陰に巡って、魂氣は自身の上丹田に結び、非軸足はその間合いで踵を相半身の受けに対して剣線の外に踏みつめて軸足に交代し、受けの手刀を受け流すと同時に対側の〝空の気を解脱〟した足腰は一歩進んで逆半身入り身転換を成す。同側の手は返し突きで受けの手刀の上腕遠位端を矢筈で包みこんで取りの上丹田から下丹田へ降りる。

 

 逆半身入り身転換によって初動と同じ半身の正勝吾勝で魂氣は「単独動作両手で気の巡り」によって、表と同様の大仏の手を成している。異なるところは上丹田の手は陰で体軸に与り、下丹田の小手返しの手は非軸足側であり、その手足が後方へ開いて後ろ回転へ連なり地に固める。

                               2024/11/13

13. 手刀を与えて振りかぶる呼吸法

 呼吸法とは

呼吸法とは呼吸とともに気結びを成す方法である。気結びとは、魂氣と魄気が自身の丹田に結ぶ禊、互いの手が連なる魂氣の結び、入り身によって互いの体幹が密着する魄気の結び、そして魂氣が相手の丹田に及んでその魄氣と結ぶ〝掛け〟、相手の体幹軸を抜けて自身の丹田に巡り再び自身の魄気と結ぶ〝投げ〟の残心、これは勝速日に喩えられる。

 そのうち魂氣の結びでは魂氣の陰陽、巡りによる取りの手捌きで受けの手の接点から内部に入り、そのうえで自身の丹田から発する魂氣の働きで手の動作を確立することが必要である。

 

 手刀で与える片手取り呼吸法

手刀を与えて振りかぶる呼吸法ではこの手捌きがことの外難しいと言える。つまり、狭義の陰陽の巡りをともなわず、微妙な広義の陰陽と自身の魄気との結び、さらには開祖の〝空の気を解脱して真空の気に結ぶ〟という魄気との結びを即座に解脱する体軸移動を正座の中で行うことが要求されるからである。

言い換えると、手刀を与えて時間と空間のずれを生む動作、つまり一寸の見切りが前段にあり、両者の魂気と自身の魄気の結びを可能にするため下丹田にて迎え、広義の陰に畳む動作が主となる。前述のごとく核心となるのは、それによってできた体軸を瞬時に対側の魄気と魂氣の結びで移動させることである。まさに受けと結んで一体となったばかりの両者の手と受けの体に〝魂の比礼振りが起こる〟と言われるように、〝身の軽さを得て〟、〝真空の気に結ぶ〟すなわち正勝で自在に運ぶ動作が可能となる。

 

手刀で与える両手取り呼吸法

両手取りの場合はさらに体軸の定義が問題となる。大部分は片手取り同様に正勝吾勝として捌き、技を作る動作へと進めることができる。しかし両手取りのままでは同時に体軸側と非軸足側に与ることができないからである。片寄りのない正立や陽の魄気のように体軸を持たない姿勢と入り身一足・勝速日のように五体が一本の体軸となる体勢においては、いわゆる正勝吾勝から体軸を交代することができない。

そこで、受けに結ぶ際は下丹田にて体軸を作り、解脱するには腰仙部から背部が体軸となるほかないだろう。両足はいずれも非軸足になることはなく、腹側と背側で変わらず体軸をなすことになる。開祖は〝心の持ちよう〟(『合気真髄』p67)と言う。両手は腹側の体軸では吾勝となり、背側の体軸に替われば正勝となる。

 

まとめ

手刀の尺側が空間で直立する一方、母指の反りが十分に伸展して中丹田に巡る気の流れで円を描く思いが動作の裏付けとなる。その時下丹田の結びで腹側にできる体軸から腰仙部と背側にできる体軸へと振りかわる思いと動作が呼吸法となる。体軸は魂気と魄気の結びで手足腰が一体となって作られるばかりではない。

14. 体の変更の終末を魄気の陽とする真価は?

1 体の変化と体の変更

2 魄気の陽と陰

3 正勝吾勝の姿勢と動作への変化

4 動作の安定性と静止の活動性

5 結論

 

1 体の変化と体の変更 

開祖の「合気道練習上の心得」には、「先づ体の変化から始め逐次強度を高め身体に無理を生ぜしめざるを要す」とされているが、植芝守央現道主が著した『合気道 稽古とこころ』(内外出版社)ではそこのところを具体的に、そしてわかりやすく説明されている。すなわち〝基本の体捌きを修練して体をほぐし、温めてから技の稽古に入っていく〟と。

ところで、植芝吉祥丸道主は著書『合氣道』(光和堂)において合気道の修業過程を基本動作と基本技法に大別された。基本動作としては、まず礼の上で静坐法から入ることを前提とし、「捌き」(手捌き、足捌き、体捌き)や「気の流れ」を含めて九項目につき詳述されている。次に基本技法として、転換法、基本投げ技、基本固め技、呼吸法の4項目に分けて解説されている。

そこで、転換法は、体の転換法として全身転換と上半身転換に分け、これらは〝体の捌きに通ずるものであり〟特に前者は〝合気道の体捌き上特に重要なものである〟とされている。また、そのうちの片手取りと両手取りについて詳しく説明している。

 

以上のことから、開祖の体の変化とは〝体の動かし方、廻し方〟(p112)であり、稽古のはじめにまず行う動作として、禊、合気体操に引き続いて体の転換法に落ち着くと考えられる。

近年、体の変更という呼称がどのような経緯で生まれたかは定かではないが、一般に片手取りの全身転換法を指して用いられているようだ。

 

 

2 魄気の陽と陰

魄気の陽とは、日常の稽古で我々神氣館において共有している用語である。鳥船で左半身のホー(右半身のイェイ、左半身のサー)で両手に魂氣を包み、振り込み突きで前方中〜下段に発する時の足腰の姿勢を指したものである。つまり後ろは伸展して地を突っ張り、前は下腿を垂直にして踏み詰め、体幹軸を前後から直立に支える姿である。

そこでは体軸が失われ、半身として下丹田が内側下方に向かう。田中万川師範の口伝では、〝そこからもう一つ地に三脚の足が突き立ったように、しっかり固定されていると思え〟と。これが静止中の可能な限り安定した体勢と言えそうだ。

一方、魄気の陰とは、呼気でイェイと下丹田に魂氣を巡ると同時に後ろを軸足として体軸が直立するものの、前は伸展して足先を地に触れるのみの非軸足である。姿勢としては魄気の陰は不安定である。なぜなら、直立歩行の初動で一歩または半歩踏み出した足先が地に触れただけで静止した瞬間であるからだ。それに比べて陽の場合は両足で地を踏んでいるから、前述のように体軸がなくても静止中の体幹軸は前後と3本目の足で釣り合っている。

あらためて魄気の陽とは体の変更と後ろ転換、つまり吉祥丸道主の全身転換と上半身転換の動作の中に必ず込められた骨格のような統一体であると言えよう。

 

 

3 正勝吾勝の姿勢と動作への変化

ところで、正勝吾勝勝速日に魄気の陽は現れていない。魄気の陽で静止した形は動作の始まりにはなり得ない。吾勝のもとに正勝の非軸足こそが動作の始まりになるからだ(『合気神髄』p70)。つまり、正勝吾勝は魄気の陰に他ならない。また、技の生まれる残心では魄気の陽ではなく〝左右一つに勝速日〟すなわち、五体が一本の体軸になると教えている。

動作という変化にすすむ兆しは正勝吾勝であり、動作の終わりは勝速日、つまり入り身一足であって、いずれも体軸を持ち、特に勝速日では天地を結ぶいわゆる〝御柱〟(同p131,149)と表現される。

魄気の陽は動作の最中にあって、その瞬間の体勢を抜き取って見ても魂気と魄気の合気による働きを持つものではない。地から得られる魄の気の働きである両足が地を踏み詰めているものの体軸不在であり、吾勝がないから両手はいずれも魂気を発する正勝となり得ず、魄気の力が手を通して伝わることになる。足底と手掌・手指が一体となった状態と言える。開祖は魄力では行きつまる。正勝、すなわち魂で魄・足腰を運ばなければならない、と明言されている。

 

 

4 動作の安定性と静止の活動性

〝身体活動において力強くあるためには、つねに体の統一(安定性)が必要とされる。

同時にその活動が活発であることは、その体が変化(活動性)に富むことを意味する〟     

統一を欠く変化は弱く、変化に乏しい統一ははたらきをもたない〟(富木謙治『武道論』大修館書店)。

ここにある〝変化〟は動作の兆し(活動性)を指し、正勝吾勝・魄気の陰は静止であるが、非軸足という変化を伴っている。また、〝統一〟とは静止を指すが、動作には魄気の陽という統一が含まれて安定性が伴っている。

相対動作で魂氣を与えて片手取りから上半身転換による魄気の陰で魂氣を下丹田に結ぶと受けは陽の魄気で取りの下丹田に魂氣が結んでいる。取りの体軸と受けの体幹軸は互いに密着して静止するが、全身転換で非軸足を後方に一歩退いて軸足に後退して魄気の陰を維持すると下丹田の魂氣は結びが解けてそこに置かれた状態になる。受けは前方に回りこみ、そこから受けを例えば前方へ放つには、魄気を鳥船近似で陽として魂気を前方に発することである。

入り身、転換、回転といった軸足交代に基づく体軸の移動とは正勝吾勝と勝速日を繋ぐ変化の瞬間そのものであり、まさに魄気の陽の働きであり体捌きの核心であろう。

 

 

5 結論

魄気の陽で終わる体の変更は動作を連ねて受けを導き、技を生み出すための修練ではなく、動作の中の統一体を無意識の中に確立すると同時に受けを前方に開放して受け自身が全身転換で向き直り、半身を変えて体の変更の反復修練を可能とするものであろう。

受けを導き動作を連ねるためには、〝千変万化、これによって体の変化を生じます〟(『合気神髄』p70)と主張される正勝の非軸足を吾勝の軸足のもとに魄気の陰で修練するのが理に適っている。合気の剣の面打ち素振りがまさにその最小の足捌きを現している。

鳥船と剣素振りと体の転換法における僅かな体捌きの違いと、魂気の陰陽、巡り、結びを現す手捌きが、技の表現に意外なほど大きな差異を生み出すのである。

                                                                                             2024/11/29

15. 令和7年より振りかぶり/切り返し呼吸法を単独基本動作へ改編

限られた時間内で効果的な単独基本動作を行うために適当な取捨選択が必要とされる。

坐技に限ってきた手捌きとしての単独呼吸法を令和7年からは立ち技にも広げることとした。立ち技単独動作は、単独基本動作としてこれまで足捌き・体捌きを主とする入り身運動と転換法に分けていたが、立ち技単独呼吸法として振りかぶり呼吸法と切り返し呼吸法と称する動作を加えることにした。

剣素振りの正面打ち(真っ向切りではない)と切り返しの振りかぶりは徒手の呼吸法と転換法の動作に通底することから、今回剣の操法とは別にこれらを追加することとし、従来の入り身運動は繰り返しを少なくして所要時間の調整に努める。

 

正面打ちの振りかぶり呼吸法(振りかぶり呼吸法と略す)は両手を体側に置き一方へ下段に与えるべく軽く腋を開いて陽の陰で差し出し、入り身一足で下段に手刀で巡る。つまり勝速日である。即座に対側を吾勝、手刀側を正勝として両手で手刀を作って真中から振りかぶると同時に非軸足先を半歩進める。〝魄を脱して魂に入れば〟(『合気神髄』p70)。さらに①左右の半身で繰り返す、②陽の陽に発して非軸足先を母指先方向へ入り身する。〝魂が魄を使う〟(『合気真髄』p18

 

切り返しの振りかぶり呼吸法(切り返し呼吸法と略す)は片手を陽の陰の正勝で下段に差し出すと非軸足先を外に置き換えて軸とし、外転換で陰の陽に畳んで母指先を側頸に向け即座に腋を開いて母指先を直に接して①非軸足を軸として陽の陽で円を描いて入り身一足、②頬を擦り上げ上丹田へと結び対側の非軸足を外股で軸として前方回転にて下丹田に下ろす。

 

相対動作の振りかぶり/切り返し呼吸法は諸手取りで単独動作をそのまま行えば良い。

                                                                                           2024/12/6

正面打ちに取りの両手の手捌き二法

半身であれば左右の手は前か後ろかが決まっている。

合わす同名側の手刀を受けの真中で振りかぶるか、受けの内に巡って返し突きかで上下が決まる。

 正面打ちで振りかぶれば上、返し突きなら下に巡るから対側の魂氣・手は前者では下に後者では上になる。肝心なことは、上に振りかぶれば対側は下から奥に振りかぶることができる。下に巡って返し突きには対側を上に振りかぶる、つまり手前にしか手を置くことができない。

                               2024/12/18

リンク

公益財団法人合気会 

本部道場の公式ホームページです

大阪合氣塾

吹田市を本部とする須磨 弘師範の道場です

和氣會

豊中市を中心とする道場で池田憲夫師範のご指導です

兵庫合気会

姫路市を中心とする道場で山田芳朗師範のご指導です

神戸大学体育会合気道部
神氣館館長辻本大治師範の母校合気道部です

大阪武育会会長木村二郎首席師範のもとに山田剛史師範のご指導です

流山合気会

千葉県流山市を中心とする永井 純師範(義粋館指導者)の(公財)合気会公認道場です