魂氣を与えて受けの手が触れた接点は取りの魂氣の発するところにあらず。
そこは受けの魂氣を頂く部分である。接点は陰陽巡りの支点に過ぎない。
また、受けの真空の氣と空の氣の境界点でもある。
取りの一部であって既に受けに与えた点である。
それでいながら取りの念いを集めて目付けまでとらわれることはどう見ても気の術理ではない。その上、結局肘と手首と肩の筋肉に緊張から硬化を強いて呼吸停止さえ伴うことになっては、魂氣三要素も呼吸法もそこにはない。
受けの氣流を頂いて真空の氣に取りの魂氣を陽で発して結ぶ。そこから再度巡って陰で取り自身に結ぶと残心。
2015/4/29
手首の屈伸には母指先の方向、つまり魂氣の発する方向を定めるという意味がある。自ずと他指の方向もその働きとともに規定される。
想いの上では母指先を発する氣流に直角の方向変化をもたらし、残りの指を反転させ掌を包む動作に連なる。
また、掌を天地に向ける狭義の陽陰の巡りも、魂氣を六方へ発して還す切れ目のない動作を生み出す。巡りの本質がここにある。
言い換えると、合氣道の動作は手首の屈曲・伸展と掌の包み開きに集約され、これらは禊の天地の結びと鳥船そのものなのである。
2015/4/30
陰陽の魂氣が巡り、結ぶ、という想いは、氣流を想い描くことである。
丹田に上肢全体が還り着く残心では、その途中で受けの真中や側頸に魂氣が響いて、陰の陽や陰の陰で上肢が巡ってくる。これら動作は悉く氣流の想いを持つことに他ならない。
指先から氣流の発せられ、巡る如く、上肢が天にかかげられては、らせんで降りてくる。
魂氣の巡り来る氣流が受けの真空の氣に結び、空の氣に入り身を為すのは、語句と想いと動作の三位一体そのものである。
2015/5/2
合氣とは語句と想いと動作の三位一体が外に現れた姿である
従って、形から合氣に入ることは出来ない
魂氣と魄氣のそれぞれ三要素はそれぞれが語句と想いと動作の三位一体から成る
そのうえで、各三要素が、合氣道の禊と単独呼吸法と単独基本動作を生み出している
相対動作は自ずと合氣を現す
その姿は外から形と映り、内からは合氣を感得するものである
つまり合氣とは、形を動作することではないが、明確に形として現れるものである。
2015/5/4
一教運動は自然本体で魂氣は両体側から両手で発する。
一教運動裏
振込突きではなく、魂氣は両手で氣の巡り、魄氣は返し突きで後ろ回転。
初動の軸足は剣線に寄せて踵を受けの外に外して作る。陰の陰の魂氣は取りの額に結んで、目付けは対側の陽の陰の魂氣を見ることで剣線から外側に向ける。魄氣は同側の足腰が逆半身外入り身転換となり、額の魂氣は受けの手刀に接し陰の陽に巡って、同時に返し突きの魂氣が陰の陰で巡り、陰の陽で丹田に結ぶと、後ろ回転の置き換えで目付けを水平として踏み替えの拇趾先の方へと向けていく。
一教運動表
魂氣は両手で氣の巡り、魄氣は相半身内入り身から送り足で逆半身内入り身へ。
初動の軸足は剣線に寄せて魂氣を陰の陽で上段に与えると、接点で陽の陽に発して結ぶと同時に足先を剣線から相半身で内に入り軸とする。同時に発した陽の陰の魂氣へ目付けを向けて、同側の送り足は逆半身内入り身で受けの軸足(後方の足)に向けて入る。魂氣は陰の陰で丹田に巡り、陰の陽で結ぶが、相対的に同側の魄氣(足腰)が単独基本動作の陰の陰の入り身運動で魂氣に結ぶ。
2015/5/15
片手取りに外転換して両手で氣の巡りから取らせた手を陽の陽で差し出し、掌を正面に見る。それが異名側の受けの手に結ぶと同時に、対側の手は陽の陰で矢筈に開いてその手首を下から取り、陽の陽の魂氣を陽の陰に巡って腋を開くと掌に代わって手背を見ることになる。そして受けの手から外れるところまで、これを鏡返しとする。杖返し突き近似で受けの手背に取りの掌を被せ、刈り取るように腋を閉じて陰の陽で丹田に巡ると共に転換反復で受けは下に落ちる。
交差取りでは外転換して両手で氣の巡りから取らせた手を陽の陽で差し出し、同名側の受けの手に結ぶと同時に、対側の手は陽の陰で矢筈に開いてその手首を上から取り、陰の陽で回内して降氣の形となる。取らせた手は陽の陽の魂氣を陽の陰に巡って腋を開くと、掌に代わって手背を見ることになる。しかしその手は受けの同名側の手から離れず、その矢筈に取りの手首が嵌ったままである。ここまでは鏡返しである。転換反復と共に母指先が反りの方向で丹田に巡ると受けは下に落ちる。受けの母指球を包んでいないが小手返しに近似。
2015/5/25
『合気神髄』における開祖のお言葉を考察する
⑴真空の氣に結ぶ:取りの魂氣が
取りの魂氣が受けの手に結び、巡ってさらに受けの真中に結ぶ場合は上段に与えて正面当てが一例である。
単に取りの魂氣が受けの手に結ぶという表現は、接点から受けの中枢側で受けの手に取りの魂氣が伝わる動作である。陰陽の巡りで受けの魂氣に結び二教が生まれることがその典型である。
つまり、取りの魂氣は受けの中心軸から隔たった空間を進んで受けの真中に到達する場合と、受けの上肢を伝わり体軸に響いて底に達する場合がある。前者は、取りの魂氣が受けの身体ではなく直上の空間で巡るから真空の氣に結ぶという想いを持って動作する。後者は、取りに連なった受けの手が受け自身の側頸や取りの丹田に伝わることで、取りの魂氣も魄氣も受けの体軸に接する。
⑵空の氣に結ぶ:取りの魄氣が
取りの手が受けの魄氣に結ぶとは、片手取りや正面打ちなどで受けの手に結んでからその体軸に、つまり側頸から腹の底に響き魄氣に連なることである。または取りの返し突きや横面打ちで魂氣が受けの中心に入り、直接魄氣と結ぶ場合もある。
このとき取りの足腰が受けに掛かったり、体軸が受けのそれに倒れかかったり折り重なったりせず、受けの体表面に接しつつ地から上の空いたところで受けの体軸に取って代わる。つまり受けの魄氣の周りにある空間で魄氣の三要素、陰陽/入り身/転換・回転が動作されるので、取りの魄氣は空の氣に結ぶと表現できる。
⑶真空の氣と空の氣が結ぶ:取りの魂氣と魄氣が
取りの魂氣と魄氣がそれぞれ受けとの間合いで三要素を為し、受けの魂氣と魄氣に結んだ後、単独動作として取りの魂氣と魄氣が結び、残心をなす。
① 正座にて両手で氣の巡り=相対呼吸法
② 跪座から膝行で正面打ち一教=坐技基本技
① 取りの丹田と両体側を両手が狭義の陽と陰で巡り、受けは相半身で取りから発せられる陰の陽の魂氣を正面にて手刀で受ける。右手が陽なら左手は陰。右手は陰の陽から受けの手刀に接触して陽の陽、陰の陽へ巡る。左手は陽の陰の矢筈で受けの上腕に接して陰の陽に巡って丹田で陰の陽から地に陰の陰で結ぶ。右手は陽の陰に巡って手首を取って、陰の陰で地に結ぶ。この間正座を持続する。
② 両手を氣の巡りで差し出し、右手は陰の陽から受けの手刀に接触して陽の陽、このとき右膝を着いて左膝を浮かし振り子運動近似。次に左膝を着いて左半身で左手は陽の陰の矢筈で受けの上腕に接して陰の陽に巡り、目付けは左魂氣を目にする。左手が丹田に巡ると右手は狭義の陰で手首を握るがその右上肢は相対的に伸展し、浮いた右膝で再度右半身に膝行して跪座。両手は陰の陰で受けの腕を経て地に結ぶ。
① は両手で氣の巡りの動作に正座で入り身運動
② は①の魂氣の動作に跪座の膝行による魄氣の入り身運動の連携
次の進展として、立ち技で魄氣の入り身・送り足を反復する一教運動による魂氣の動作、すなわち両手で氣の巡りに合わせて相半身内入り身・送り足・逆半身内入り身の後、魂氣を丹田に結んだまま受けの上肢の遠位方向へ再度入り身運動・送り足の膝を地に着けて跪座に移ると一教固め。
2015/6/8
後は取りの魂氣を受けの側頸または項から仙骨下部に抜く。
前は受けの頭部から腹側正中を臍下丹田に抜く。
魂氣でもって受けの体幹を抜くとは、取りの上肢が受けのツボから魂氣を響かせ、体軸へまず浸透させることである。その先には受けの仙腰部がある。つまり魄氣を現す足腰に連なることが出来る。取りが魂氣と魄氣を結んで残心をとると、上肢は腋を閉じて浸透力は受けを抜ける。受けは軸足と体軸の連結による直立が破綻する。
いずれの受け身も受けの体幹を抜けた魂氣は地との間で空の氣に結ぶと想うことが肝要である。つまり後では両足を結ぶ線を底辺とし、受けの背側の地表に作る二等辺三角形の頂点に取りの魂氣が結び、母指や手背が地に着く。前では受けの腹側の頂点に結ぶ。この想いによって、母指や手背の動作を目付けと残心と共に切れ目無く続けることができる。
残心を伴わず取りの丹田が魂氣の結ぶ地点から離れると脇が開き、取り自身の魂氣と魄氣が結べない上に受けの魄氣も離れることになる。互いの氣結びが無ければ合氣たり得ない。剣で正面を打ち、継ぎ足に連ねて陰の魄氣で剣を中段に構えて戻し、残心。徒手では別物ということであってはならない。
2015/6/14
———— 魄氣の陰陽の効用
静から動へ移ることは地から受ける魄氣による体軸の移動であって、あらゆる動作の根本である。それは自然本体、正立から陰の魄氣で始まる。なぜなら足腰を移動する陽の魄氣は軸足が無ければ対側の足腰を移動できないからである。
一本の軸足を作ることが陰の魄氣の動作である。次に陽の魄氣の動作は、対側の足の膝を伸展して半歩前に置き換え、地を踏むと同時に後の軸足は伸展して踏ん張る。体軸は元の軸足から前方に移動するが、魄氣は両足共に地から受けている(画像①②)。つまり、このとき軸足はどちらの足でもない。臍下丹田から地に降ろした鉛直線が体軸である。それは、前後の足底を結ぶ線上で前寄りにはあるが、陽の魄氣として停止した姿勢では両足の踏ん張りは均等の感覚である。ただし、後方の足は膝を伸展し、前方は下腿が垂直に立つ。それは入り身としての動作が継続するとき、軸足が前方の足に完全移動する基軸となるからである。
後の伸展した足が地を蹴り、継ぎ足として前の足の踵に接する位置へ送られると、両足は接して共に直立することで一本の軸足になる。徒手ではこのときが残心である。即ち、魂氣が体軸に巡って魄氣と結び、半身で正立して目付けは天地の間である。さらに、ここから魂氣と魄氣は陰にも陽にも動作できるし、自然本体にも戻ることが出来る。
剣・杖の場合は、入り身で両足が一つの軸足となるこの瞬間こそ、両上肢を伸展して魂氣とともに打突を及ぼすこととなる。直後に後の足を軸足に戻し、魂氣を丹田や額に巡らせて剣杖を構えた姿勢に戻って残心であり、それは陰の魄氣に他ならない。
徒手では掌を包んだ母指が常時伸展して反りを持つことから、魂氣を発する広義の陽においても上肢は切れ目無く体軸に向かい、入り身・継ぎ足で魂氣は丹田に巡り、技が生まれる。軸足は二足が接する一本であり、いずれの足からでも一本の軸足として陰の魄氣、即ち次の動作への態勢ができ、同時に丹田から魂氣を発することが出来る。正に入り身・継ぎ足・魂氣の巡りが残心である(画像③)。
剣・杖であれば魂氣を陽で発した入り身・継ぎ足の直後、魂氣を丹田に巡らせて剣・杖を構えた陰の魄氣の姿勢で初めて次の動作を選択でき、これが残心である。
2015/6/22
⑴小手返しの手で地に結ぶ(両手取り、外巡り呼吸投げ、諸手取り後ろ回転)
陰の陽で地に結ぶ
呼吸法の両手で氣の巡りから陽の陽は陰の陽に巡る、対側は陽の陰で地に巡る、
または、外巡りから陽の陽の手刀で横面打ちが丹田に巡って小指から陰の陽で手背が地に結ぶ。
* 体側に結べば呼吸法昇氣。
⑵二教の手で地に結ぶ(諸手取り、交差取り、後両手取り)
陰の陰で地に結ぶ
降氣の形から回外して陰の陰で母指先から地に結ぶ、
または、手刀で横面打ちが額から陰の陰に巡って母指先から地に結ぶ。
⑶三教の手で地に結ぶ(天秤投げ)
陽の陰で地に結ぶ
受けの開いた腋から内入り身で受けの胸に異名側の取りの背を陽の陽の魂氣と共に密着し、陽の陰に巡って母指先から地に結ぶ、送り足で残心。
*丹田に結べば隅落とし、天地投げ、入り身投げ。
2015/6/24
禊で体内に取り込んだ魂氣を母指先や他の指先を通じて発する想いで、上肢を吸気と共に伸展する。これは(魂)氣を出す動作である。掌に魂氣を包んだ手を受けに差し出すと、魂氣を与えてはいるがまだ発してはいない。
発した魂氣は受けの側頸か手首のつぼを通って受けの体内に入り、体軸に沿って受けの丹田へと響いていく。この際、上肢の動作だけではままならず、受けの底を抜けた魂氣が取りの丹田や体側に巡って再び結ぶという思いと、その動作及び静止によって効果は飛躍的にあがる。これが魂氣三要素の動作と残心である。
陰陽の巡りに関する動作の主体は上肢の屈伸であるが、これに関わる伸筋群と屈筋群は随意筋であり、一般に屈筋群の緊張の方が勝り、力を抜いた状態では関節各部がやや屈曲気味となる。この傾向は末梢に行く程目立っている。気持ちを引き締めた際はこの傾向が一層強まり、屈筋は優位に緊張して収縮することで体がこわばり、伸展への反応が妨げられる。
通常、力を抜くとは接点で押したり引いたりしないことであり、筋肉の収縮に依らないことである。つまり腕の筋力で受けの体表や体軸を動かす仕事量とは対極にあり、静止するか受けの為すがままに動くことである。
いま一つ、この拮抗筋の緊張を一方において十分減らすことによって、他方の緊張を強めること無くその屈伸いずれをも有効に行うことが可能であろう。つまり全体として筋緊張を弱めることで、速く強く関節を動作させることが可能となる。
受けの力の及ぶ空間に魂氣の想いで上肢を差し入れ、魄氣を動作することで体軸を詰める。その魂氣を巡らせるうちに受けの中を魂氣の通る想いが動作を伴う。そのとき取りの上肢と躯幹が結び、再び正立へと巡り、受けに取って代わることとなる。
このように、受けに対して上肢や体幹を接触させるには、受けの力の及ぶところに入っていく必要がある。上肢の接点を力で押すことなく、それを支点として魂氣(手)が陰から陽へ発して拳一つ分以上入るのであり、この状態を結びと言う。
筋力を与えてその荷重で体軸を傾斜させ転倒させることは所謂力である。武技において氣を入れるとは、取りが手指や腕を受けのつぼに集中して血管や神経を刺激することで深部に影響を及ぼし、取りの足腰を受けの真中に接することと相まってその体軸を傾斜させ、転倒させるか、もしくは激痛を与えることである。
左右の側頸の前頸三角、後頸三角がそれぞれ体軸に響くつぼである。前者は頸動脈、後者は各神経が走行する。受けの体軸に魂氣を及ぼす動作において、片手のときは受けの後頸三角に撓側の前腕を接する。両手では、まず胸鎖乳突筋を包んで、対側の撓側前腕をその手背に重ねると前頸三角に指が揃って嵌り、そこから魂氣が体軸へと響く。しかも、それに留まることなく、受けの底を抜けて取りの丹田に巡り、あるいは地に結ぶ方向を持つ動作こそが技を生み出す。それが残心の動作であり、姿勢である。
受けの末梢では、二教や四教によって手首のつぼを経て刺激が体幹深部に伝わる。三教、四方投げでは受けの手関節や肘関節の伸展に伴う一定角度の捻れを経て、受けの体軸に取りの魂氣を響かせる。取りと受けの体軸の接近が入り身によって行われ、振りかぶって額に巡らせる受けの上肢の伸展に有効な正立をもたらす。
力を抜いて気を入れるとは、魂氣と魄氣を受けの真中に入れることであり、それぞれの三要素、すなわち陰陽、巡り、結びと陰陽、入り身、転換・回転を動作することである。初めに禊で魂氣を掌に包むと、広義の陰の魂氣が動作として始まる。そして、一方の足では膝を使って腰と体軸を連ねて軸足とし、対側の膝は伸展して足先を地に置くことで陰の魄氣が始まる。
両手、両足腰、体軸と目付けの一致が動作の核心であり、残心が静止の基本である。
2015/7/2
受けの動作においては、取りを打倒・掣肘するという行為が大前提である。結果、取りの稽古の成立に協力するものであり、技の成立に協力することは本来の目的ではない。技の成立には取り自身が術理を尽くした動作に徹することこそ肝要である。つまり、それは、取りに対する攻撃の意図と動作あってこその術理である。
相対動作が持続すること、すなわち単独動作の連なりは互いが互いを追い込む動きの連続であり、必然性を連ねる選択を重ねて行くことである。互いに普遍的関連を保つことである。
ひとたび、この相互関係が破綻されれば稽古は様々な瞬間で中断する。
受けが倒れるか、取りが倒れるか、互いに離れるか、いずれにしても望ましい合氣の稽古・錬磨から逸脱するのである。
2015/7/14
合氣道は魂氣と魄氣の結びによって自己の心と体を生み出すものである。
魄氣の三要素を陰陽、入り身、転換・回転とするなら、これで足腰と体軸の動静は全てである。
軸足の確立、即ち魄氣の陰が静止の本態であり、魄氣の陽と、入り身、転換・回転、即ち軸足の交代こそが動作の本態である。ただし、魄氣の陽は体軸の移動と魂氣を発する兆そのものであり、軸足を失う一瞬である。魄氣の陽から二足で一本の軸足を作って初めて入り身という動作が残心で静止する。
2015/7/19
合氣道を稽古していくうえで、言葉とその想いと、それに対応する動作がそれぞれ極力単純な要素として共有されることこそ肝要である。多面性が伴えば微妙な認識の違いから、再現する上で相当の曖昧さが広がるであろう。言葉で伝える際も、同様に概念の単純且つ平易であることが必須である。
合氣道の言葉に込められた想いの根元は唯一つであり、それは合気道の核心である。則ち、心のたましいは魂、体のたましいは魄、魂は天に昇り、魄は地に下り、さらに、魂と魄の間には氣が充ちる、という想いである。
天から受ける氣を魂氣、地から受ける氣を魄氣と呼び、呼吸と共に魂氣を掌と上肢の屈側に受けて手指で包み、臍下丹田に結んでは母指先から発して再び巡る。また、掌を天に向けるときを狭義の陽、地に向けるときを狭義の陰とする。つまり、魂氣の動作は陰陽、巡り、結びに分けることで、上肢の動作として普く表現することが可能となる。
魄氣については、地から足底に受けて腰と体軸を結び軸足とする。それぞれが丹田にて結ぶとき、軸足と体軸と目付けが成り立ち、正座および、正立と二足の歩みが生まれる。
自然本体から左右何れかの足で体重を支えて行き、直立する体軸に結ぶ軸足として確立すれば、対側の足は伸展して、かすかに足先を地に置く状態となる。そして、上下左右に最大視野を維持し、肩と腰が対象に正対して静止する姿勢を魄氣の陰とする。この静止から動作に移る、つまり直立歩行することは、体軸が垂直のまま移動することを意味し、その本態は軸足が前方の足と交代してゆくことに他ならない。陰の魄氣から前方の足先は四方へ自在に進めることができるわけで、開祖がそのことを直に説明される文章は「合氣神髄」に収録されている。
ところで、軸足の交代を確立する上で、魄氣の陽の姿勢は未だ不十分と言わざるを得ない。なぜなら、それは両足が地に踏ん張って体軸を前方寄りに静止させた状態に過ぎないからだ。入り身とは、取りが受けの体軸に密着するほど接近することによって初めて成り立ち、それは互いの魄氣が結ぶ動作に他ならない。それには前方の足に上体の軸と腰が完全に乗って軸足となることが必要である。則ち後方の足が前方の交代した軸足に接して、一本の足として軸足を作らなければならない。これは魄氣の陽に連なる残心の動作であり、左/右自然体で静止出来る。
陰の魄氣で前方の足を、その場か、置き換えた場所のいずれかで軸足として陰の魄氣の姿勢をとれば、目付けと同時に半身が転換する。また、陰の魄氣から前方の足先を内股、あるいは外股に踏み替えて軸とし、後方の足がそれぞれ踵側、あるいは足先側を通って置き換え、それを軸として対側を踏み替えると、それぞれ後方回転、前方回転となる。
魄氣の動作は陰陽、入り身、転換・回転、これで全てである。
2015/7/25
鳥船のサーでは、陽の陰で指先まで伸展して差し出すが、手掌は地に向けている。例えば、⑴陽の陰で与えた諸手取りの場合、⑵後肩取りに対し、転換して同側の手刀で受けの正面を打つとき受けが同名側の手で抑えに掛かる場合、⑶抜刀に対して受けが同名側の手で抑えに掛かる場合、の三通りが思い浮かぶ。
いずれも広義の陽で伸展している上肢であり、杖を突いた動作や、剣を正面に打ち放った動作である。ここから、さらに魂氣三要素の陽を続けても結びには至らない。徒手による相対動作の場合は、互いの魂氣のぶつかりによる消耗を余儀なくされ、釣り合うだけで精一杯となるだろう。したがって、他の要素を実行するしか無い。則ち、呼吸に伴い陰に巡るわけである。
杖の突きに相半身で杖取りへと動作する場合を検討する。剣線を外して杖巡りから直突きの徒手の動作で相半身内入り身することで、陽の魂氣が受けの杖をその両手の間で取るが、さらに陽のままで杖に対して手を動作しようとしても、無理がある。
先日、大相撲の名古屋場所で見掛けたが、両上手を深くとっても、あるいは下手を深く諸差しにしても、両手が伸びきっておれば相手に唯すがっているだけで、自身の体内で力んでいるに過ぎない。あっさり、寄り切りと極出しでそれぞれ土俵を割っていた。解説者は正にこの点を指摘していた。
陰から陽へと上肢が伸展した瞬間は拳一つ分受けの中に入って結び、つぼを通してその体軸まで響いていく。これに反して、すでに伸展したうえ掌の魂氣の玉がこぼれ落ちた上肢を、受けの上肢や躯幹に押し当てても、体表に衝突が生まれるだけであることを認識しなければならない。
両手取り天地投げにおいて受けに取らせて天に結ぶ際(画像①)、陽で取らせたまま、さらに上肢を受けの側頸に掲げようとしても無理がある。対側の魂氣を外巡りで逆半身外入り身によって地の結びを作るとき、同時に陽で取らせた魂氣は相対的に畳まれて陰の陽となり(降氣の形)、回外して初めて陽の陰に発して天への結びが生まれる(画像②)。坐技両手取り呼吸法に通じる(画像③)。
呼吸法で広義の陽から陰へと巡るとき呼気と共に上肢を畳むことになる(画像④-1、④-2)が、掌を包み屈曲した示指を塞ぐのは伸展したままの母指である(画像⑤)。則ち母指はつねに陽であるから、魂氣を陰に巡ったとき、すでに母指先から陽の魂氣の兆しが発せられ(画像⑥)、陰から陽へと巡り発することで、受けに結ぶ動作が生まれる。
陰陽の巡りは常時伸展した母指の先から魂氣を発することで可能となるのであって、陰の陰で固めのときも母指は伸展し(画像⑦)、陰の陽で丹田や側頸に結ぶ瞬間も母指先は伸展して示指に置かれるのである(画像⑧)。
2015/7/30
それぞれに魄氣が陰の場合と陽の場合がある。
魄氣の陽
左半身の陰の魄氣に、陰でも陽でもない左手で杖を足下の剣線上に立てる。左手を陽で指し出し、杖尻を浮かせて右手で取ると、吸気で左足を前方に進めて陽の魄氣とし、同時に左手で杖先まで扱き、送り足と同時に杖尻を丹田まで突き進める。入り身一足の直後呼気で左半身の陰の魄氣に戻る。残心である。
魄氣の陰
左半身の陰の魄氣に、陰でも陽でもない左手で杖を足下の剣線上に立てる。吸気で左手を陽で指し出し、杖尻を浮かせて右手で取ると、左足を軸として呼気で右足を後方へ置き換え軸として陰の魄氣の状態で、相対的に左手の中で杖先まで扱く。陽の魄氣に送り足の入り身一足で直突き。
魄氣の陽
自然本体で右手に剣の鍔元を包んで立つ。振りかぶって額に結ぶと同時に右半身陰の魄氣とする。左手は柄頭側を母指球で支える。右足を半歩踏み出して吸気とともに陽の魄氣とし、右母指先の反りに合わせて頭頂まで進めると、延長上の剣先は背側に触れる。呼気とともに送り足で一足とし、柄頭側の左手は一気に丹田へ巡って結ぶ。右母指先は常に陽で魂氣を発し、剣先に一体となる。正面切り下ろしである。
魄氣の陰
振りかぶって額に結ぶと同時に右半身陰の魄氣とする。左手は柄頭側を母指球で支える。右足を半歩踏み出して吸気とともに陽の魄氣とし、右母指先から陽で魂氣を発して脇から母指先までを一直線に伸展する。同時に送り足で軸足を一足とするから剣先が目付けの高さで留まり、正面打ちである。即座に左足を軸とすれば陰の魄氣の右半身に戻って柄頭の魂氣は丹田に巡る。残心である。
2015/8/2
単独呼吸法の昇氣は相対基本動作として片手取りでは苦労無く出来る。
しかし、諸手取りでは対側の手が加わってそれを抑えるのであるから、側頸や額へと結ぶためには昇氣ではなく降氣の形から巡らせる他ない。
そこで、諸手取りから広義の陽で発するには次の三通りがある。それぞれ魄氣の外転換に伴うことが要訣である。
⑴ 降氣の形で側頸に向いた母指先の反りの方向へ陽の陽、畳んだ肘を開いた後に脇を開く。
⑵ 降氣の形で側頸に向いた母指先を側頸に結べば脇が開き陰の陽、耳の下で母指先から陽の陽で発することが出来る。
⑶ 降氣の形で側頸に向いた母指先を回外して前方に向け、肘を開いて母指先は地に向く。他の指の方向へ外巡りで入り身転換、脇は大きく開いて陽の陰に発して陰の陰で体側に巡る。
2015/8/8
軸足と同側の腰が上体の軸と丹田で連なって一直線に地から魄氣を受けると、足底から頭頂に至る体軸の成立である。そのとき目付けは最大の視野を持つ。対側の足先は地に触れており、いつでも四方に置き換えることが可能である。これは陰の魄氣であり、この姿勢で魄氣は留まっている(画像①)。
陰の魄氣から軸足が伸展して両足底が同時に地に着くときは鳥船の陽の魄氣であり、軸足が前方に交代する寸前である(画像②)。前方に軸が移った瞬間とは元の軸足が後にあって地から離れている。それを前の踵に送って二足が一本の軸足となった瞬間も両足底が地を踏んでいる。すぐさま前の足が軸となり対側が移動して次の軸足になるか、あるいは後方の足が軸となって半身の陰の魄氣で一旦待機するか、いずれかである。
入り身運動を成す魄氣の陽と、継ぎ足(送り足)つまり残心は両足底が同時に地に着く瞬間である(画像③)。しかし、魄氣の陽も残心もそのままで停止することは無い。なぜなら、全周から及ぼされる力を考慮すれば、それこそ体軸の直立が失われる瞬間であるからだ。一方、魄氣の陰であれば、軸足が一本でどの方向へも対側の足を自由に置いて、交代した軸として体を支えることが出来る。また、体軸を移動して外力を避けることもできる。
両足が同時に地を踏むときは瞬間であり、軸足が一本で体軸を成す間は待機である。
すなわち、魄氣の陽は動、残心は静でそれぞれが一瞬の姿勢である。それに反して魄氣の陰は待機して後、陽に進めることも、陰のまま軸足を交代して転換を繰り返すことも回転することも出来る(画像④)。
2015/8/15
一般に、技とは、特定の目的を持ち、その目的を果たすための一連の動作、手段・手法であるとされ、これを体系的にまとめたもの、つまり、個々の手法を一つの理論的な秩序の中に組み込んだものが術である、と理解されている。
このとき、理論的秩序とは語句と観念と動作の一体となったものであると言える。いかに想いが溢れていようと、個々の動作への結びつきが曖昧であってはたちまち術としての実体はぶれることになろう。また、合氣道にあっては動作をいかに練り上げてもそれらが氣の武道としての一元にまとまらなければ合氣とは言えない。
取りと受けの動作からなる技においては相対基本動作がその根本であり、詰まるところは取りの単独基本動作を成す魂氣と魄氣のそれぞれ三要素に極まるのである。このことを合氣道の基本即真髄と表現した。
受けを圧倒するための動作にとらわれるなら、その思いはすでに氣の要素から離れることとなろう。自らの及ぶ所に巡らす動作こそ基本即真髄の体現である。
2015/8/20
立ち技の片手取り呼吸法で見逃し易い合氣の本質とは
合氣道では、魂氣と魄氣の結びという観点から、代表的な稽古法として立ち技の片手取り呼吸法がよく知られている。魂氣の三要素を現す坐技単独呼吸法に加えて、魄氣の三要素を足腰の動作として上肢に同期することで、受けとの間でも結びが成り立つ。受けに響いた魂氣が取りに巡る想いと、魄氣が残心へと動作して静止する瞬間が技となる。即ち基本技の典型である。
この上肢と足腰が同期することこそ合氣の本質であって、魂氣と魄氣が結ぶと言う言葉とその想いに相当する動作を意味するものである。立ち技の呼吸法はこれによって生まれる。
ところで、魂氣の陰陽、巡り、結びと魄氣の陰陽とが同期する動作は鳥船であって、呼吸法には魄氣の転換・入り身または入り身転換が加わらなければ真の同期とならない。表は外転換・入り身であり、裏は入り身転換・踏み換えて反復入り身転換の足腰である(画像)。それぞれ魂氣の丹田への巡りから呼吸法昇氣を行う。いずれも魂氣を陽の陽で発し、母指先の反りに合わせて体側に巡るとき、送り足で残心とともに体軸が初めて受けに取って代わる。即ち、受けは取りの体軸に沿って螺旋で落ちざるを得ない。
表の初動で魂氣と魄氣がそれぞれの要素を能く動作し、側頸に魂氣が結ぶところまで巡れたとして、その後の同期を問題にするのが本稿の趣旨である。受けを倒すことに想いが逸ると、陽の魄氣に合わせて魂氣を陽で発した後、そのまま押し倒そうと動作するであろう。つまり母指先の反りの方向へ魂氣が巡らず、体側に結べないで上肢を伸展したまま止まる。魄氣の入り身・残心、受けとの体軸の入れ替わりが伴わないため魄氣は陽で停止し、体軸は揺れるだけで入り身が達成されない。結局上肢一本で受けを押し倒す運動に陥ってしまう。
裏では、入り身転換を反復して陽の魄氣で魂氣を合わせて陽で発する際、表の場合と同様の注意が必要である。ところが踏み換えの不十分なため、両足で踏ん張ったまま体軸をほとんど寄せられず、いわゆる四股立ちで魂氣の想いだけが逸ると、上肢を伸展したまま体軸を捻って前腕伸側で受けに接し、押し倒す動作に留まる。そのとき母指先は受け自身を指すことになり、魂氣は受けに響かないばかりか、残心を欠如することで取りの魂氣が自身の体側へ巡ることなく、魂氣三要素が動作しきれないこととなる。
取りと受けの間で氣結びが生まれるなら受けの体軸を取りの魂氣が抜けて、受けは取りの背部を螺旋で落ちることになるが、受けの体表で魂氣が弾けると、体軸は取りから離れて真後ろに倒れざるを得ない。
受けが合氣を体感する稽古こそ基本であり、そこに不安や怪我は見られない。
2015/8/27
魂氣を与えて受けが手首を取ろうとするとき、転換して取らさず陽に発する場合を除き、陰で巡るには丹田に向かうか、側頸に向かうかの何れかである。
坐技単独呼吸法では下段への吸気の後、呼気で小指から丹田に巡る。一方、上段では脇を閉じて上肢を畳んで側頸の高さに母指先が巡る。前者は昇氣、後者は降氣と呼んでいる。呼気のまま丹田から狭義の陽で包まれた掌が側頸に昇り、あるいは狭義の陰で一旦側頸に結んだ母指先が丹田に降りるからである。
狭義の陽は掌を天に向け、狭義の陰は地に向けた状態を指す。また、昇氣は母指を除く指の方向に、降氣は母指先の方向に進むこととなる。さらに、昇氣は肘と手首で上肢を畳んで脇を開く。降氣では、まず脇も閉じて上肢を完全に畳んで母指先が側頸を指し、この状態を降氣の形と呼ぶ。次に脇を開き母指先が側頸に当たる瞬間を側頸に結ぶ動作とする。そのまま陰の陰で母指先から丹田に降りるから上肢は脇を閉じつつ伸展して行く。
何れにしても、魂氣の陰陽を問わず母指だけは常に伸展しており、その意味で終始陽であると言える。このことは氣の武道たる合気道の根幹と言って差し支えないであろう。つまり広義の陰陽にあるいは狭義の陰陽に巡るとき、この終始陽である母指が動きの本体である。
2015/9/1
正立での静止は自然本体である。そして動作の過程では、半身で左右自然体、つまり残心と陰の魄氣が一時の静止である。ちなみに鳥船で現す陽の魄氣は入り身という動作の瞬間であり、狭義の動作そのものである。正座に移行することは出来ない。
残心と陰の魄氣から正座へ移行するには順次膝を着いて座るだけである。
初めは片方の足を軸として対側の膝を着き、それを軸として元の軸足の膝を着く。
残心から正座
後の足を一瞬軸として前の足の膝を着く。
一教表、三教表(画像①)、四方投げ固め
魄氣の陰から正座
①前の足を一瞬軸として屈曲した元の軸足をさらに畳んで膝を地につける。
一教裏、三教裏、諸手取り外転換呼吸投げ(画像②、③)
②後を軸足のまま前の足を畳んで膝を地につける。
二教裏
2015/9/12
技や相対動作を指導稽古や奉納などで演武することの本体は基本即真髄の表現に他ならない。
取りと受けが氣という言葉とその思いに相当する動作を、魂氣と魄氣のそれぞれ三要素に則って行えば技となるのである。また、そもそも動作の前提は受けが自身を守り、なおかつ取りを制する意志であろう。それが受けの動作に現れ、取りが氣の要素における三位一体の動作で、自己確立を貫くことこそ基本即真髄そのものである。
ただ目に映った形で技の動作を行おうとすれば、いかに受けが気迫を込めて打ち懸かろうと、魂氣を巡らせて魄氣の動作で取りが結ぶその根拠や時機が薄弱となる。それはお互いが術理の対極で動くことに他ならない。
掴ませるならその真中にまで受けの魂氣を受け、取りの体軸に及ぶような受けからの結びがあってこそ、取りにおいては母指を通じて陽の魂氣の兆しが取りの体軸に巡ることができる。単独動作の基本によってたちまち受け自身が取りの右/左自然体つまり陰の魄氣に呑み込まれるのである。
取りが受けを包みこむか、受けの中心に入って被り込むか、何れにしても取りの魂氣が巡り、結ぶところの魄氣の陰陽、入り身、転換・回転が体軸の動静と目付けを確立する。受けは取りの体軸を螺旋で落ちて地に結ぶ。取りは残心を示した後の左右自然体か正座となり、魂氣が丹田か体側に巡るとこれが終極の姿である。
2015/9/19
合氣道の特徴は、殺傷目的の武術から転じた健康増進と和合を旨とする武道であるということだ。しかも、競技規則や勝敗の無い武術的価値を、技の錬磨により獲得できるよう工夫されているところであろう。とりもなおさず術理にその根本がある。術理に不定の部分があると、作られる技の途中に必ず曖昧な形として現れる。
いわゆる入り身投げ表について考察する。入り身と投げに分けられる(裏は入り身転換・反復、または後ろ回転と投げに分ける)。
入り身について。
足腰が受けの体軸に背側で接近することが外入り身である。同時に正面打ちや片手取りや交差取りなど、いずれも魂氣は受けとの接点で中に入り、結んでいる。入り身の動作は魄氣の要素からなり、魄氣の陽で前方に足を進め、後ろの足を送って前の踵に着けると残心であり、土踏まずにまで進めると一教運動表で相半身外入り身に繋がる。即ち入り身とは魄氣の陽と残心から成る。逆半身の外入り身で間を詰めてさらに相半身の外入り身で体軸を密着すると互いの魄氣の結びである。
次に投げを考える。本稿では特にこの機序における取りと受け互いの術理に適う動作(理合)について考察する。
取りの上肢の橈側が受けの異名側の頸部に当たると母指先の反りに合わせて魂氣が取りの丹田に巡ることで、取りの体軸と魂氣との間に受けの体軸が包まれ、取りの丹田に向かって崩れ落ちる。この間、取りの魂氣が受けの異名側の側頸から体軸に響き、受けの仙尾部を後ろへ抜けて取りに巡るという想いを動作で現す。受けの体軸は後ろに反って、軸足の支えの無い中を直立の姿が失われる。
つまり、取りの魂氣が受けの側頸から体の芯に届かなければならない。まず、受けの手に結んで中に入った取りの母指先は受けの側頸から顔面を突く態勢になるが、合気道の技では異名側の頸部をかすめて取りの母指先の反りに合わせ、受けの背部に接したまま取りの丹田に母指先が巡ってくる。体表の挫滅ではなく体の底への氣結び、即ち合氣である。
このように受けの軸足と体軸の連なりが破綻するところで直立(正立)が失われ、同時に投げが生まれるのである。しかし、反復稽古で技の形を知った受けが側頸に取りの魂氣の結ばないように、あらかじめ手刀で正面を守る場合がある。あたかも技の一部として形に加えて動作するに至っては、術理の見直しがそこに伴っていなければならないはずであるが、要は受けの正中頸に取りが前腕で打撃を加えることが予測され、それを守る手順としているのである。取りが術理に無いことを動作し、受けはそれに対して術理にない動作で取りの魂氣を防ぎながら、互いの上肢が当たって釣り合ったままなぜか受け身をして倒れる。
不規則な取りの魂氣を前もって受けが拒み、いわば合氣を拒否しつつ倒れることになる。互いに入り身投げの術理には無い動作で、しかも技が生まれたかのような稽古を繰り返すことは、合氣から遠のくことに他ならない。取りは魂氣を受けの側頸から中心に響かせ、受けはそれを肚に容れて正立を失うことで、逆に自身の魂氣と魄氣の結びを体感することこそ技の錬磨であろう。
受けが一貫して取りを掣肘する意思のもとに動作することこそ術理の前提である。取りの特異な動作の内にある異形の術理に基づいて、結局合氣とならない形の稽古に専念するのは本末転倒であろう。本来なら取りは受けの頭部中心を突かない限界の動作で魂氣を対側の側頸部に進めるから、受けが手刀で正面を守っても、その内側で受けの胸部と側頸に密着して陽の陰の魂氣が体軸に結んでくることとなる。
合氣でありながら術理が曖昧に推移すると、技の形が想いもよらぬ動作で作られてしまう。結果合氣の体得から遠のくことになる。
2015/9/28
広義の陽では母指先から魂氣が発し、同じく陰では母指または小指から丹田に巡る。天に発するか、中段か、丹田に巡るか、地に結ぶか。その間には脇の開閉がある。したがって地に結ぶ際は、同時に膝を折り畳んで地に着けなければ脇を閉じて上肢を地に結ぶことは出来ない。体軸が前屈すれば、地に垂直となる上肢との間に隙ができる。脇が閉じきれないからである。地に降ろすことで丹田への巡りが不完全となれば、氣結びのないままの動作であり、いわゆる上肢の筋力による仕事量の域を出ない。
体軸との間で脇の開閉する動作こそは気の妙用の一つであろう。(「ギャラリー」の「単独呼吸法」参照)
2015/11/25
剣:氣結びの太刀と上段受け流し
徒手:正面打ち(一教、入り身投げなど)表と裏
これらを対比することで合氣の動作を本質から眺める。
徒手では伸展した母指が剣の代わりである。常に伸展している点は剣と共通した特徴である。
正面打ち表では上段に魂氣を陰の陽で手の屈曲として与え、受けの手刀に接して手首が伸展し、掌を開いて母指に連なる。魂氣は陽の陽となり、接点で受けの近位に入って結ぶ。
裏では屈曲した上肢を取りの額に結んで陰の陰とし、受けの手刀に接すると、剣線を外した同側の足を軸とする対側上肢の返し突きによる入り身転換で、掌は相対的に開くから、受けの手刀と氣結びが出来る(画像)
他方、取りも手刀を作って擦り上げる動作を考察する。その前腕伸側には剣の鎬を欠く。それは剣と徒手が本質的に異なる点である。したがって、受けの手刀に対して取りの手刀をすれすれで擦り上げる術理がたとえあったとしても、次に取りの魂氣で受けの手刀に結ぶ段階では、尺側前腕や伸側上腕で受けの上肢を圧して剣線に割り込むしかない。
上段受け流しの取りの剣に徒手の母指を重ねあわせた動作こそ母指先から発せられる陰陽の巡り・結びである。剣線に割り込む尺側による圧排は母指先の反対方向への動作であり、氣の巡りでないことはあきらかであろう。
魂氣三要素の動作こそが呼吸法であり。そこに魄氣三要素の動作が合わさって合氣の動作となる。
2015/12/5
受けの上肢が境する上方の空間に魂氣が結び、下方の空間に魄氣が結ぶ。
降氣の形から回外した後に陰の陰で額に結び、
降氣の形から回外しつつ手背を頬に沿わせて陰の陰で額に結ぶ。
前者は脇が前に開き、後者は脇が外に開く。
前者は下段受け流しから上段受け流し、後者は外転換降氣の形から二教の手。
いずれも広義の陰で、前者は、受けの方から間を詰めるから、取りは前の足で剣線を外して軸足を作る。後者は、取りが外転換で間を詰めて剣線を外す。そこで魂氣は、前者が突きや正面打ちに対して上肢の狭義の陰で屈曲して鎬を作り、後者が片手取りや諸手取りや後ろ取りに同様の巡りで受けの魂氣と共に額に結ぶ。
前者では受けの上肢すなわち魂氣の上方の空間に取りの魂氣が結び、後者は下方の空間に魄氣、則ち足腰が結ぶ。
前者では魂氣の鎬による受け流しの後、魂氣が結び(画像①)、
後者では魂氣の天の結びで脇を開いた後、魄氣が結ぶ(画像②)。
2015/12/14
入り身とは足・腰・体軸を進めて受けの体軸に着けることであり、氣の思いで表現すれば魄氣の結びである。動作としては魄氣の陽と、送り足で一足とする残心であるが、同時に剣線を外していることが肝心である。正確には、外すのではなく、外れるのである。受けの真中を撃つことで魄氣を中心に進めたなら送り足で剣線の外れた残心となる。ただしこれは同時打ちの場合である。
正面打ちや突きに後手で入り身を行う場合、受けの真中を撃つことは出来ない。すでに初動で間合いを詰める術が無いのは受けの魂氣が剣線上で既に動きの中にあるからだ。ともかくも剣線を外す以外に無い。受けの魂氣が剣線上で静止した瞬間を取りの足先の寸前で目にすれば良い。その上で、その足先を軸足として後ろの足を半歩踏み込んで外入り身とする
同時打ちでは“詰めて外す”、後手では“外して詰める”である。
相対動作の入り身や入り身転換を考える場合、相手があることだから受けの魂氣と結ばなければ受けの中には入れない。
受けの魂氣と結び、そこから陽に発して脇を開いた取りの魂氣と共に魄氣を受けの体軸に着ける入り身(画像①)と、取りの魂氣が陰で丹田に巡ることで下方に開いた自身の脇へ同側の魄氣を進めて同時に受けの体軸に着ける場合(画像②)がある。前者は正面打ち一教運動、後者は片手取り入り身転換である。また、これらを同時に稽古する技としては、片手取り外巡り・外転換で肘を落として回内で結び、陽の陽で横面打ち外入り身。転換して降氣で同側の膝と同時に地に結ぶ。受けの魂氣は地に結んで呼吸投げ(画像③)か、投げに終わらなければ(正立・残心は無く)正座した対側の取りの膝に地を巡ってその上で同側の手が受けの手背を包んで二教固め。
2015/12/19
形をなぞって体で憶えようとする方法では、技の成り立ちの不首尾を部分的な形の違いに求めることが多い。しかし、単にその部位に限って直そうとしても効果に乏しい。
三位一体の動作による形が好ましくないのであるから、語句の意味が曖昧ではないかをまず見るべきではあるが、そのうえで、例えば膝の動静が好ましくなければ、その形や角度を正すよう指摘しても真の解決には届かない。
なぜなら、合氣は魂氣三要素と魄氣三要素のそれぞれを三位一体で行い、且つそれぞれが、単独でも相対でも、互いに結ぶものであるからだ。すなわち、同時点での対側の膝から始まって腰・体軸・両手・目付けと、離れた部分に不都合を見きわめ、それを正すことで初めて技が生まれることになる。
2015/12/23
相対の氣結びが無ければ互いが一つになって動くことは無い。そもそも取りの主動の要は氣結びを為すことにある。合氣道は氣の武道であるからだ。つまり吸気で天地から魂氣と魄氣を受けて呼気で自身の中心に結び、再び吸気でそれを発しては相対の結びの瞬間に受けの中心へ与え、呼気で受けの底を貫いて取りに巡ると、単独の結びに還る残心であり技が生まれる。
相対動作の入り身転換や一教運動、坐技呼吸法などは単に受けを制する動きに専念するものではない。呼吸とともに氣の思い、つまり魂氣と魄氣それぞれの三要素を、それぞれの動作に現すことである。呼吸とともに氣結びを為す動きが合氣道の広義の呼吸法である。
魂氣の結びとは受けとの接点で拳一つ分以上中に入ること、そのうえで魄氣の結びは入り身・転換による体軸の接触によって現される。そこで、取りの魂氣が受けの体軸に響くと相対動作の気結びであり、魄氣の両足が一本の軸足として取り自身の体軸に連なって、受けを抜けた魂氣がそこに結ぶ呼気相は残心に他ならない。自然本体から一呼吸あるいは二呼吸で残心に達して基本技が生まれる。
2015/12/27
①陰の魄氣で振りかぶる剣、扱く杖
②陽の魄氣で踏み込み、振りかぶる剣、扱く杖
次の動作、
① は吸気の陽で踏み込み、送り足で打ち、突く
② は呼気の送り足で丹田に結び、切り、突く
魂氣の陰は振りかぶりと切り下ろし、そして杖の突き
前者は額に結び丹田に降氣 後者は杖尻を丹田に結ぶ
魂氣の陽は剣の打ち込みと杖の扱き
前者は手と剣先を一線に伸展、後者は杖尻を取る手を後ろに伸展
魄氣の陰陽が魂氣の陰陽を支える
魄氣の陰でも陽でも剣の振りかぶり、杖の扱き
魄氣の陰から、剣の打ち込みと杖の突きは魄氣の陽と送り足
魄氣の陽から、剣の切り下ろしと杖の突きは送り足
2016/1/7
半身
静止は軸足の確立
魄氣を受けている。陰の魄氣。
魄氣を受けている。入り身の終末である。陽でも陰でもない魄氣。
動作は軸足の交代
軸足交代の瞬間であり、後ろの足を送る間、体軸は軀幹の底で途切れて
地から受ける魄氣の結びは一瞬解ける。残心で静止する。
軸足の交代をする瞬間であり、体軸は軀幹の底で一瞬途切れる。魄氣の陰で静 止する。
外股に捻転して踏み換えて三度目の軸交代とする。魄氣の陰で静止へ。前方回転 である。
一方、前方の足を内股に踏み換えて軸の交代とし、後方の足を軸の踵側を通って 置き換えて踏んで軸足を再び交代し、始めに交代した軸足はその場で内股に捻転 して踏み換えて三度目の軸交代とすればそのまま陰の魄氣。後方回転である。
* 体軸回転角度:入り身30度、転換のうち置き換え踏み換えは90度、その場で踏み換えは180 度、回転270度〜360度。
* 軸足捻転角度:軸足は地から魄氣を受けて結んでいる思いであり、踏みつけて摩擦に逆らって 足腰を捻転する角度は45度以内。軸足そのものはそれ以上捻転することは
出来ない。
正対
静止でも動作でもない
軸足の確立を伴わず、軸足交代の瞬間でもない。その意味で体軸に動きは 見られないが、左/右半身のように動作直前で剣線上を踏む軸足に連なった 体軸ではない。
同時打ちか後手のいずれにしても左右いずれかに軸足をつくるとき、体軸 は既に剣線上では無く、剣線を外した陰の魄氣の姿勢あるいは転換が済んだ 軸足上にある。すなわち前者は同時に動きはじめで新たに創る剣線上で振り かぶり、正面打ちにて軸足を交代し継ぎ足で入り身が可能となる。後者は転 換から前の足へ軸を交代しておいて入り身で横切りや陽の陽で継ぎ足。
2016/1/7
正座から右手を陽、左手を陰に返して天から地に巡ると、坐技では右手は右膝腰、左手は左膝腰の振り子運動と上体の入り身運動が同期する。
立ち技の相対基本動作では右手は右足腰の相半身内入り身、左手は逆反身内入り身で陽の陰に発し、陰の陽で丹田に巡るときは残心、即ち後の足を継いで二足が一本の軸足となって剣線上にある。これが一教運動表である。
(技としては、残心から陰の魄氣で前の足を膝で畳んで地に着いて同側の魂氣を地に結び、他側の膝と魂氣も地に着いて振り子運動で固めとする)
陰の巡りに魄氣は残心である。これが片手取り入り身、入り身転換では、陰の巡りに合わせて魄氣は陽で入る点に基本的な違いがある。
2016/2/16
魂氣と魄氣の結び(画像①)は解かれ、与える(画像②)。
受けは一瞬全力を注いでその一点に向かう(画像③)。なぜなら、外せば一気に陽で取りの両手が魂氣を発するからである。合氣道ではこの選択に相当する稽古はない。
取りは受けと接するその構図とは別の領域で魂氣と魄氣を巡らせる。
つまり、受けの魂氣によって区切られるのは天と地である。
天は取りの魂氣、地は魄氣の働くところである。
上肢が魂氣三要素を、足腰が魄氣三要素を動作するから体軸と目付けは自在を得る。
陰陽・巡りの動作の間にまた結ぶ。その間受けの魂氣と結び、魄氣に響き、取りの真中に巡って結ぶとき、正立正座にある自己の確立が成る。
すでに与えた接点に取りが執着することの矛盾を解き明かすのが合氣である(画像④)。
触れた一点を除いて魂氣と魄氣の天地に湧き立つ思いが気息に現れ(画像⑤⑥⑦)、受けの体軸の中身を貫いて(画像⑧)、それが取りの体側に巡り体軸に結んで、止む。その思いが動作と一体になることこそが合氣道の理であると考えられる。
……「軸足と体軸」片手取り昇氣・呼吸法表裏 参照
2015/2/19
自然本体から始めに左右いずれかの魂氣を選んで発すると、同側の足先寄りに体軸が揺れるため陽の魄氣となる。片手取りの受けの動作に典型である(画像①)。一方、出さない魂氣を広義の陰で後ろに回すと同側の足が軸となって陰の魄氣で軸足が確立し、与える方の魂氣は同側の足先と共に自在に進めることが可能である。つまり、魂氣を広義の陰とすることで初めて対側を陽で発することができると言えよう。魂氣を下段から中段に与える取りの初動である(画像②)。
広義の陽で与えて、その間に対側が陽でも陰でもない、すなわちぶらりと垂らしている場合、軸足は前に踏み出した足に移ろうとして、それでいて随時後の足で支えながら前足先を進む方に向けることに留まる。
そのようにしていわば魄氣の陽で与えたとき、以後の動作は体軸が前足寄りに移っていくだけで、前の足を実際に半歩進める置き換えは不可能である。そして対側の手は下に垂れたまま陰でも陽でもないことから、魂氣と魄氣の結びが両手共に解けるわけだ。
陰の魂氣と軸足の確立なくして魂氣を与えようとするなら、体軸の移動と捻りと軸足の交代に集約される魄氣の働きに著しい不備を来すことになる。
以下画像③〜⑧は片手取り入り身転換。
2016/3/3
自然本体からいきなり陰の陽で魂氣を差し出せば、同側の足腰は魄氣の陽(鳥船のホー)で同期する。
上段であれ下段であれ、受けが手刀や片手取りでそれに触れた直後、取りがそれに応じて魂氣を陽で発する場合も陰に巡るときも、同側の足はその地点で一旦踏んで体軸を両足の間に留めるから、互いに初動の時点から間合いは詰められない。その状況の最たる象徴は、体軸に倣って終始下垂して揺れている対側の手にある。
取りが自然本体から陰の陽で与える場合は、先ず対側の手を陰の陽(小手返しの手)で同側の足と共に後ろに廻して腰仙部に結び、軸足を作ることで陰の魄氣が確立する。それにより、自ずと与える手は丹田に陰の陽で巡る。そのうえで前方に差し出すと同側の足先は地に触れるのみであるから同期して前に出る。上段にて陽の陽で発するか下段で陰の陽に巡る魂氣に合わせて、開いた自身の脇を埋めるように自在に入り身で半歩前へ同側の足腰を置き換えることができる。
これにより魄氣は陰から陽へ、そして残心へと入り身の動作をすることができる。後に回した魂氣は同時に両手で氣の巡りや受けの腋に振込突きなど陰から陽に発して巡ることとなる。
また、陽の魄氣に際して内股に置き換えた足で軸足を交代した瞬間に転換すれば、陰の魄氣であり入り身転換が成り立つ。初動で陰の陽として後に回した対側の魂氣は、今や陽の陽で前に差し出している(画像①②)。
開祖は「右手をば陽にあらはし 左手は陰にかへして相手みちびけ」と歌われる。「かへす」とは手掌を返して狭義の陰とすることであろうと思われるから、所謂“両手で氣の巡り”を動作することに相当すると考えられる。しかし、この陰陽を広義の陰陽で解釈すれば、魂氣を与えて陽に発する右手に対して左手を広義の陰に返し、臍下丹田や腰の後に魂氣を巡らすことに何ら矛盾がないのではなかろうか。
一側の手を発する時に他側が魄氣に結ぶ動作こそ、常に魂氣と魄氣の結びによる裏付けを欠かさず、体軸の正立と軸足との直結にもかかわる合氣道の根幹と言って差し支えないであろう。
2016/3/14
自然本体から剣線に直角の転換と、陰の魄氣から剣線に直角に、しかも半身を転換する方法とがある。
後者について論じる。
今、右半身の陰の魄氣から前方の右足先を剣線の右外側に直角に半歩置き換える。そこで右足を踏むと、対側の左足は伸展する。陽の魄氣である。前の右足先は内股となるが、それを軸足として剣線に直行する方向に目付けを向け、後ろの左足先は目付けに合わせて剣線と直行し、それを外して引き寄せる。今や剣線の右側で左半身の陰の魄氣である。
すなわち、魄氣は右半身陰から右半身陽となり、すぐさま左半身陰で剣線に直行する方向へ転換する。
入り身を伴わない転換にも途中で陽の魄氣の動作が含まれるのである。このように動作中、陽の魄氣が確と認識されないうちに、体軸の移動と軸足の交代が正立のままで瞬時に行われることとなる。
2016/3/18
はじめに
単独基本動作が相対動作に組み込まれて初めて魂氣の結びの天地の位置や、左右、腹背への陰陽の巡りに多様性が現れることを知るものだ。片手取り、諸手取り、交差取り、後ろ取りなどでそれぞれ同じ基本動作が受けとの間で微妙に異なった動きに変わらなければならない。また、四方投げや呼吸法や一教などの技を生み出すうちに、魂氣と魄氣の結びとともに相対動作の連なりにおいて、単独基本動作がそのままの形で用いられるわけではない。
単独基本動作の後ろ回転
陰の魄氣から前方の足を内股で軸足とし、その膝に同側の手を置くとき対側の手を腰仙部に回す。後ろの足を軸足の踵側で回して置き換え、交代の軸とするとき腰仙部の同側の手は臍下丹田に相対的に巡って陰の陽で結ぶ。魂氣と、交代した同側の軸足・腰が丹田で結ぶことにより体軸は直立で安定する。対側の手は膝から相対的に腰仙部へと置き換わり、その同側の足先がその場で180度内股に内転して再び軸となれば、陰の魄氣となって丹田から陽の陽の魂氣が発せられ、同側の足先は母指先に合わせて地に置かれる。後ろ回転の完成である(画像①②)。
つまり、一瞬丹田に結ぶ手と同側の足腰が軸となり、対側の手が腰仙部に結んでその同側の足腰が内転し、次の軸へと連なるわけだ。左右の足が軸足として交代するとき、一側の手は臍下丹田へ対側の手は腰仙部に順次結んでいく。
相対動作での後ろ回転
そこで、単独基本動作の後ろ回転に関して、交差取り一教裏の相対動作で顕在化する魂氣の動きの多様性と普遍性について注目しよう。単独動作で始めに内股の軸足の膝に同側の手を置く代わりに、交差取りでは外転換から軸足側の手で受けの開いた腋腹を直突きして前の足を軸足踵側へ回して軸交代をするとき、畳んで側頸に結んだ魂氣(降氣の形)をそのまま保持して、直突きから腰仙部に魂氣を陰で巡り、その同側の足腰をさらに内股で180度内転して再び軸とすれば、後ろ回転の最終軸足の確立で、対側の足は地に膝を着いて魂氣も同時に小手返しの手で手背が地に着く。軸足も膝からさらに屈曲して地に着き正座に移る。
要約
交差取りや諸手取り一教裏では、降氣の形で母指先が同側頸を指して体軸に結びつつ外転換(諸手取りでは外転換反復)し、軸足側の手を受けの脇腹に直突きした後、陽仙部に巡る際、受けに取らせた手が同側頸へ母指先を指したまま同側の足が軸足の踵を回って次の軸となる。単独では臍下丹田に結ぶところを相対では側頸に結んだままの形となる。再び軸足交代で陽仙部の魂氣が魄氣に結んで180度の内転により軸が確立する。陰の魄氣で後回転が終わるとき、側頸の高さから陰の陽(小手返しの手)で丹田を経て地上に上肢が進展して降氣となる。
課題
回転の終末で陰の魄氣から軸足側の膝が先に着くか、非軸足側の膝が先か、限りなく同時なのか。相対動作の様々な異なる初動から、それぞれの修練の中で見出さなければならない。
2016/3/30
単独呼吸法で吸気とともに魂氣の発せられる(と想う)部分は先ず母指先である。同じく昇氣で呼気とともに狭義の陽で丹田に巡る際は小指先からで、その結果丹田に結ぶのは小指球の手背側である。合氣体操で四教のつぼへ魂氣を浸透させるのは示指球から発するものである。また、入り身投げや所謂呼吸法では受けの側頸を中心に項へ向けて、母指先の反から前腕撓側にかけて魂氣の発する想いをもって接着する。
一方、取りが受けの発する魂氣を制圧する一つの方法は、これらの部位を包み込むことである。受けの母指先にはその母指球を、小指先には小指球を包むこととなる。両手で母指球と小指球をそれぞれ包むことはなく、対側の手で母指球を包む代わりに胸や、膝の内外に当てたり、小指球を包む変わりにその手背側を被ったり、手首を屈曲して側頸に母指球の手背側を密着するとか、全身の各部分を使って包み込む。これらは二教、三教、小手返しに当てはまる。原則は“両手で氣の巡り”であるから、右手が陽(で包む)なら左手は陰(で手背側を被う)にかえす。
示指球は、母指球と小指球が互いに自身の手掌を包むことで魂氣を発することができる。相対動作では受けの手首の屈側から手掌に包み、撓骨内縁部に示指球を密着して嵌め、魂氣を発する想いで上肢全体を進展する。受けが取りの手を取る際は、取りがその母指球と小指球の互いに弛んで開くようにすればよい。つまり取りの手首を取った受けの手に対して、陰の陽で取りの手首を弛緩屈曲し、それを取り自身に巡らせることである。すると、受けの掌底には取りの手首との間に隙間が生じ、示指球への魂氣は集中されない。
受けの前腕撓側にたいしては取りの側頸に結べない方法を用いる。即ち、取りから遠ざけることである。例えば四方投げの持ち方で受けの手首伸側を包み振りかぶって取りの手背を額に結べば受けの前腕屈側を取りの額に結ぶこととなり、前腕撓側は取りの体軸から遠ざかる。つまり、四方投げに際してその術理に則る動作抜きにしては、たちまち取りが呼吸法や入り身投げの返し技を受けることになるわけである。
息みにより固くなった肩や、固定した肘と手首の関節が自身の体軸から直接繋がり、両足底を突っ張って陽の魄氣で受けとの接点を圧迫することは、正に魄氣を全身に意識して動作することと言える。その上魂氣の出入りする体表上の部位に頓着せず、母指先以外で受けとの接触面に筋力を集中させるなど、魂氣三要素を無視すれば合氣の動作から大きく逸脱することになろう。
2016/4/6
はじめに
片手取りには外転換が最短の選択であろうと常日頃の稽古を通じて感じているところであるが、伝統的な稽古の進め方では体の変更を第一とすることが知られている。
入り身転換や体の変更とは、どちらかと言えば魄氣三要素が主となる相対基本動作であるが、片手取りでは互いの魂氣の働きが重要な鍵となることは間違いない。受けに対して合氣による制圧が可能となる術理を体得する上で、魂氣の三要素にまとめられる上肢の動きはもっと緻密に研鑽されて然るべきと考え、起稿した。
入り身は魄氣の陰陽と残心
片手取りに入り身転換は入り身して転換、あるいは入り身しようとして転換に終わると言っても良い。単独動作の入り身とは、前の足を半歩あるいは後ろの足を一歩進めると同時に対側の足を後ろから送って、前に進めた足の踵に着けて半身となる。これを残心と呼べば、剣線を外して入り、残心で終わるのが入り身である。魄氣の三要素から見ると陰の魄氣から前の足を進めて陽となる瞬間に後ろの足を送って残心とする。
ところで、入り身の成立した直後、残心のまま二足が一本の軸足で静止するわけにはいかない。魄氣はその場で後の足を体軸に連ねて陰に戻って一旦静止し、再び陽で動作に移るか、転換や回転の動作に移行することになるであろう。残心から一足が前後に進んで陽となり、動作が途切れないで前/後進の続く場合もあり得る。
片手取りに外転換または入り身
片手取り入り身は間を詰めて同時に剣線を外すが、打突に対する場合と異なり、掌に包んで与えた魂氣を受けが取りの手首を取ることで、さらに対側の手を中心とする取りへの攻撃に連なる状況である。言い換えると、取りが魂氣を下段に与えることで自然本体の受けの手を前に引き出させ、取りの手首を取ることに始まる攻撃状態にさせている。
しかし、この瞬間、受けの前方に伸びた上肢を境にして取りの魂氣の及ぶところは天と地に二分される。受けの対側の手が天に及び、足腰は地に進み体軸の進攻を許すことになりかねない。その際、剣線を外すには転換を要し、より安全な地点を占めて反撃に転じるために間を詰めなければならない。すなわち転換して入り身である。
受けとの間にある脅威の範囲は剣線上にある矢状面のみに留まらず、片手取りに限った場合でも相当の幅が感知されるものであろう。たとえば先端が取りの正中矢状線上でも楔形に厚みのある圧迫であることも考えられる。その瞬時の感知によって取りの全身が動作を始めることとなる。取りが自然本体か左/右自然体(半身)であるかはその時によって一定するものではない上に、受けと取りの中心を結ぶ線が、取り自身の姿勢で作る正中矢状方向とずれの生じることもあろう。
つまり状況によって、与えた後の取りの初動が入り身か、もしくは転換が選択され、次に転換か入り身を続けることでさらに受けからの攻撃を避けると同時に、取りが制圧を意図する動作に連なるはずだ。
与えた魂氣の巡りと入り身の機序
足腰の動作(魄氣の働き)について長々と記述したが、片手取りに限定した入り身に転換が続き、さらには基本技へと連なる術理に着いて述べ、その後に、連続した入り身転換の反復稽古として片手取り体の変更があることに言及するつもりである。即ち、鍵となるのは、与えた魂氣における巡りという要素が上肢に如何なる動作をもたらすかと言うことにほかならない。それは魂氣三要素が合氣の術理の要であるからだ。
陰の陽で丹田に結んでいた魂氣は陰の魄氣のまま上肢の伸展により掌を包んだ状態で差し出されるにつれ手首の屈曲は次第に強まり、母指先は地の方向(真下)から内側を指す。呼気に移って上肢は弛緩するがすでに手首の屈曲は最大となり、それに拮抗して肘はなおも伸展を維持し、指先は丹田を指して母指共々内側に向かい、上肢は受けに取られながらも脱力する。この状態は魂氣の内巡りと言える。即ちその腋は剣線に対して微かに開かれ、同側の足腰は前方に半歩踏み出すことが可能となる。つまり入り身の陽の魄氣が働くわけである。
入り身の残心に代わる入り身転換
片手取り入り身に伴う画期的な効果は、内巡りしている手背に丹田のほうからも近づき、終には接触して陰の陽の魂氣が丹田に結ぶほどに近づく。ただし、受けの手指は取りの手首に未だ絡んでおり、取りの上肢の直下に受けの異名側の上肢が重なり、その先の肩、体側が取りに対しては壁となる。しかし、入り身で進めた同側の足先は受けの中心を指して内股となっており、このとき軸足として踏み込んで継ぎ足を促し、体軸が軸足に移って直結しようとするが、受けの壁に接した体軸は自ずと内巡りの方向へ転じ、目付けは受けを避けて剣線に沿い体軸とともに後方へ転じる。これによって入り身に続く転換が生まれる。後方の足は軸足に引き寄せる前に足先が腰に合わせて外股に向きを変えることで、転換した陰の魄氣の姿勢が成り立つ。
入り身転換は技ではない
受けに取らせた手は入り身転換とともに自身の丹田に結び、それを中心として同側の軸足と体軸にまで繋がって安定した一瞬の静止が成り立つものの、魂氣が受けの接点から中に入った訳ではなく、まして取りの魂氣が受けの中心、つまり魄氣を含めた体軸に及んだ訳ではない。取りの魂氣が受けの魄氣に結んで受けの底を抜かない限りは相対の氣結びは生まれない。氣結びによる合氣の技が生まれるためには入り身転換で静止し続けることはできない。取りの魂氣が丹田からさらに巡って発し、受けに響かなければならないからである。
入り身転換は動作の終末ではない
片手取り入り身転換での受けの体軸は取に繋がる手と同側の足に偏っており陽の魄氣である。取りの軸足側の腰と背により受けの肩と上体は遮られ、継ぎ足によって対側の手を振るうには力を伴う圧迫が必要となろう。受けがそれを躊躇する理由はない。取りの丹田に加わる受けの手の力は、受けが前の足で軸足を作ろうとする動作に繋がり、その体軸は取りの背に一層圧迫を加える。取りは足腰から背で受けに抵抗する力を意識するだけで、受けによって前に押し出されることになろう。つまり静止しようとすれば地を踏みつけて抗力を倍増し、手や肩や腹に力と壁を意識しなければならない。息を止めて筋肉を緊張硬化した状態で維持しなければならない。まさに全身の静止である。
体の変更で受けを放つ
呼吸法が合氣道の根幹である限り、呼気で陰の魄氣とした入り身転換では速やかに吸気に移るべきであり、受けの圧迫を力で受け止める訳にはいかない。前方の陽の手を後ろに廻し、同側の足を共に後ろへ置き換えて陰の魄氣を陽とし、陰の魂氣は存分に息を吸って丹田から陽で発すれば良い。始めの半身に戻り陽の魄氣となって、鳥船の陽の姿勢をとっている。元々受けに与えた魂氣は初めて陽の陽で差し出しており、それを取っている受けの手は取りの魂氣と共に同側の足をさらに前方へ移した上で軸足を確立しなければならない。すなわち、取りの背と腰が半身で前に開き受けは前方へ放たれることとなる。
入り身転換の左右反復練習が体の変更
入り身転換して前の足を一歩退く体の変更の結果、取りの体軸は陽の半身となって後退するため、受けの上肢と上体は取りの魂氣に従って陽の魄氣のまま前の足をさらに踏み出して軸とし、後ろの足を一歩踏み出して軸足を交代し、取りの前に放たれることになる。したがって受けは即座に単独動作の入り身転換で取りに向かって振り返り、体の変更に連ねて取りとの間合いをいっそう取る必要がある。取りは陽の半身から前の足の後退によって半身を交代して陰の魄氣とし、魂氣を対側の手で与えると入り身転換の左右反復を体の変更によって続けることができる。
受けを前方に放つ技
体の変更で受けを前に放つ動作が技を作るときとは。つまり降氣の形から回外して魄氣の陽で母指先に氣を発する呼吸法で投げるときで、諸手取り呼吸投げ(丹田に結ぶ)、片手取り回転投げ、太刀取り呼吸投げ、杖取り相半身呼吸投げ等。
まとめ
そもそも片手取りの受けの手を魂氣と共に一旦臍下丹田に巡らせ、そこから昇氣や外巡りを足腰の転換・入り身に合わせて動作することで基本技を生み出す。その基本動作として、入り身転換により魂氣を丹田に結ぶ瞬間を一区切りにして稽古するわけで、それを左右反復するために途切れず前の足を後方に置き換え、魄氣の陽で体の変更を行い受けを前方に放って、半身を転換して再び対側の手で魂氣を差し出していくこととなる。
片手取り入り身転換は魄氣の陰、体の変更は陽である。それに伴って魂氣は前者が丹田に陰で結び、後者は陽で発する。
2016/4/27
相対動作の呼吸法は、受けとの間で呼吸とともに氣結びを為すことである。
魂氣では陰陽・巡りによって接点から拳一つ分以上中に入ること。
魄氣では陰陽・入り身によって体軸が接し、転換・回転によって体軸が捻転すること。魄氣の陰陽は体軸に連なる軸足の確立。入り身は軸足の交代による体軸の移動。体軸の捻転は軸足の固定と、置き換える足による軸足の交代によって可能となる。それは目付けの確立に現れる。
同時に、取りの魂氣と魄氣(手足腰)が丹田や体側、側頸を通じて自らの体軸に繋がる残心が氣結びであり、氣結びこそが合氣である。
正立正座、禊、直立二足歩行に矛盾するものではない。つまり、手・足・腰・目付けの一致と言い表される。
様々な説明表現が用いられているが、いずれにしても、言葉と思いと動作の三位一体無くして実体の伴うことはない。
2016/5/10
禊ということばは、目次や見出しを除いて『合気神髄』本文に79回示されている。
p45 “合気道は言葉ではなく禊であります。” p145“禊は合気であり、合気は禊から始める。” また、 p22“禊がないと、ものが生まれてきません。” p27“天の浮橋に立ちまして、そこから、ものが生まれてくる。” という表現から、禊は“天の浮橋に立つ”という語句にも言い換えられていると思われる。
魄氣の基本動作である軸足の確立と読み取れる表現も見出される。魂氣については、左右を陰陽で現し、入り身転換や杖巡りの上肢を説明したものと思われる表現も見られる。さらに、魂氣と魄氣の結びについては、禊や“天の浮橋に立つ”という語句に関連して多く述べられている。
我々の言う魄氣三要素に加えて魂氣の陰陽と結びは、このように『合気神髄』の中に読み解くことができる。ところが、魂氣三要素の残る一つ、巡りについてはあまりに低い出現頻度であることから、何か他の表現が同時に用いられているのではないかと考えた。
巡りとは、回ってくる、還ってくる、円を作ることであり、陰陽の巡りとは、魂氣(手)が陰から陽へ発して、陽から陰に戻る繰り返しである。つまり、単独動作では陰に巡って臍下丹田に結び、吸気で魂氣を陽で広げ、呼気で再び上肢が体幹に戻る、禊の核心でもある。相対動作では、受けの魂氣に陰で接し、陽で発して結び、魄氣(体軸)には陽で接しつつ陰に巡って、取りに陰で結ぶと同時に受けの底を抜く。つまり陰陽の巡りがそれぞれに結びへと働くのである。
受けに接した部分で、取りが筋肉の収縮による力を作用させる場合は、所謂力で押し引きする訳である。このとき力を抜けば何の仕事量も発揮できないばかりか、受けによる制圧を瞬時に許すこととなろう。ところが、たとえ接触しても受けに対して作用の起こすべき点を作らなければ力の必要もない。魂氣(取りの手)が空間で陰陽に巡って、受けの中心軸に丹田(つぼ)を通して母指先から衝撃を発揮するなら、体軸の衝突や腕力で抑えることなく、取りは地の間で受けと一体になるであろう。
魂氣は三要素に集約され、陰陽、巡り、結びという働きであると理解しているのであるが、それには前述したような言葉と思いに対して、相当する動作の本体が肝心である。すなわち、腋による上肢の前後・上下の運動、肘による上肢の折り畳みと伸展、とりわけ手首と指の弛緩屈曲、緊張伸展、回内・回外が呼吸とともに繰り返されることこそ魂氣の動作である。単に上肢を使って効果的な技を施す工夫に留まらず、魂氣を成す三位一体の中の動作として体得することが合気であろう。
息を詰めて硬直した節々で上肢を足腰に直結し、受けとの接点で力を及ぼせば、瞬時に対称的な抵抗力が受けの中に生まれる。魂氣と魄氣は受けに競合する状態では動作しない。受けの中心に限りなく近い空間でそれぞれの三要素が動作してから、受けの中心に魂氣が響いて取りに巡ることで合気が成り立つ。空の氣と真空の氣に結ぶと言う表現にはこのことが当てはまるのではないかと考えている。
開祖は多くの象徴的な語句を古事記や我が国の伝統的神事から選び、様々な比喩として用いておられる。これまでに理解できないままでいた多くの語句の中から、一つの言葉にたまたま着目することとなった。それは“魂の比礼振り”である。
世界宗教用語大事典によると、比礼(ひれ)とは、風にひらめくものの意。日本古代に、振ると波を起こしたり、害虫・毒蛇などをはらう呪力があると信じられていた布。女性が首にかけ左右に長く垂らしたりし、別れを惜しむ時振ったりもした。鏡を拭うにも用い、後代の手拭に近い。儀式のとき、矛などにつける小旗をもいう。
この表現は『合気神髄』の中で11回使われている。
p26“一緒に稽古もやろうし、また月ごと、年ごとに、この技というものは進んで向上しつつ変わってまいります。一定しておりません。ことに、今までの世の中というものは百事戦闘をもって生きんとしておりました。それだからして、いちいち技をかえて、形によって進んでいく。これは、そうじゃありません。魂の比礼振りでありますから絶対に形のない、学びであります。”
また、p27 “合気道は手を見てはいけない。相手を見る必要はありません。姿を見る必要はありません。ものを見る必要もありません。魂の比礼振りでありますから。” p107“いつでも魂の比礼振りを起こさす状態に自分をおくべきである。”
p106“魂の比礼振りが起これば、” p108“魂の比礼振りは、あらゆる技を生み出す中心である、” p149“魄の世界を魂の比礼振りに直すことである。”
“ひびき”を用いての類似した使い方では“宇宙組織を宇宙の魂のひびきによって、ことごとく自己の心身に吸収して結ぶのである。” または、“気が巡るのです。” “魂の気で結ぶのです。”
受けの上肢と体軸が区切る空間で、取りの魂氣(手)と魄氣(足・腰・体軸・目付け)がそれぞれの三要素を発揮することによって氣力が産まれ、受けに響いていくのが合気であり、特に魂氣の巡りにあっては手首と指先の弛緩屈曲と緊張伸展の反復が核心となる。
この教えから、禊の中で上肢を緊張伸展して天に差し上げて、手首から先の弛緩屈曲と伸展を繰り返す動作は、魂氣の巡りを比礼振りになぞらえたものと考えられる。
2016/6/6
吸気と共に母指先から掌が開いて上肢が伸び、呼気と共に他の指の弛緩屈曲で掌が包まれ、上肢が畳まれて丹田に巡る。禊によって臍下丹田は魄氣と魂氣が結び合氣で満たされる。母指はつねに伸展している。
古来、丹田とは氣の集まる部位とされているが、魂氣の三要素を働かせる際、体内と空間を繋いで氣の出入りする場所と考えたなら理解し易い。
中でも合気道の稽古においては以下の六カ所を用いている。
① 頂丹田 正中線上頭頂部の一点、魂氣の振りかぶり。
② 上丹田 眉間奥≒額、天の結び、鎬。
③ 中丹田 胸の中央≒両側頸の二カ所、昇氣から発氣、巡りから発氣、降氣あるいは天の結び。
④ 下丹田 臍下3寸(掌の幅、手背の長さ)、残心、入り身転換の結び(地の結び)、降氣。外巡り、上下段に与える発氣。
⑤ 底丹田 会陰(外陰と肛門の間)に位置する、受けの底、投げ・固めの地の結び。
いずれにしても実在する器官ではないが、それぞれの部位に魂氣の陰陽・巡り・結びを思うことで動作が生まれて、三位一体による氣の力が自己を覚醒させることとなる。身体に現れる動作を身密、言葉を口密、心に思うことを意密とする三密加持にも通じる。
これらの一点は一直線の体軸上に位置するが、両側頸については体軸から左右に分かれ、それぞれが両手に繋がる動作と関連する。しかし、肩から連なる上肢そのものの動作を意味するわけではない。上肢は足・腰・躯幹に連なる身体の一部であり、地に下りた魄というたましいに繋がる氣で結ばれるという思いを持っている。両側頸においては同側の母指先から、あるいは対側の母指先から魂氣が巡り、体軸に沿って下りると下丹田に結び、再び昇って側頸に至れば母指先を通じて魂氣が発することとなる。これにより、上肢の動作は魄氣の繋がりから脱することが可能となる。
“魄氣から解脱して” 魂氣を母指先から発することで上肢が動作する。“解脱するには心の持ちようが問題となってきます。” と開祖はおっしゃっている。
呼吸とともに氣結びを為す・単独呼吸法を坐技で行えば魂氣三要素の働きを三位一体で体得することができる(動画)。
2016/6/21