打突によるぶつかりを避けてしかも受けを崩し、激闘しない動作で技を作り、安定した姿勢で掛けるという過程を単に常識的動作だけで成し得るか。理合を拠り所としながら実技に欠ける互いの動作が体術を構成し得るか。
一方、入り身転換に際して相応の打突の当たりや反発があって、以後も取りが優位に当てたなら、それに連動した投げや固めが成立する余地はすでに無い。このような場合、合気道の体術としての特徴的な武術性を現すことができるのか疑問である。
打突や当てに代わる動作がそのまま挿入されて連なるとき初めて技の成立が可能となる。それを意識的動作と読んで区別するなら、正しく魂氣と魄氣のそれぞれ三要素であり、呼吸と共に氣結びを成す動作である。
2014/6/3
魂氣三要素の陰陽・巡り・結びのうち、結びに相当する動作は接点から拳一つ分中に入ること。魄氣の相対動作における結びとは入り身・転換・回転で互いの体軸が接することであり、魂氣と魄氣の結びは陰の魂氣が体軸に接することである。
①受けは三つの先に関わらず魂氣と魄氣の結びを解く。取りも自然体からその魂氣が魄氣との結びを解いて三要素の動作で受けの魂氣に結ぶ。
取りは両手で氣の巡りにより一方が陽で発しても他方は陰で丹田や腰に巡り体軸に結んでおり、魄氣は三要素の動作を連ねる。
②取りの魄氣が受けの魄氣に結ぶ。
入り身・転換・回転により受けの魄氣に取りの魄氣が結び、受けの魂氣と魄氣は解けたまま。
③取りの魂氣が受けの魄氣に結ぶ。
呼吸法で取りの魂氣が陰陽・巡りで受けの魄氣にまで結ぶことで受けの魂氣と魄氣はもはや結ぶことなく、受けは取りの軸に一体となる
④取りの魂氣が取りの丹田に巡り送り足で残心となり、魂氣と魄氣の結びが還り左/右自然体で静止する。
受けは取りとの結びを経て地に結ぶ。技の成立。
自然体から
① 取りの魂氣と受けの魂氣の結び
② 取りの魄氣と受けの魄氣の結び
③ 取りの魂氣と受けの魄氣の結び
④ 取りの魂氣と取りの魄氣の結び=残心にて左/右自然体に還る
→ 受けは地に結ぶ
技の成り立ちには基本的に①から④の経過が必須である。ただしこれらには明確な境界が存在するものではない。
技の成立が不首尾であれば、つねにこの四段階に区切って照らし合わせると問題点が明らかになる。①の段階からすでに思いと動作に曖昧な点を含んでいる場合、以後の相対動作の連なりは一見して合気道の特徴から離れた形を示すであろう。
その意味で、形へのこだわりは正しい。
2014/6/9
母指先だけではなく小指球・小指を先駆けとする巡りもある。
正面打ちや突きに対して横面打ち転換または入身転換で、小手返しに取る場合、あるいは受けの手首に当たらず取りの丹田で陰の陽に巡る場合、つまり単独呼吸法や片手取り呼吸法の昇氣に至る前の巡りである。
単独基本動作入身運動の横面打ちでは、吸気で手刀を振りかぶって額に結ぶと共に同側の足を魄氣の陽で半歩前に置き換え、呼気にて手刀から魂氣が陰の陽に巡って丹田に振り降りる。このとき、魂氣は小指の先から順次丹田に接し広義の陰で狭義の陽、つまり魂氣を掬うような気持ちで母指を除く四本の屈曲した指の手背側が丹田に接する。母指は伸展したまま示指の第二関節側面に置き小手返しの手となり、脇はしっかり閉じて上肢全体が胸部から腹部に密着する。この動作を魂氣の丹田への結びとする。同時に送り足で剣線を外して二足を軸足にして残心となる。
入身運動という魄氣の動作に伴い魂氣の結びが丹田においてなされると、魂氣と魄氣も丹田で結んだと想うことができる。しかし、相対動作の突きにたいする横面打ち外入り身転換あるいは外転換では、振り降りた上肢の魂氣が丹田へ結ぶ前に受けの前腕に当たることとなる。すなわち、取りが小指球から手首の尺側にかけて、受けの手首伸側の撓側寄りに接して陰の陽に巡っていけば、小指から順次指が弛緩屈曲して小指球と共に受けの母指球を包んでいく。母指が蓋をすれば受けの手背の真中を圧して、広義の陰で狭義の陽の魂氣が自身の丹田に巡り受けの母指球に結ぶと同時に丹田にも結んでおり、取り自身の魂氣と魄氣が結び、受けの魂氣にも結ぶから合氣によって手首を取ったことになる。
受けの拳を返すには結んだ体軸を転換して返すことと、取りの対側の魂氣を受けの尺側の手背から被せて受けの小指球まで完全に包むことが必要である。また、体軸の転換とは、外転換したその場で陰の魄氣を踏み替える入り身転換(180度)と、陰の魄氣の前方の足を後方に置き換えて軸とする後方回転(180度であるが一歩受けと間をあける)がある。
小指球を接点とする抑えは、受けが手刀で取りの手首に当ててそのまま下に押して手首を降ろそうとする動作である。通常、手掌を地に向け、掴むようにして抑える。手刀は陽でも陰でもない魂氣であり、巡りの途中で魂氣の働きが留まった状態である。従って脇が閉じる際の上肢の筋群が緊張することで、肘や肩を用いて小指球を手首に打ち当てて、上段から中段に押し降ろすと同時に取りの中心に当てることが理合となる。
そこで、取りが入り身転換または体の変更で中心を外し、間を作ることにより、受けは手首を掴むことでより確かな筋力の伝達を図り縦の体軸を保持することが無意識の内になされる動作である。
2014/6/24
先手は魄氣の陰で上段に魂氣を与えて同側の足先はそれに合わせて相半身入り身へ。魂氣が陰の陽で受けの手刀に触れて陽の陽に発して結ぶから同側の足先は相半身入り身へ進むことができる。…… 結んで詰める。
一教表:両手で氣の巡りによって魄氣は相半身内入り身から逆半身内入り身。
入身投げ表:逆半身外入り身から相半身外入り身
同時打ちは受けの振りかぶりに合わせて同名側の手で相半身直突き。同側の足を軸として対側を一歩入り身して横面打ち入り身、直突きの魂氣は陰の陽で腰に巡り転換。
今一つは、受けの振りかぶりに合わせて異名側の魂氣を横面打ちに振りかぶり受けの真中を打った手刀の外に自身の体軸を外して外入り身転換。
いずれも逆半身横面打ち入り身転換で。…… 詰めて外す。
入身投げ裏:魄氣は入り身転換反復または入り身転換から体の変更をして踏み替え(後ろ回転)、魂氣は陽の陽から陽の陰。
小手返し裏:入り身転換から体の変更をして前の足を後ろに置き換えてから踏み替え(入身投げとは逆回りの後ろ回転)。
後手は受けの振りかぶりに合わせて同名側の魂氣を降氣の形で陰の陰に巡り額に結ぶ。同時に同側の足先を受けに対して剣線の背側に外して置き換え・軸として、異名側の魂氣を返し突きで入り身転換とする。…… 外して詰める。
一教裏、入身投げ裏:魄氣は入り身転換から体の変更をして踏み替え(後ろ回転)
入り身投げ裏は受けの背と取りの胸が接しておれば入り身転換反復も良し。
2014/6/25
片手取り内巡りで入り身運動が可能か?
片手で陰の陽の魂氣を与えて受けが逆半身で取ろうとするが、吸気で陽の陽と発すること無く、丹田にそのまま呼気で巡り母指先が内方(腹側)を向き、他の指は揃って昇氣の方向を指している。これを内巡りと称することにする。
片手取り内巡りから昇氣で側頸に達して陽の陽で発すると、受けの脇は開き取りが入り身するだけの隙間をつくる。また、丹田から外巡りによって魂氣が陰の陰で外側方へ母指先が向かうと、受けの脇が開き、そこに入り身することが可能となる。あるいは、与えたところで降氣の形をとり一旦側頸に向かった母指先が陰の陰に巡って額に結ぶと、互いに開いた脇を取りが前方へ入り身転換または回転することができる。
ところが、片手取り内巡りで互いの魂氣が丹田に結んだまま入り身を行おうとすれば、取りの上肢が作る脇の間に同側の足腰が入り身するだけの隙間は得られるものの、送り足の段階では、受けの上肢にとって一旦開いた脇が閉じる動作を伴うことになる。したがって受けの手足腰が剣線上に体軸を作ってしまう結果、互いの上肢が重なり、取りの体軸移動が行き詰まるのである。
取りの送り足によって二本の足が一つになる体軸の移動が入り身の本体であるから、魂氣が丹田に結んだままでは入り身が成り立たないことは明らかである。
このように、与えた魂氣が丹田へ内巡りで結び留まる際は入り身運動が成り立たないから、急遽体軸が反発しない方法をとる必要が生じる。取らせた上肢の重なりを緩め、受けの脇が開いたまま取りの体軸がそこに入る方法があるだろうか。
取りの前方の足先は陽の魄氣で置き換えたとき受けの中心を向き、踏むと同時に軸として腰と目付けを背側に転換すれば、後方の足は送り足ではなく足先が反転して魄氣の陰の前方の足先となる。互いの魂氣が結ぶ丹田、すなわち体軸を受けの方向に入り身の完遂の為に押し進めること無く、開いたままの受けの脇に足腰と共に嵌り、体軸の移動が成立する。今や互いの魄氣は接しており、入り身同様に結んだ状態となるが、取りの足腰は入身のような送り足による左/右自然体ではなく陰の魄氣である。これが入り身転換である。
片手取り入身転換は、魂氣が丹田に結んだまま魄氣を受けに結ぶ基本動作であり、一瞬陰の魄氣となり魂氣は丹田に留まる。受けに取っては、取りの背と腰の後ろで魂氣が取りの丹田に結び、ここから多くの技に進展する。基本動作の連なりによって技が生まれるわけであるから、本来魂氣は丹田に留まらず、そこを発して自在に巡らすこととなる。
同じ基本動作とされることの多い体の変更では、入り身転換から前方の足先を後方へ置き換え陽の魄氣とともに魂氣は陽の陽で前方に差し出す。受けは取りの背と腰から魂氣と共に前方へ放たれるから、取りの魄氣との結びは解けるわけで、これ自体基本技と見なすべきである。取りの魂氣は陽の陽から陰に巡り、受けとの魂氣の接触も解かれる。
2014/7/3
禊は自然体や魄氣の陰陽に加えて魂氣においても三要素の動作を含んでいる……画像は「概要」を参照。
鳥船では
ホー・イェイ、陰の陽で中段に差し出すが、手首と手指関節の屈曲で魂氣はホーと吸気の間も指先を通って丹田に巡るばかりで、肘関節を伸展したままイェイと呼気で脇を閉じて魂氣は陰の陰で丹田に結ぶ。母指は常時伸展し、吸気では足腰を魄氣の陽として両足を踏み後方の足は伸展、呼気では陰として後方の足を踏み、腰と体軸を結び軸足とする。前方の足は伸展して足先が地に触れるのみとなる。
相対動作では、片手取り四方投げと外巡り陰の陰で側頸に結んだ二教の手首を絞る手に見られる。
【陰の陽の魂氣で受けの手首伸側を超えて上肢を伸展し、陰の陰に巡って受けの尺側から伸側へ四方投げの持ち方、または撓側から伸側へ二教裏】
イェイ・イェイ、陰の陰で中段に差し出し、呼気でイェイと丹田に結ぶ瞬間に吸気でイェイと陰の陰のまま手背を水平に母指先から前方に突き出す。
相対動作では、坐技片手取り呼吸法のひとつにそのまま当てはまる。
【陰の陽にて与えて先ず呼気で一気に肘を落として肘関節と脇を弛緩屈曲するが、手関節は伸展して陰の陰で手背が受けの手首下面の屈側へ密着し、吸気でイェイと一気に緊張伸展して上肢を前方に突き出す】
サー・イェイ、陽の陰で指先まで揃えて吸気でサーと下段に突き出し、手首から先を屈曲してイェイと陰の陽で丹田に巡り陰の陰で結ぶ。
相対動作では、片手取り外巡り陽の陰で受けの上肢を越えて受けの真中の空間に結び取りの丹田に巡って二教。
【陰の陽で下段に与え、外巡りから陽の陰で受けの手首上面を内側に沿わせて巡り、母指先は地に向き反りに合わせて丹田に巡ろうとするとき、小指から狭義の陽となって肘を伸展したまま脇を閉じ陰の陽で丹田に巡り、想いは陰の陰で結ぶ】
両手掌を陰陽合わせて氣の巡りでは
坐技単独呼吸法に通じるが、互いに狭義の陰陽の魂氣を両母指先から広義の陽に発して、反りに合わせ、丹田に巡る動作。手刀や肘から上肢を振り出す動作は魂氣三要素に沿わない。
2014/7/8
受けの正面打ちによる手刀に対して、取りが魂氣を狭義の陽でも陰でもない手刀で振りかぶると、受けの手刀と常に紙一重で擦れ違う位置取りの理が必要となる。つまり受けの手刀の剣線に下から上へ滑り込ませる位置の高さについての見極めや、取りの手刀の初動の位置が丹田か、体側か、ということも剣線との間の角度に微妙な差をもたらす。剣線を外す同側の足先と体軸の位置についても確たる規範無しでは技としての動作は成り立たない。
また、取りの正面打ち摺り上げの動作から始まる受けとの魂氣の結びが三要素に則って可能かどうか。つまり、陰陽・巡りを抜きにして結びは叶わず、陽でも陰でもない取りの手刀が当たっていきなりその手が受けの魂氣や魄氣に結ぶことはできない。手刀は手指が天を指し、母指先は自身の頭頂に向かうからである。
手刀を作らず陰の陰で振りかぶって自身の額に結び(杖巡り)、その状態で受けの手首が当たった時に小指や手刀で陽の陰に発することは、いわゆる手を被せる動作であり、氣の巡りや結びとは本質的に異なる動きである。杖巡りや横面打ち入り身運動のように小指(球)から広義の陰で丹田に巡ることはあっても、広義の陽へ発することは単独呼吸法氣の巡りに照らしても動作しきれるものではない。また、陰のまま額から丹田に巡れば陰の陽となり、受けの手首を伸側から手掌で抱え込む形となり一教の固めには繋がらない。対側の手で四教に持ち換える展開に限定される。
互いの手刀が手首で当たる同時打ちはまだしも、取りの小指が受けの手刀や手首に当たり打たれることがあれば、稽古であったとしても無惨な結果となる。それだけは回避しなければならない。
そうであるなら、受けの手刀に対して取りが手刀や陽の陰で合わそうとすることを避けるべきであろう。坐技単独呼吸法での両手で氣の巡りでは陰の陽で与える動作から陽の陽に発して母指先方向に巡ってくる。ただし対側の手は矢筈に開き、相対動作では受けの脇に合わせて広義の陽で返し突きとし、受けの上腕に当たった瞬間母指先の反りの方向へ陽の陰で巡る。このとき受けの手刀に合わす取りの魂氣は手刀で天に摺り上げずに陰の陰から陰の陽に母指先から巡って額に結び、受けの手刀に当たって陽の陽に発すると受けの手首に結びその上肢は剣線を取りの上肢に沿って外へと摺り落ちる。
矢筈の手は陽の陰から陰の陽へ、手刀に当たった手は陰の陽の母指から陽の陽へ、両手で氣の巡りの単独呼吸法のままに動作することで受けの上腕は取りの丹田に巡り結び、その手首は屈側を陰の陰に巡った取りの魂氣で上から把持される。
額に振りかぶった取りの魂氣は、手刀か陰の陰で受けの手刀に当たり小指から陰の陽で丹田に巡るか、それとも陰の陽で与えて当たった瞬間母指から広義の陽で発して母指先の反りに合わせて陽の陽で丹田に巡るか、この二通りに分かれる。前者は抑え、後者は結びである。
2014/7/15
魂氣を発するのは吸気で広義の陽、巡るのは呼気で広義の陰。手掌が天を向くとき狭義の陽、地を向くとき狭義の陰とする。また、狭義の陰から陽、陽から陰に転じることも巡りと言う(ロ)から(ハ)。
鳥船が前後への魂氣の巡りであるのに対して、禊における氣の巡りは陽の魂氣を母指先から反りに合わせて発する。そもそもこれが円の軌跡の始まりである(イ)。上肢の伸展の上に手首の屈曲伸展がさらに魂氣の緩急、軌道の大小を自在に描くことができる。狭義の陽では脇を閉じながら体側に魂氣が結ぶ(ロ)。反対側の手が狭義の陰で巡るときも、同様に母指先から発する氣が反りに合わせて丹田に向かうと意識して動作する(ロ)。
狭義の陽で丹田に巡るときは小指から順に掌を包み、母指先は腹壁に平行となる。陰の陽で丹田に結び昇氣の体勢に向かうときである。諸手取りで外転換して降氣の形を取るとき、つまり下段に与えて(諸手取りでは陽の陰で取らせる①)陰の陽で母指先が同側の頸部に向かうとき、はじめに地を向く母指がその先から氣を発する想いで天に向けようとするなら受けの左右どちらかの手で押し止められる。狭義の陽で取りの軸に向かうのであれば、小指から順次掌を包んで行かなければならない。
それに先立ち、外転換で脇を閉じて肘が体側へ接していくと②、母指先は水平に内方を指す。手首は側頸に向かって屈曲する。つまり、小指から順次掌を包んで広義の陰で狭義の陽を動作する。その結果母指先は地から水平、天、側頸へと巡り、同側の足は軸として陰の魄氣をなす②。ここで、前の足から踏み替えて軸足を交替すると③、今や入り身転換とした陰の魄氣の前方の足先に合わせて同側の母指先の反りで陽の陽の魂氣を発することができる④。
2014/7/26
片手取り入身転換から体の変更では、取らせた手を引き寄せ、前に引き出すことを戒める教えがある。実際、目一杯腕の筋力を使ってもその基本動作の形をなぞることすらできない。魂氣の結びが伴わないばかりか、互いの足腰の動作と位置関係が顧みられないからである。魂氣と魄氣の結びに裏打ちされて初めて理のある動作が生まれる。
片手取り入身転換では魄氣の陰で魂氣を与えようとするが、留まらず丹田に巡り、それに合わせて魄氣の陽で入り身に向かい、目付の転換と同時に魄氣の陰で転換が成り立つ。体の変更は、入身転換で自由になった前方の足先を止めずに後方へ一歩置き換えて、後ろで地を踏むと同時に魄氣を陽とするから、体軸については入身転換の軸足からやや後ろで両足の間にある。つまり取りの体軸は受けの体軸に結んだ後、体の変更で後方へ離れることとなる。その際、受けの手と共に丹田に結んでいる陰の陽の手は、即座に陽の陽の魂氣で前方へ伸展する。
入身転換により受けの体軸が取りの背に着く間もなく、陽の魄氣の半身で取りの背が開き、受けは取りに従った片方の上肢と胸と共に体軸が前方に向かう。取りの体軸が後方に退くことと相まって受けは前方に放たれる。
初動で取りに差し出した手は取りの丹田に一旦結び、取りの陽の魂氣と共に前方に伸展し、同側の足は軸足となり後方の足を体軸と共に一歩前に置き換えて半身の転換と伴に向き直り、結果互いに半身は同じで体の向きの変更が行われる。
片手取り・入身転換/後ろ回転/隅落とし裏にみる魄氣(体軸)の結び
魄氣の三要素として私は、陰陽、入身、転換・回転を挙げている。そこには、魂氣の三要素には含まれる結びが見られない。そこで、三要素に入りきれない魄氣の結びについて考察する。
まず、魂氣も魄氣も単独動作の中にこそ最小の単純要素が存在し得る。魂氣の結びとは丹田に上肢が着き、母指先や他の指の付け根から魂氣が注がれ、中心軸にひびくような想いで躯幹から側頸の間に魂氣が巡り、上肢と体軸が繋がる姿勢をとって動作することとして理解できる。
一方、魄氣が結ぶという動作や形は単独動作においては存立せず、互いの足、腰、体軸が接近することとして成り立つものである。つまり魄氣の結びとは相対動作においてこそ成り立つ概念である。
それで、表題の相対基本動作片手取り入身転換と片手取り後ろ回転、および基本技としての片手取り隅落とし裏を取り上げて、魄氣の結びという語句と氣の想い、そして動作の三位一体から合氣を認識して行く。
片手取り入り身転換では取りの体軸が受けのそれに接しており、取りの背は受けの異名側の胸に着いている。魄氣は軸足を経て腰と体軸に直結し、受けの体軸との間で魄氣が結んでいると理解する。
ちなみに、体の変更とは、入身転換から前の足を後ろに置き換えて、魂氣は受けの上肢と共に丹田から前方へ陽で発し、このとき魄氣も陽として体軸が後退することにより(前進ではない)魄氣の結びが解けて、受けの体軸が前方に放たれることである。それは左右半身を通して連続的に入り身転換を稽古する方法であって、技を作る基本動作としての意義を持つものではないことを確認しておかねばならない。
片手取り後ろ回転では、入身転換による前足が後へ置き換えられ、体軸の後ろへの移動に続く両足の踏み替えで軸足側の腰の厚みだけ取りの体軸が受けの体軸の周りを後方へ巡る。取らせた魂氣は終始丹田に結び、対側は置き換えの際に陰の陽で腰に巡り、踏み替えでは陽の陽で発している
片手取り隅落とし裏では、入り身転換から後方に足を置き換えて軸足として、丹田の魂氣の外巡りと共に逆半身外入り身して相半身外入り身(一教運動表の魄氣)で隅落とし。
このように、取りの体軸が受けの体軸の周りを巡る動作は魄氣の結びと表現する。つまり、互いの軸の一体化を成すことで、取りの終末動作において受けの体軸の分断と、取りの魂氣を巡らすことによる最良の上肢の動作が確保できる。それに引き続き取りの魂氣が受けの魄氣へ結ぶことで技が生まれ、最終的に取りの魂氣と魄氣が自身の丹田を中心とする躯幹に結んで残心となり、左右自然体で静止する。
2014/7/30
単独基本動作横面打ち入身運動で額から丹田に魂氣が降りるとき(画像①)、広義の陰の魂氣が陰のまま体軸を降りる想いで、脇を閉じる。狭義の陽で小指から丹田に結んでいくと、小手返しの手で掌を包んだ指は下腹壁に着いて胸の上端を指している(画像②)。相対基本動作片手取り外巡りから回内して(画像③)横面打ち外入り身転換で(画像④)丹田に陰の陽で巡った魂氣が(画像⑤)更に地に結ぶと、受けの魂氣が同時に結べば前受け身となる(画像⑥)。すなわち。呼吸投げである。
一方、諸手取り外転換呼吸投げにおける呼吸法の動作に着目する。上肢を畳んで降氣の形から(画像⑦)手首を陰の陰で回外し(画像⑧)(単独基本動作の画像⑧’)、側頸から前方に向けた母指をその高さから地に向けて肘関節が伸展すると(単独基本動作の画像⑨)、同側の膝を地につけることで母指先は地に着き、掌と他の指先は背側を向きその方向に地を掃くように上肢を背側に振りつつ正立すれば、魂氣は体側に巡って自然本体の上肢の結びで残心となる。
これらは氣の想いからすれば、魂氣の降りる動作である。上肢を打ち降ろす、あるいは振り下ろす動作ではない。振り降りる動作である。
次に、それらの動作について異同を考察する。
振り下ろすときは筋力を意識的に使うほどに、それを止める動作のために他の筋肉を同時に活動させる必要がある。手刀を作る動きも、打ち当てる一方で、筋緊張により腕を止める働きに終わる。
また、振り降りるという表現に脱力と云う言葉を用いない理由は、こうである。肘の屈伸や肩の上げ下ろしに際し、ただ力を抜けば母指から陰陽の巡りが失われ、いわゆる死んだ手になる。自然に垂れ下がった上肢は指先までが屈曲でも伸展でもなく停止する。呼吸と共に絶え間ない動きで自身に帰り着くという魂氣の想いも動作も欠落する。
ここで云う振り降りる動作は縦の巡りであり、両手で氣の巡りを行う際の体側から上段に発して陰の陰で丹田に降りる動作とは別である。いずれにしても呼吸法の魂氣の巡りは鳥船の魂氣そのものに帰り着くのであって、伸展と屈曲、弛緩と緊張が肩から指先までの間で同時にそして相互に働き合うのである。
振り下ろすと共に手刀を作る動作や、手指の垂れ下がりによって緊張を解く動作は、いずれにしても魂氣を陰の陽で丹田に結ぶ要素を伴っていない。降りて留まらずに昇氣や外巡りで再び発して受けに響いてはまた巡って来る、すなわち魂氣の三要素こそ動作されなければ本義ではない。
両極端と考えられる、手刀と垂れ下がった手指は、いずれも滞った魂氣であり、鳥船や単独呼吸法にそれらを見出すことはできない。
胸取り呼吸法での上肢の巡り(⑩⑪⑫)や、同じく胸取り二教、突き小手返しや三教など受けの母指球/小指球を包む動作は、降ろして止まる手や垂れ下がって止まる手ではなし得ない。
2014/8/10
ー 剣道、居合道の呼吸相との比較 ー
合氣道の稽古を始めたばかりであれば、動作の滞るにつれて筋力への依存が高まり、息むうちに固まって吸気への復帰ができないため、その筋力も維持できないという悪循環を経験する。これを断ち切るためとして、筋力に頼ることを避けて、息は止めないことと指導されることも多い。しかし相対動作が受けの関わりで中断する限り、常識的には筋力に頼るあまり呼吸の一時的な停止へと反応するより他はない。ただし、力を競うことの限界はその場で明らかとなり、術技を示されることによって合気道的なものを習熟する気持ちは高まるものである。
魂氣を想いつつ呼吸を維持することは則ち最善の動作を成して技を生むことに繋がり、また最善の動作が最良の呼吸を導くのである。氣の想いに裏付けられた動作と特徴的な呼吸法が合氣道の両輪を成すと言っても過言ではない。
一呼吸には吸気相と呼気相があり、その境界には限りなく0に近い止息が想定される。つまり呼吸相の大小長短を様々に行うなかで、特に小さく長い吸気や呼気を意識する一方で、止息を含めない呼吸を心がけるものとして来た。さらに、合氣道での呼吸法を私は呼吸と共に氣結びをなすことと定義して来た。したがって呼吸力については、鍛錬された筋力とは異なった概念で理解を試みて来たのである。則ち、氣結びを成した結果、取り自身が受けと共に移動した仕事量を呼吸力によるものとし、呼吸力の鍛錬とは氣結びを成すことに向けられるものとした。
禊や単独呼吸法、あるいは単独/相対基本動作それぞれにおける呼吸相は、技の動作中に受けた多くの助言が蓄積されるうちに学んだものである。禊において上肢を緊張伸展するのが吸気相、弛緩屈曲するのが呼気相であることから、受けとの接点で呼気相から吸気相に、あるいはその逆の呼吸相で上肢が受けに拳ひとつ以上中に入ることができる。これを結びとする。場合によっては取りの姿の大部分が受けの内外に入って結ぶ動作もあり、いわゆる入り身であり、入り身転換である。
天から受ける魂氣を丹田に結び、地から受ける魄氣と共に体軸を確立して、正立正座の中で魂氣が巡り受けに及んで一体となる後に、再び取りの正立が叶うことは合氣道の技における核心であろう。そうすると、この間の呼吸相は一呼吸であるか、一呼吸半であるか、または二呼吸であるのか。それぞれが、様々に大小(深浅)/長短(遅速)の変化を伴い、相対呼吸法や各種技において魂氣・魄氣の三要素を手足腰目付けの動作へと裏打ちしていく本態であろう。
以上より、技の初動から残心までの呼吸相が一呼吸から二呼吸に及ぶなかで、魂氣の想いに相応する上肢と魄氣に象徴される足腰の各動作に、途切れることは考えられないわけである。
単独呼吸法では上肢を広げて吸気により魂氣を受ける想いとし、呼気によって上肢を畳んで側頸に巡り丹田に降りて結ぶ動作で魂氣を体軸に受け入れたと想うことにする。禊では拍手によって魂氣を体内に取り入れたと想う。想いのない動作は空虚である。
相対基本動作においては、魂氣を与える動作は広義の陽として吸気で、丹田に巡る動作は陰として呼気で行う。額に振りかぶり、振り降りる横面打ち入り身運動の上肢の動作も吸気・呼気で行う。与えて丹田に結び入り身転換の上体は吸気から呼気である。技では呼気のまま止まらず昇氣で側頸に結び、ここから吸気で陽の魂氣を発する想いで上肢を受けの側頸に沿わせて伸展し、その撓側から受けの体軸に氣の及ぼす想いで残心として体軸も寄せる。上肢は呼気で取りの体側に巡って自然体となるから、受けは取りの背側を螺旋で滑り落ちる。
呼吸相が一呼吸から二呼吸と連なる中で魂氣は陰陽・巡り・結びの三要素が上肢において切れ目無く動作されるのである。
剣では振りかぶりを陰の魄氣で呼気相とし、吸気と共に魂氣を発する想いで正面を打つ。魄氣は陽で踏み込むと同時に送り足で軸が移り、魂氣は剣先と共に受けに放たれる。直後に呼気相で柄頭は丹田に巡り魄氣は陰となって残心である。
杖では中心から吸気で杖先へ扱いてゆくうちに魄氣の陽で半歩踏み出し直後に呼気で送り足と共に杖尻を押し出すと魂氣は杖先に移り突きが成り立つ。呼気のまま杖尻の手は丹田に巡り魄氣の陰で残心となる。あるいは額に巡って上段返しに構える。
『居合道に於ける呼吸相』―前、八重垣、抜き打ち―(堀山健治他)武道学研究12-1(1980) p27-p29 によれば、「剣道の打撃動作は吸気相で」「居合道の切り降ろしの動作は止息から呼気の相、呼気相、止息で行われている」とある。
我々が日頃行う武器の操法と徒手の動作における呼吸法の裏付けは、剣道、居合道における打撃と切り下しの科学的測定から得られた結果からみて、いささかも矛盾しないことがわかる。
2014/8/12
入り身とは単独動作に限って説明すれば、足腰一側ずつの前方への置き換えであり、踏み込みとか、間合いによっては飛び込みとも表現される。必ず他側の送り足を伴い、徒手では左右の足が一つになって残心となる。単に軸足の踵に他側の足の内側中央部を継ぐだけではなく、軸足の内側真中に送り足の踵を進めると、入り身の前後で半身を換えて左右の足が一つになる。一教運動表の魄氣の動作である
入り身運動でのはじめの置き換えは鳥船の陽の魄氣である。それだけなら吸気相に限定されるはずであるが、上肢の様々な動作を裏打ちする魂氣の巡り、つまり呼吸法によっては、呼気相の場合もあるという例を示す。とは言え、基本の一つであるから今更感のある内容となりそうであるが、相対基本動作の典型をあげる。一呼吸半の呼吸法、所謂片手取り入身転換呼吸法である。
これは魂氣の呼吸法に従って、魄氣が呼気で陽の場合と、吸気で陽の場合の組み合わせである。呼吸の原則は呼気相で魂氣が陰で丹田に巡り、吸気相では陽で体軸から発せられる。
今、左半身で陰の魄氣から左手で陰の陽の魂氣を与える。これは吸気相であり受けが右手で取ろうとしている間にたちまち呼気で丹田に巡る。つまり左手を取らせ、次に掌を開き魂氣を本当に与えてしまっては、魂氣の陰と陽が動作に表されただけで終わってしまう。実際は与えずに陰の陽のまま巡るのである。その呼気相で同側の左足腰は入身として魄氣の陽で受けの右足下の背側に踏み込む。このとき左足先を受けの真中に向けて軸足とすれば、目付の反転とともに陰の魄氣で右足腰をも転じることができる。左半身入り身転換により、今や受けの右手は取りの左手を取りの丹田において取ってはいるが、接点より近位において体軸も含めて取りの体軸に接しており、受けの魂氣と魄氣はいずれも取りに結んでいると表現できるであろう。
取りの左手は陰の陽で丹田に結んだから掌は母指を除くすべての指で包まれているが、同時にそれらは腹壁上を天に向いており、そのまま呼気相で魂氣を左側頸へ上らせる。すなわち魂氣を丹田に留め呼吸を止めることなく、一気に魂氣を左側頸に結ぶのである。この呼気相の動作を昇氣と表現している。
次に右足を内股に踏み替えて軸としながら、後ろの左足もその場で足先を後方へ踏み替えて反復入り身転換と同時に、吸気で一気に魂氣を側頸から陽の陽とする。これは吸気相の入り身である。
片手取り入り身転換呼吸法(裏)は呼気相で魂氣が陰のときの入り身と、吸気相で魂氣が陽のときの入り身が連なった技である。
2014/8/26
受けの正面打ちや突きに至る共通の初動に対する、取りの横面打ち転換/入り身転換を呼吸相で眺める。
氣を意味する動作と呼吸相
合気道にも呼吸法と呼ばれる動作が伝えられている。坐技単独呼吸法が中心となり、まず魂氣、つまり上肢の動作が呼吸相に対応してどのようになされるべきか、を禊のすぐ後に稽古するわけである。吸気相では上肢を伸展し、呼気相では弛緩して体軸に巡る。
次に単独基本動作として、呼吸法に加えて立ち技で足腰の動作、つまり魄氣の要素を表すことでより自由な全身動作へと展開する基本を稽古する。まず、武器を用いて素振りを行う形がある。また、武器に替わって徒手が魂氣を巡らせば、呼吸と共に手首と母指を中心とする指の屈伸で魄氣に結ぶことで、体軸には普遍的な動作が保持される。
横面打ち入り身運動と呼吸相
取りが行う横面打ちは吸気で振りかぶり呼気で振り降りる動作となる。受けの正面打ちにみられるような打撃を目的として吸気のまま陽で当てるわけではない。また、手刀を振り下ろして実際に切るわけでもなく、取りの丹田に陰の陽で結ぶことにより残心で終わるか、昇氣や外巡りから広義の陽で再び発することになる。つまり、横面打ちは吸気相で振りかぶり、呼気相で振り降りて丹田に結ぶ動作となり、そのとき足腰では魄氣の陽に送り足が伴うと入り身運動即残心である。
入り身転換と呼吸相
横面打ちで踏み込んだ足が軸となって、目付けが転換すれば呼気により腰の転換で陰の魄氣となり、腰の後ろの手は陽の陽で差し出し、同側の足先を後方に置き換えて揃える。これが入り身転換であり陽の魂氣と同側の足先は今や前方を向き、対側の足は陰の魄氣の軸足で手は丹田に陰の陽で結んでいる。
後手では同側の足が踏み込めず、吸気で外に置き換えて(自然本体からであれば同側の足をその場で)軸とし、目付けは直角に転換する。間髪入れず呼気相で対側の足先を引き寄せて陰の魄氣とする。このとき魂氣は陰の陽で丹田に振り降りている。入り身を伴わない転換のみの動作であるから、陰の魄氣の前方の足を軸として受けの体側で入り身を行えば狭義の呼吸法であり、前方の足を後方に置き換えて軸とすれば後ろ回転で小手返しの体軸が確立する。
残心を除けば結びに止息なし
相対動作では、後手や同時の突き、正面打ち、胸取りなどで、取りの横面打ち入り身・転換によって額から振り降りた魂氣が多くの場合受けの手に当たることとなる。振り降りた陰の陽で当たればその点が丹田であるかどうかによらずそのまま呼気で巡って反転する。丹田であれば陰の陽で結ぶと受けの手を包む動作となり、相半身か逆半身かによって受けの小指球か、母指球かに分かれる。つまり拳や手刀を全て包み込むことはできない。
また、受けの手を包み丹田に結んだまま静止することはできない。なぜなら静止は残心であり技の完了であるからだ。従って、丹田に結んだ取りの魂氣は呼吸法に則り、即座に降氣の形から陽の陽、あるいは昇氣へと巡ることになる。呼吸法“両手で氣の巡り”にて丹田に結んだ陰の陽の魂氣が陽の陽で発せられる動作も、魂氣三要素の連なりに裏打ちされており、技の完遂までは止息で静止することはない。
2014/8/30
自然体で立ち、陰の陰の魂氣をゆっくりと呼気相で丹田に巡らせ、あるときは印を結んで一気に丹田へ降ろすと、一瞬の静止が止息と共に訪れる。
丹田に結んだ魂氣を上下に合わせた両掌に包み、両母指先の反りに合わせて徐々に円を広げて巡らせていく動作が呼吸と共に始まり、力の及ぶところに至れば再び魂氣は丹田に近付く巡りへと戻って行く。このように、その場で魂氣の三要素を動作し、魄氣は地を踏む両足底を通すか正座で腰に留め動作を伴わないのが単独呼吸法であり、禊のひとつである。
それに対して、魄氣の動作も加わり体軸が移動する禊は鳥船(船漕ぎ運動)である。魄氣の陰陽で体軸が軸足から前方へ揺れ動き両足の間に進んでは後方の軸足に戻る。その意味では体軸が任意に移動するものではない。
体が前方に移動する際は、軸足の交代と共に対側の足腰が前方へと交互に進む。さらに、後ろへ退き、あるいは真横に進み、そこで軸足を固定すれば他側の足腰と恊働して転換や回転が可能である。原則として軸足側の上肢は丹田や腰の後ろやあるいは膝に置いて体軸の直立に預かり、他側の手足は自在に六方を巡らすことができる。
その場で上肢による禊の動作の繰り返すことを基本とし、次に軸足の交代に伴う体軸の移動を基本の動作とする。これは魂氣と魄氣のそれぞれ三要素を呼吸相で動作に表わすことである。これら単独動作に引き続き相対動作へと進める。
先手か、同時または後手かで三通りの魂氣と魄氣の動作が初動として始まれば、上肢は単独呼吸法、足腰は単独基本動作が為され、1〜2回の呼吸の後、終末の呼気相で入身運動の残心によって技が完遂して静止する。それぞれの状況に各手順がある訳ではなく、多くて二呼吸の間に呼吸法と基本動作で魂氣と魄氣のそれぞれ三要素が為されると、相対動作が現れるのである。それらは呼吸相を通じて連なり、その一連の動作を振り返ったとき技の中に順序が見出されるのである。
各技の概念としては手順というものがあっても、動作そのものの中に順序があるわけではない。呼吸相にあって氣の要素を想うことに動きが伴い連なるのである。
2014/9/5
相対動作に互いの結びは不可欠であるが、それにも増して単独動作上、自身の結びこそ肝要である。
はじめに
自然体で両上肢を体側に結んでいる。今、一側の手関節を伸展したまま、前腕と手も垂らしたままから、その肘を直角に曲げながら脇を直角に開いていくと、手は上腕の長さだけ体側から離れる。上腕を水平で支えていることに加え前腕と手を垂らしていることで、肩には筋緊張がはっきりと自覚できる。そこで、上腕を水平にしたまま、前腕から手の先までを天に向けると、肩が受ける負担は筋緊張の明らかな軽減として自覚できるはずである。肘から遠位を天に指し上げた方が、垂らすよりも、肩の負担は少ないと感じるのである。
諸手取り魂氣の結び
しかし前腕と手は体軸から離れており、この手首を受けに諸手で取らせておれば接点で魂氣を結ぶことにより、その両腕は縦に並んでいるとは言え、取りの体軸に動きの加わる時(転換、踏み替えて反復転換あるいは回転)、肩と肘に及ぶ負担はそれなりに大きいものである。つまり、取りの体軸から隔たった分、肩には少なくとも上腕の分と肘から先の手関節に連なる受け全体が負荷としてのしかかる。しかも取りの体軸則ち魄氣による支えが、上肢則ち魂氣と筋違いになり、肩へ懸かる負担は静止時とは比較にならない大きさとなる。即座に肩の緊張が高まり、肘、手首、指先へと波及し、反対方向へは呼吸筋の緊張と足腰の居つきへと影響していく。
単独動作
元来単独動作においては上肢と体軸と足腰が一本の中心線上に並ぶときこそ最も安定し、その足腰を軸として対側の足腰で次の軸足を作りそれに体軸が乗って後ろの足を引き戻す。これこそが転換/入り身転換/入り身と送り足である。
重心の完全な移動が妨げられる状態は大きく分けて二つあろう。一つは、軸足の対側が地に着いた後に踏み込むことができず(上体に受ける抵抗などで)、確実な軸足の移動交代へと連ならない場合である。あと一つは、前後の足が同時に地を踏んだまま、その間に重心が漂うときであり、つまり、送り足ができないときである。
相対動作における単独動作
これらは、ことごとく上肢を中心に受ける抵抗が処理不能となった為である。従って、魂氣の結びによって受けの存在をその接点も含めて自己の体軸に納めた場合にそれは解決する。すなわち、相対動作に於いて受けと結んだ取り自身の魂氣と魄氣が結ぶことであり、客観としての受けによる抵抗は、その接点において自己に含められた主観へと変じる。物理的には、受けの軸足が地に着いて、その魂氣が取りに及ぶ体勢を一瞬破綻させることである。受けの魄氣が地と踵の間で接触を断たれ、丹田で魄氣に結ぶこと無き受けの魂氣は両上肢をもって取りの手首に有効な制圧を加えることができない。取りの手首における接点で受けの体軸は取りの魄氣を外転換によって受け、むしろかろうじて取りに支えられていることになる。互いの魂氣の結びが取りの魄氣と受けの魂氣の結びへと及び(後述する側頸への結びである)、すぐさま互いの魂氣の結びが受けの魄氣にも受け自身の側頸を通じて及び、転換、入り身・転換、回転へと取りの足腰の動作は自在に魄氣を働かせることができて行く。つまり呼吸相における動作の連なりである。
上肢全体で魂氣を想う
相対動作においては、受けに結んでその正立を破綻させ、取りの一側の上肢・体軸・一側の足腰の連なりが単独動作を可能とするものである。前腕から遠位の手が上腕の長さだけ体軸(実際は体側)から離れて天を指し、そこで受けの諸手に結んでいても、上肢と自身の体軸と足腰が一線上に並び回転軸を作っていなければ対側の足腰への軸足移動が滞り、以後魄氣に根ざした上肢の伸展による魂氣の発露がなし得ないこととなる。
前腕と、伸展した手首を一直線にして天に向け、受けの諸手を縦に並べて取りの肘が直角、脇も直角に開いた状態では取りの体軸と上肢が一直線をなし得ない。そこで脇を閉じ、それにつれて肘も閉まるなら前腕は体側に密着し、体軸に限りなく連なったことになる。そこで手首と指が屈曲し掌が閉じ、母指先だけが伸展のまま側頸に向けば、さらに魂氣は自身の体軸へと限りなく連なる。そのとき魂氣は陰の陽である。
母指先で魂氣を想う
そこから実際に母指先が側頸に接すると、それは脇が再び開くことになる。意識は肘の先にあるのではなく、側頸に結んだ魂氣・母指先にあり、足腰・体軸・魂氣の一体感つまり魂氣と魄氣の結びを為した姿勢にこそある。魂氣は側頸・耳の下での母指先の伸展と脇の開きが相まって広義の陽への兆しがあるものの、同側の足腰が軸であることから魄氣は陰である。
魄氣の三要素と魂氣の発露
この一瞬は呼気相の後半であり、さらに終末は、入身転換であれば前の足先を内股にして踏み締め軸足を交代する、入身転換の反復でありいわゆる裏に相当する。外転換であれば前の足をそのままで踏み締めた瞬間が呼気相の終末であり吸気の始まりである。いわゆる表に相当する。
ここまでが魂氣の発露寸前に至るものであり、開祖の仰られる“発兆”に相当する真の瞬間ではあるまいか。一気に吸気相へと発し、肘の伸展を伴う母指先からの陽の魂氣は、掌をも完全に開き狭義の陽として、前腕の橈側は受けの側頸に密着してその体軸へと響いていく。
再び単独動作を意識して呼気終末の残心
同側の足先は魄氣の陽で入身運動を為し、すぐさま再び軸となって送り足とともに二足が一本の軸足となって残心の成立である。このとき魂氣は母指先の反りに合わせて上肢の伸展のまま自身の体側に巡り、脇は閉じて上肢全体が体軸に結ぶ。魂氣と魄氣は体軸で結んだと想うのである。受けは取りの背側を螺旋に落ちている。対側の手は外転換・入身のいわゆる表では常に陰の陽で腰の後ろに結んでいる。入身転換・反復のいわゆる裏では、単独基本動作入身転換のまま軸足の反対側の魂氣は陽の陽であり上肢を指先まで伸展し、軸足の交代に合わせて陰の陽で腰の後ろに結ぶ。
まとめ
上肢が伸びて脇を開いて魂氣を陰の陰で額に結んだとき、上肢を畳んで母指先が側頸に向かうとき、そこから肘が閉じたまま脇を開けて母指先が側頸に着いて結ぶとき、上肢がのびて脇は閉じて陰の陽あるいは陰の陰で丹田に結ぶとき、いずれも掌に氣の玉を包むように広義の陰で体軸上に母指先か他指を密着して、魂氣が魄氣に結ぶ想いの中を呼気相で動作する。
上肢と体軸、軸足は地から垂直に直立した一線上にあって、魂氣と魄氣が丹田に結んで一本の回転軸をつくる想いが動作の基本であり、静止の本体でもある。
2014/9/9
ー 入身投げと呼吸法について
入身投げでは互いの体軸が取りの胸と受けの背で接するのに対して、呼吸法では取りの背が受けの胸に接する。
入り身投げでは、取りの“両手で氣の巡り”のうち、陽の陰が陰の陽に巡って受けの同名側の頸部に結ぶ。胸鎖乳突筋の前縁に掌を包む四指が嵌り、母指は伸展したまま受けの項に当てて包み込む動作である。そこで、対側の上肢を陽の陰に巡って前腕撓側が側頸にある四指の背部に合わさると、両手から魂氣が受けの側頸(前頸三角)を経て体軸をひびき、丹田を通り、底を抜くことで受けは落ちる。
呼吸法の魂氣については、取りの背が受けの胸に接するとき、昇氣から陰の陽で自身の側頸に結んでから陽の陽で発すると、伸展した取りの橈側が受けの側頸(後頸三角)に接する。後頸三角を経て体軸をひびき、丹田を通り、底を抜くことで受けは落ちる。昇氣は単独呼吸法で稽古する通り、脇と肘の開閉が特徴的である。脇を開き肘を完全に閉じたときの肘頭は、受けの胸部で正中上端に接する。そこで上肢が陽で伸びると受けは取りの背側に位置する。入身投げでは取りの腹側を通って後方に落ちる。
入身投げと呼吸法を比較すると、相対動作は対照的な位置関係を表すが、間合いはいずれも入身の漆膠の身であり共通している。残心は、前者が入身運動の陰の陰、後者は両手で呼吸法における広義の陰の結びである。
2014/9/17
受けの正面打ちや突きに対して、相対的な剣線を外すことが入り身や転換ではない。
例えば、受けの初動に対して取りが単独動作の横面打ちで振りかぶり、額に結んだ自身の上肢に対して体軸を外に(自身の背側に)外す。
また、突きの受け流しでは自然本体で目付けを外に外しその方向側の足を軸とし、対側の足先、腰、肩、上肢を軸足側に置き換える。上肢は降氣の形で畳み、止まらず回外すると相半身陰の魄氣であり、陽の陰で発すれば相半身外入り身。
受けの魂氣が上肢や下肢の伸展と共に取りの方に向かうとき、その道筋を辿って尚かつそれを外すことは不可能であり、また、受けの初動に対してその軌跡を予想して外すことも不可能である。初動に対しては取りが入り身または転換で自身を捌くことしかできない。入り身は受けに擦れ違って入り、外して結ぶ。転換は外してから入身と同時に結ぶ。この際、結ぶとは受けの体軸に魂氣を与え、ひびかせることである。
2014/9/22
坐技で魂氣を与えて片手取りに来れば呼気で陰の陽のまま腋を閉め肘を畳んで降氣の形にすれば母指先は外方に向いて反る。その方向に魂氣を陽で発するとまず肘が開く、その後脇が開いて魂氣は陽の陽で受けの接点より中に入る。
氣結びにより受けは体軸の外に魂氣が動き、なおも力の及ぶ所から外方に移動することで体軸は倒れる。ここで受けの手が取りの手首から解けかかったとき、取りは呼気で陰の陽に巡って丹田に結び受けの手首を真中で取り返す。目付けを転換して対側の手で受けの手首を四方投げの持ち方にて取ると、始めに与えた魂氣は今や丹田にあって陰の陽であるからそのまま昇氣で同側の開いた側頸にまで上がり、このとき脇は直角に開き肘は閉じて行き、手を陰の陽で側頸に結ぶ。そこから一気に吸気相で母指先から魂氣を発する気持ちで肘を全開する。
魂氣を与えて降氣・昇氣の呼吸法である。
2014/9/28
まず、禊で丹田に納めた魂氣を手に包む動作がある(画像①、①’)。
それを丹田の位置で前方に与えていくと脇と肘が開いて吸気とともに上肢は陰の陽で緊張伸展していくが、手掌の魂氣を包む指を通して丹田に戻す思いにより、吸気相の終末では手首が最大限屈曲して差し出される(画像②、②’)。一方で、丹田から発する魂氣はことごとく指先から丹田に巡るから、呼気相への移行とともに上肢は脇を閉じて弛緩屈曲して陰の陰で丹田に結ぶ(画像③、③’)。
入り身や、入り身転換(画像①②③④)では、呼気相において丹田に巡る魂氣とは逆に同側の足腰が、閉じた脇の外側で受けの前方の足よりも内側に入る(画像③、③’)。
禊では陰の魄氣で魂氣を全て丹田に納めるとき左右の肩甲骨が接する程胸が張り、呼気は腹式呼吸で腹を緊張陥凹させる。自ずと上体の軸は直立し後ろの軸足に連なる(画像⑤)。
陽の魄氣で魂氣を両腕の伸展によって吸気で前に差し出すとき、肩幅に開いた両腕の間に胸を開くことができない。剣で打ち杖で突く瞬間も同じである。既に陰の魄氣の呼気相で胸を張っていたことから、両腕を閉めて吸気相に入る瞬間は腹を膨らせていわゆる腹式呼吸とならざるを得ない。そのことからも吸気で腹部が凹まないことにより上体の軸は直立したまま前方に移動する(画像⑥)。
呼吸の度に胸が拡張したり縮小したりでは体軸がいちいち前屈し、目付が水平に一定されない。呼吸法の核心は、呼吸に伴い魂氣の陰陽を想う上肢の動作であったが、呼吸そのものは腹式であるべき理由がここにある。
2014/10/10
弛緩屈曲と緊張伸展とは、上肢の屈伸という機能において互いに拮抗筋である伸筋を弛緩して屈曲、あるいは伸筋を緊張させて伸展させるという意味である。
つまり屈筋を緊張して屈曲、屈筋を弛緩させて伸展ということではないという意味で、実際はそういうわけにいかないが、想いとしては屈筋優位にならないように意識する動作である。
屈筋を思って上肢の動作を行えば、屈曲の場合は緊張が胸部の収縮に波及し、呼気相での前屈の傾向が生まれて体軸の前方変位へとつながる。軸足の確立がなされず、入身や回転への移行が滞ることになる。弛緩の場合の上肢伸展では伸筋の緊張を忘れることで脊柱の起立が強調されず、軸足の交代や残心に伴う体軸の維持が曖昧になり、結果上肢の十分な伸展が望めなくなる。
屈曲では、伸筋の弛緩と腹部の緊張収縮によって呼気でも胸部の拡張を保ち、体軸の直立を保つ。伸展では、伸筋の緊張を優位に意識することで背中の緊張により腹部が弛緩し、両上肢の伸展で胸部が挟まれて拡張できない場合も(剣杖の打突、一教と四教の固めなど)、十分な吸気が腹式呼吸でなされる。
屈曲伸展のいずれの呼吸相でも体軸の直立と軸足移動の確立が可能となり、魂氣と魄氣のそれぞれの三要素が呼吸とともに十分動作することができるわけである。
2014/10/19
陰の陽で魂氣を与える動作は、他側の魂氣が腰に結び背部は緊張伸展するものの、一側の上肢を側方ではなく前方に進めることから、胸郭は静止したままであるため腹部の拡張による腹式吸気のもとで行われる。
上段に与えて受けの手刀に当たれば魂氣を陽の陽に発し、母指先の反りの方向へ上肢を伸展するため胸郭を一気に開く胸式吸気となり氣結びが為される。魄氣は陽で相半身内入り身を伴えば胸腹式吸気は最大限となる。
しかし、一教運動や入り身投げでは“両手で氣の巡り”による呼吸法が行われ、それぞれの上肢が前方で陰陽を動作することから、胸郭を拡張する吸気までは伴わない。
一方、下段に与えて受けが取ろうとするとき、陰の陽のまま丹田に巡ると腹式吸気から呼気に転じ、その間、同側の足腰は入り身・転換または外転換の動作をする。
片手取り呼吸法では、丹田に巡った陰の陽の魂氣は腹式呼気の間一気に側頸へ昇氣で結ぶ。そして、魄氣が入り身・転換なら前方の足を内股で踏み替えて、外転換ならその場で踏み、いずれも軸足の交代によって母指先の反りの方向へ入り身・送り足とするから、魄氣の陽を動作して腹式吸気が行われる。魂氣は側頸から陽の陽で一気に発するから胸郭は目一杯開き、ここで胸腹式吸気となる。
残心では魄氣が送り足によって両足を一本とする軸足を為し、体軸が連なり直立するわけである。魂氣がいずれも腰と体側に結んでおり、胸郭の虚脱は起こりえない。正に腹式呼気で左/右自然体の静止に至る。
意識的動作があってこその無意識的動作である。
2014/10/24
魂氣を母指先から手掌全体で発し、それを上肢の屈側に受けて丹田に結ぶ点も指先である。丹田は真後ろの腰とともに中心軸上の一点である重心に連なる。
そのように想うと、広義の陽では、緊張伸展した最長の上肢端である指先へ丹田から気流が生まれ、陰では丹田に巡る結びの動作が弛緩屈曲した手掌から指先に亘って為される。吸気で開いた脇が、呼気と共に魂氣の重さにまかせて閉じると、魂氣を包む手首の弛緩屈曲により指先が丹田に巡る動作となるはずだ。
広義の陰で魂氣が丹田に全て結んだ際、脇が一気に閉じるので胸は陥凹しない。腹式呼気による腹部屈筋の緊張収縮と、上肢と丹田の結びに連動する脊柱起立筋や背筋の緊張が体軸を直立させ、それが陰の魄氣の軸足に直結する。合気道の核心である禊における陰の魄氣がここに成立する。
ところが、脇の閉鎖が曖昧であれば上肢の屈筋は肩と肘で緊張した屈曲をなし、その部分で上肢の先端へ流れる魂氣は途絶えることとなる。すなわち、手掌も指先も、丹田への結びを示せない形となってしまう。
末梢と中枢の相関、つまり両極端への巡りの動作こそ魂氣と魄氣それぞれの丹田での結び、すなわち合氣である。目に見えない中心が指先に現れ、地を踏む軸足と対側の足先には丹田から直立する体軸が現れる。気の流れと言う言葉と想いが動作を生む。
言葉と想いの現れこそが動作である。言葉と想いに曖昧さがあれば末梢と中枢の相関は妨げられる。それは両極端への巡りを閉ざすことである。
2014/10/28
「打つ」とは、勢いよく当てること。打ち倒す、打ちのめす、打ち拉ぐ、打ち負かす、などの語彙がある。
「突く」は、一点をめがけて先端を強く当てる、また、貫くこと。突き当てる、突き刺す、突き倒す、突き飛ばす、突き放す、など。
「取る」は、手に持つ、掴む、指をまげて強く保持することである。捕らえる、という意味もある。合氣道における受けに対する取りはそこから派生したものであろう。
「結ぶ」は、二つ以上のものをつなぐ、離れているものをつなぎとめること。産す、生成する、まとまった形のあるものにする、の意。(いずれも広辞苑)。
しかし、合気道で言われる「結び」は、その「言葉(の意味)」に加えて氣についての「想い」があり、さらには、それに相当する「動作」の三位一体で理解しなければならない。それこそが合気道の核心である。
打突はいずれも当てることであり、取るとは手に取ってわが物とする意味である。それらに比較して、結ぶことの真意は、相対的な動作の前に自身にとっても、魂氣と魄氣が一つにななる特有の動作で自己確立することにある。対峙する存在に対しては、互いに当たる点からその内側に魂氣も魄氣も入り、自己を主体として他と一体をなす動作に相当する。
従って、魂氣と魄氣のそれぞれ三要素を示す動作が広義の結びそのものと言える。また、上肢について言えば、魂氣における陰陽、巡り、結びの三要素が一連の動作を表わすとき、互いの手や、手と側頸もしくは体軸との間に生まれる位置関係そのものが狭義の結びである。単に接していることや触れた状態に留まるものではない。つまり、言葉(の意味)が曖昧であったり、想いの偏った動作では、結びたり得ない。三位一体であることはとりもなおさず普遍性をもつことに通じている。
2014/11/13
単独動作の回転では、陰の魄氣で軸足の対側である前方の足先を直角に外/内方へ向けて置き、踏み込んで回転の軸足とする。その膝に同側の手を置き、手足膝腰を体軸として重心を掛ける。
回転させる対側の手足は後ろから一回転し、腰肩は180度転換するが、先導するのは目付である。始めは軸足先の方向に合わせて90度、次は回転に先立って90度、最後に一回転した足を軸として(同側の手を膝におく)初めの軸足を270度その場で回転させる時180度と、合わせて目付は一回転する。今や後ろの足は初めの陰の魄氣の軸足であり、目付が一回転して前方に向いた後、前の足を一瞬軸として内回りに90度踏み換えると陰の魄氣の軸足に戻る。何れにしても目付が先導していることになる。
相対動作を後ろ両手取り(両肩取り)呼吸法の回転に着目する。後ろ両手取りの受けとの氣結びは陰の魄氣であり、魂氣は取らせた手を降氣の形から陰の陰で額(天)に結び、対側の手は腰に結んでいたものが入り身転換で相対的に丹田(地)へ巡り陰の陽で結ぶ。
まず目付の先導であるが、単独動作のように自由な手を膝に置くということはできない。意識は呼吸法であるから、天の魂氣を側頸に陰の陽で結ぶことがこの技の核心である。つまり、魂氣を体軸に結ぶため側頸を開放する。その為に目付が対側に向けられてその方向の足腰が軸となり、前方回転が始まる。または、軸を換えずに後方に置き換えると後方回転に至る。
そこでは軸足の周りに対側の手足腰が一定の半径で回るということではなく、手は肘を屈曲して陰の陽で側頸に結び、足は膝を屈曲して軸足に螺旋で巻き付くように着地する。すなわち、回転は陰の魄氣そのものである。
目付の転換は入り身転換の先駆けであるが、後ろ取りにおいては魂氣を結ぶ側頸の開放に続くことで、回転の先駆けとなっている。回転という動作も想いを伴う三位一体によるという合氣道の特徴そのものである。
2014/11/15
「魂氣、すなわち手は宇宙心身一致の働きと化し、P170
手足腰の心よりの一致は、心身に、最も大切なことである。中略 一方で導いておいて一方で和す。これをよく理解するよう努力しなければならない。P98」
「合気神髄(植芝吉祥丸監修 柏樹社 平成2年発行)」から引用した上記の開祖のお言葉で、特に「心よりの一致」について考えてみたい。単に手足腰を心を込めて同期させるとか、一つに繋がった部位という意識を持って、というような意味合いではないと考える。
まず「宇宙心身の一致」ということは禊の動作そのものであろう。魂氣を手に受け、足腰は魄氣を地から受けて中心においてそれらが結ぶことで心身が新たに生まれる。動作における各部位の協働は単に時機を一にする修練ではなく、魂氣と魄氣それぞれの三要素が裏打ちする想いに対応する動作として行わなければならない。
例えば、魂氣が側頸に陰の陽で結び、魄氣と一体となり陽の魂氣として体軸から吸気とともに発せられる呼吸法の想いは、昇氣から側頸を開くために目付の転換する動作に連なり、さらに足先が同方向を指すことで対側の腰の魄氣で軸足を交代させる動作へと、波動のごとく伝わる。
身体の動きを単につなぎ合わせる手順には心が通うべくもない。形を覚えることの無意味な努力は心を置き去りにするのみである。
言葉と動作が合氣の想いで結びあうことこそ「心よりの一致」が言わんとするところであろう。
動作無き想いは静止の域を出ない。想いこそがその言葉の表わす動作を定めるものである。
2014/11/24
広義の陰で魂氣が体軸に巡ってくるとき、手掌が天を向けば陰の陽、地を向けば陰の陰と呼称することにしている。前者は狭義の陽、後者は狭義の陰である。その想いはいずれも掌に魂氣の玉を包んでいることである。
いま陰の陽で丹田に巡るとする。鳥船(ホー・イェイ)や、突きに横面打ち入り身運動/入り身転換、片手取り入り身転換などがこれに相当する。そこでは小指から丹田に接していく。結んだとき母指先は伸展して下腹壁上で内側方を指している(画像①)。掌が魂氣を包んだまま丹田に結ぶ想いである。ここから陽の陽で魂氣を発することができる。①では右手が陰の陽で魂氣を包んだ想いによって自身の丹田に結んでいる。対側の左手は陰陽の理から陽の陽に表しており、取りの目付はその掌にある。
一方、陰の陰で丹田に巡る場合は、陽の陰から母指先の反りが丹田を指してそのまま母指先から掌を包んで行くとき、または外巡りで入り身運動によって丹田が母指に向かって相対的に結ぶこともある。母指は伸展したまま下腹壁上で地を指している(画像②)。片手取り降氣の形で陰の陽から陰の陰に回外すると母指先は前方を指すが、上肢は畳んで体軸に接しているから広義の陰で受けに結んでいる(画像③、④)。ここから陽の陰で受けの中心に魂氣を発することができる。
2014/12/1
所謂「崩し」、「作り」、「掛け」、「投げ」に着目して、合氣道を考察する。
『武道論』(大修館書店 富木謙治著)には、柔道のわざの成り立ちについて、「崩し」「作り」「掛け」「投げ」と説明されている。受けが倒れる状態とは、言うまでもなく地との間に正立を失うことから始まる。体軸の傾斜に伴う軸足と地の接触の緩みがすなわち平衡の崩れである。また、上体の軸が鉛直であっても安定を得る為の軸足を欠き、一方の手の体軸への巡りと水平の目付けが失われて浮動した姿勢も平衡を保ちきれない。つまり、それは動作の途中で静止した姿勢を意味している。
合氣道では、魄氣が地から足腰に及んで体軸に連ね、天から受けた魂氣が丹田に結ぶから正立している、という想いがある。それは禊そのものであって合氣の根本である。取りの魂氣が受けの魂氣に結ぶとき、先ず受けの魂氣と魄氣の結びがすでに解けていることになる。従って、これは「崩し」に相当する。
そこで、互いの体軸を接近させる入り身が成立可能となる。すると対側の魂氣も受けの体軸にまで結ぶことができ、それが取りに巡って行くと、受けの体軸は取りの方に傾き尚かつ密着する。互いの魄氣の結びを伴って受けの体軸が傾斜すれば、これはもはや「作り」に相当するであろう。
ここまでは取りの魂氣が受けの魄氣にも及んだ後、取りへと巡って来ることによって受けの体軸が取りの中心に向かって傾斜し、取りの直立した体軸と軸足に密着することになる。そこで、取りの一方の魂氣が再び受けの体軸(魄氣)に及び、それと共に取りの足腰が受けの軸足へと更に密着すると、これは「掛け」である。
そのとき魂氣は受けの体軸の中心にまで響いている。その魂氣が受けの体の底を抜けて取りの中心に帰る。結局、取りが受けの体軸を奪って魂氣が取り自身の丹田に巡り、対側は腰に結び、左/右自然体に戻って安定静止する。つまり、取りは残心を為して、一方、受けは体軸を失って地に落ちる。「投げ」に相当する技の生まれる瞬間である。
取りが魂氣と魄氣の三要素を動作して、受けの魄氣を取り込む如くその体軸を断った後、取りの丹田に魂氣が巡り、魄氣は一足で軸足と体軸が一つに連なって左/右自然体を為す。このように、魂氣と魄氣が取りと受けのそれぞれの間で陰陽に巡り、結ぶとき、「崩し」、「作り」、「掛け」、は一連の動作となり、残心で二足が一本の軸足となって魂氣が体軸に巡るとき「投げ」が生まれる。
このことは合氣道が氣の武道であることを表わし示すものである。
2014/12/13
母指を屈曲して鷲掴みすることと、伸展して掌を包む際の違いは。
鳥船では、魂氣の玉を手に包む思いで手指を弛緩屈曲して掌を閉じ、屈曲した示指の周りは母指と母指球を伸展させて塞ぐ。また、掌を包んだまま吸気で母指球と母指先が前方に差し出され手首を伸展すると、肩から母指先まで一直線となり、順次手指が全体に広げられ魂氣は陽で発せられる想いを持つ。受けが技によって倒れていなければ魂氣の玉は容易に奪われることとなる。
一方、呼気とともに脇を閉じ、肘を弛緩し、手首と他の指が屈曲して掌を包んだ拳の先が丹田に接すると、母指は伸展したまま示指を塞ぎ腹壁の内方を指す。魂氣が腹に巡ってくる想いとしての動作である。
このようにして掌に剣や受けの手首を包んだまま吸気で差し出すと、魂氣を剣先や手首の先へ響かせる想いで足腰にも一致した動作が可能となる。
しかし、鷲掴みで母指が屈曲すると掌は凹みとなり、母指球で掌に剣や手首を包み込むことができない上、母指先と母指球から魂氣を発することはできない。つまり魂氣は剣や受けの手首に伝わらないからその先に響くことは無い。
与えた魂氣に受けが手首を取ろうとして、取りが外巡りから肘を落として回内し陰の陽で受けの手首を包み、回外して取り返す時母指球で差し出す。肘を落とさず矢筈で開いて陽の陰の鷲掴みで接しても、陰の陽に巡って母指球と伸展した母指で掌を包めば即ち受けの手首を包んでいる。
2015/1/9
下段に与えて交差取りなら外転換小手返し、
片手取りなら外転換鏡返し。
鍵は、外転換の魄氣、陽の陽から陽の陰・陰の陰へと巡る魂氣。
受けとの相対が異なっても、取りの単独動作は変わらない。
相対を感じ取るのに受けの手を見てはいられない。
もっとも、目付は受けの手を凝視できない。
魂氣は陰の陽で与えて受けが触れるから陽の陽で発する。
外転換で陽の陽の手掌が目に入り、陰に返すことが鍵である。
2015/1/8
語句の定義
広義の陰とは丹田から発せられた魂氣が中心に還ってくる、あるいは禊や呼吸法で吸気に合わせて開いた両手に魂氣を受け、呼気で指先と上肢が弛緩屈曲して中心に還ってくるという想いであり、その動作をも指すこととする。
小手返しの手と二教の手
狭義の陽は手掌が天を向き、陰は地を向く状態を指すこととする。従って陰(広義)の陽(狭義)で臍下丹田に結ぶということは、腋が閉じて上肢が胸部から腹部にかけて密着している上に、手指が掌を包むように弛緩屈曲し、その掌を天に向けた姿勢である。そこでは手背の遠位端が臍下丹田に密着し、母指は内方を水平に指し、他の手指は全て腹壁を天に向いている(画像①②)。これは小手返しの手である。
残心の場合は静止の瞬間であるから魂氣は丹田に結び、母指も、他の手指もそこで静止しているが、動作においては母指先の方向に魂氣が発せられる場合(画像③)、他の指先方向、つまり側頸に昇氣で進む場合(画像④)、また、陰の陰に巡って二教の手で母指先が外側を向き外に巡る場合(画像⑤)の三通りがある。それぞれの動作は内巡り、昇氣、外巡りと呼んで区別している。いずれも母指先から発するか、他の指先から発するかのいずれかである。
前者は小手返しの手で内に発するか二教の手で外へ発するかであり、いずれも母指先の反りに合わせて一回転して巡ってくる。即ち内巡りは陽の陽、外巡りは陽の陰で結局広義の陰で還ってくる。
昇氣と降氣
母指以外の指先から魂氣を発する場合は腹壁から胸壁に向かって手背を着けたまま(小手返しの手のまま)他の指がその伸側を着けたまま側頸まで昇る、昇氣である。そこでは陰の陽で結び手首が最大限屈曲し腋は最大限開き、母指先は耳の下で背側を指している(画像⑥)。そのまま母指先から陽の陽で発すれば呼吸法の残心へと進む。
降氣の形
陰の陽で降氣の形と呼んでいる魂氣の結びは、腋を閉じた上に肘も閉じて更に手根も屈曲して、母指先が同側の頸部に向くことで体軸に結んだとする姿勢である(画像⑦⑧)。そこで腋を一気に空けると母指先は直接側頸に接して、魂氣はそのまま体軸に連なり、体の底に響いていくことができる(画像⑨)。その思いで陰の陰に巡って母指先が下降し、丹田まで降りると上肢は伸展して母指は狭義の陰で丹田に結ぶ(画像⑩)。一方、外巡りで二教の手にして手背を頬に着け額へと伝っていけば額に結び母指先は地を指す(画像⑪)。そこでこの側頸への陰の陽の結びを降氣の形と呼んでいる。
下段に与える
陰の陽で臍下丹田に結ぶとき吸気と共に腋が開いていくと魂氣を与える動作である(画像⑫)。吸気が極限になれば手指を完全に伸ばして掌は天に向けて開かれる。その直前に手を取ろうとする受けの手が接すると、呼気に戻って陰の陽のまま屈曲した他の指先の方向に向かって腋が閉じていく、つまり魂氣は丹田に巡ってくる。
従って片手取りは受けに魂氣を与えてしまうのではなく、受けの取ろうとする気を引き起こす、すなわち手の動作を導くのであり、その瞬間受けの魄氣は陽となり軸足を失い、丹田や体側に位置していた魂氣の結びを解かせるのである。
上段に与える
上段に与えれば受けは手刀で正面を守り(画像⑬)。対峙しておれば取りの受ける圧力は相当のものとなろう。従って、その接点から受けの上肢が作る空間へと取りの手を進めるのである。むろん直進すれば打ち当たるから、陰で触れて陽に巡って結ぶのであり、魂氣の結びである(画像⑭)。陽の陰に巡れば正面当て、両手で氣の巡りなら一教運動や入り身投げへと進む。
2015/1/15
想いに裏打ちされた動作を意識的動作と表現した
動作の間に何かを考えることはできない
何かを考えて動作することはできない
目的を意識する動作では無く
想いに裏付けられた動作ということである
だから動作では考えなくてもいい
しかし、想いの無い動作ということではない
拍手と印の結びの間は意識することの無い瞬間であるが
意識的動作であるのだ
2015/1/17
剣・杖はいずれも魂氣を受けて陰陽で発し巡って、打撃を与えて終える上肢の延長である。一方、徒手では指の先、掌、手首や肘の曲げ伸ばし、脇の開け閉めまで魂氣の要素を表わして受けに結び、取りに巡って残心とともに技が成り立つ。徒手に限って呼吸法と呼ばれている動作であるが、基本的に武器の操法こそ手首を含む近位の上肢には共通の動きが含まれている。
これら剣・杖・徒手、三通りの形態はそれぞれに特徴的であり、とりわけ武器に比べて極端に短い母指では、その長所を十分活用することが必要である。
すなわち、武器では手掌と指がもっぱらそれを把持することに用いられるが、徒手では手首や肘の曲げ伸ばしをそのまま応用できることに加えて、もっぱら自由な指や、特に短い母指とその反りが手掌・手背とともに活用できる。このことは大きな利点である。
ところで、武器において注目すべきことは、操法を確立する上での魄氣の理にかなった活用である。魂氣を三要素で動作するにはこの魄氣の理に沿うことが肝要であり、すなわち合氣である。その足腰と体軸を徒手にそのまま取り入れることで、すでに禊と基本動作が形作られている。
呼吸とともに取りが残心による氣結びで精気を感じ、それが体の隅々に沁み渡るのは受けにとっても同じはずである。そして、陰陽、巡り、結びという上肢の動作と、陰陽、入り身、転換・回転の足腰の動作により、体軸と目付けの確立する感覚こそが剣・杖・徒手に通底するものであろう。
2015/2/14
天から降りる雨や雪は見て触れてわかるが、澄んだ空気や重力は見ることも受け止めることもできない。同様に、天から受ける魂氣も見て触れて知ることはできない。
しかし、言葉の持つ意味を知って、それを感じ取ることにより現される動作は、目に見え、身に受ける響きとして感知することはできる。
魂氣の三要素を示す動作は目に映り、底を抜けるものが体感できるということである。それは力のこもった全身の姿でもなければ、表層を打つ衝撃でもない。言葉と想い(意味)と動作の三位一体を互いに与えては体の真中に受ける繰り返しこそ、互いを合氣道の会得に導くことができると思われる。
技を見て、受けを取っては取りの動作を再現しようと試みることは、合氣の技を生み出すことと関連があるだろうか。
2015/2/18
合氣と禊
命とは心と体にそれぞれたましいが宿ることで生まれる。命がなくなることは、心のたましいが天に昇り、体のたましいが地に降りることとされ、心のたましいを魂、体のたましいを魄とよぶ。また、天地の間を満たす物は悉く氣であるとして、天からは魂氣、地からは魄氣を受けて元気が生まれるという想いがある。我らも魂氣と魄氣を受けて臍下丹田でそれらが合わさって命が生まれている、とする。これが合氣である。
このような語句と想いがあり、そしてそれぞれに動静という形のともなうことこそが肝要である。動作も静止もこの合氣とともにある。それが禊とよばれる姿であり動作である。従って、生きること全て、動静そのものが禊である。
言うまでもなく、合氣道とは氣の武道である。禊に始まり、禊による命の確立こそが合氣道である。
呼吸
呼吸は呼気と吸気のそれぞれの相が動作であり、各相の境界点は一瞬の静止である。ひと呼吸は動静のひと連なりであり生命の根源としての動作である。吸気は伸筋を緊張させ、呼気は弛緩を伴う。吸気相で両上肢が緊張伸展して胸郭を左右から挟むと、腹式の吸気が拡充する。胸郭が開いたまま呼気で動作(後述する陰の魄氣で足腰が軸となる相対動作)するときは腹式の呼気が自然に行われる。合氣道が要所で腹式呼吸を無意識に選択しているのは事実である。
また、一気で呼気相/吸気相を限りなく点に近づけることができるし、長息は、受けを含めた各部の動作を境界点で統合して静止する上で、間の弛みを生かすことができる。
魂氣と魄氣の三要素と動作
ところで、魂氣も魄氣もそれぞれに三つの要素から成り立ち、しかもそれは、悉く言葉と想いと動作の三位一体を成す。つまり、言葉だけでもなく想いだけでもない、必ず動作が伴う。ということは、あらゆる動作のその部位には、魂氣と魄氣の想いを欠くことが無いはずである。
もし、想いを欠くこととなれば気の要素を失い、その動作は形が似ていようとも魂氣の動作ではない。そして、気の武道、すなわち合氣道が成立しない。
単独動作と相対動作
通常、単独動作の稽古は正座の単独呼吸法と正立の単独基本動作に分けられる。そして、前後に位置する受けに応じて動き始めるのが相対動作である。技とは相対動作の連なりであり、その本質は単独動作に他ならない。
受けとの間で動作を行うとき、受けを想って相対的に動作をすれば、そのときの取りの単独呼吸法も単独基本動作も三位一体ではなくなる。取りの魂氣・魄氣それぞれの要素について、想いが内にある動作を全身で行うべきことについては相対の場合も単独と変わらない。
取りが魂氣と魄氣の要素を三位一体で行うべき初動で、表面に受けを重力として感知してしまえば、反射的に対抗する力を順次集中せざるを得ない。そうなると瞬く間に全身が筋緊張の塊となる。呼吸をはじめとして様々な動作が、つまり魂氣と魄氣の三要素に相当する動作が、たちまちその一体性を欠落する。合氣の外で命を確立する動作へとひたすら向かうこととなる。
2015/3/3
回転の軸足を確立するとは、まず一側の足先を剣線上で直角に外股/内股で捻って踏み替える。この軸足を交代するため対側の足腰で前を回って後ろへ、あるいは後ろを回って前に置き換える角度が大きくなるよう、はじめに軸足をすでに直角分回って作るのである。軸足を交代した瞬間に元の軸足はバネの様に自由に捻りを戻す。前方は残り270度外へ、後方は225度内へ戻す。後方回転の方が容易(軸がぶれにくい)であるのは、その角度が小さいからに他ならない。四方投げの表裏を稽古する時に実感するのはこの術理に基づく。
また、入り身転換のそれ以上に膝の十分な屈曲で上体を載せるのは、対側の足腰・上体の置き換えによる捻りに耐えて、バネの弾力を蓄える為である。同側の手が自由なら膝上に置き、目付けを常に足先と順次置き換える方向へ保って上体の直立を維持する。
前方回転では、対側の手は腰の後ろに結び、前を一回転して交代する軸足の膝上に置き換える。
後ろ回転では、軸の後ろを周り前方へ置き換えて一瞬交代した軸足と腰と上体の体軸を直結する。膝上の手は終末の陰の魄氣では腰に置いて陰の陽、その腰にあった手は陽の陽で目付けに合わせて差し出す。
2015/3/6