体捌きとは体軸を中心とする半身の転換や回転を伴う体軸移動をいう。上体の入り身運動と振り子運動、および足腰の動作・軸足交代と魄気の陰陽からなる。坐技呼吸法においてもそれは変わらない。
以下に二つの基本技と、その術理が生み出す応用技の一つを詳説する
1)片手取り呼吸法表の足使い・体捌きと、2)正面打ち一教運動表の足使い・体捌き
1)魂気を包んで下段に与えて片手取りに外転換(正勝吾勝=陰の魄気)で上体は入り身転換。下丹田から陰の陽の昇気で魂気を側頸に結ぶ。非軸足を踏んで軸足交代し、後ろの非軸足先を一歩受けの後ろ三角へ逆半身外入り身一足(陽の魄気に継ぎ足)で、側頸から発した陽の魂気は受けの底を抜き、体側へ巡って陰に。
対側の陰の魂気はそのまま腰仙部に。今や魂気と魄気は左右とも結んで一つになって体軸に与る。〝左右一つに勝速日、呼吸法の技の実を生み出す〟。
呼吸法表は外転換で受けの側面に体軸を置くが、上体は背を受けの胸に漆膠の身とする腹側への入り身。
2)魂気を包んで上段に与えて陽の陽に結び、相半身内入り身で陽の魄気を吾勝に踏んで軸足交代とし、継ぎ足を軸足の内側に足先で置いて半身を転換すると、井桁に進んで逆半身内入り身で対側の魂気は腋を閉じて掌を開き、側頸に巡った母指先から受けの真中へ両手で気の巡りの動作を続ける。
足腰は魄気の陽から鳥船近似で陰の魄気に巡り、軸足側は受けの同名側の手とともに魂気を伸展して外に振り出し、対側が下丹田に結ぶと受けの同名側の手は地に着く。一教運動表。
1)は外転換から元の半身で入り身一足の勝速日が技を生み、
2)は入り身一足から半身の転換で井桁に進み、魄気の陽から陰に巡る正勝吾勝で終わる
いま、掌を開いて母指先は地を指し陽の陰で下段に与え、受けは片手取りを四教で把持する。外転換で上体は入り身して腋が閉じると魂気は相対的に陰の陰となり、逆半身外入り身に伴い上丹田まで昇気。対側は腋を閉じて掌を開き、反屈の手で母指先を受けに向け、同側の(入り身一足の)後ろ足を軸足として受けの手首を担ぐように把持しつつ四教に持ち返して再度軸足をその場で交代して受けの項に正面打ち近似で伸展する。鳥船近似で陰の魄気に巡り魂気は下丹田に結ぶと受けは取りの腹側を螺旋で後方の地に落ちる。片手取り四方投げ表変法。
呼吸法の外転換で上体の入り身転換にたいして、四方投げ表変法は外転換で上体は入り身、の違いがおもしろい。また昇気は前者が陰の陽、後者は陰の陰。さらに、前者は外転換のあとは入り身、後者は鳥船で魄気の陽から陰。
つまり前者は勝速日で一歩進み、後者は正勝吾勝で体軸移動の伴わない点で一教運動表に近似している。
2022/1/15
『合気神髄』P105〝五体の左は武の基礎となり、右は宇宙の受ける気結びの現われる土台となる。左、右の気結びがはじめ成就すれば、後は自由自在に出来るようになる。〟
〝全て左を武の土台根底とし、自在の境地に入れば、神変なる身の軽さを得る。右は左によって主力を生みだされる。また左が盾となって、右の技のなす土台となる。これは自然の法則である。この原則を腹において、臨機応変、自在に動くことが必要である。〟
以上の文章に隠れている肝心な語句は「軸足交代・体軸移動」であろう。〝左、右の気結び〟とは、右の魂氣と魄氣の結びで体軸ができるから、自在に動く左が盾となって、陰に巡った左の魂氣と軸に交代した左足腰の魄気が結んで右の技のなす土台となる、つまり左側の手足に体軸側が交代することを表現しているはずだ。したがって、右足は非軸足に、右手は〝空の気を解脱して真空の気に結ぶ〟ことで技をなす根幹となることを示している。
左、右と手足腰の気結びが次々に交代することは、すなわち軸足が順次交代して体軸が様々に移動し、体捌きが可能となることである。それがあるからこそ技が生まれるわけだ。
また、開祖は『合気神髄』の中で、右の気結びは軸足・体軸で「吾勝」、左は非軸足で手は比礼振りをなして「正勝」、入り身によって送り足と継ぎ足の左右が一本の軸足・体軸になることで技が生まれ、「勝速日」と表現している。
したがって、軸足を確立した半身は「正勝吾勝」と表現され、鳥船の呼気で魂氣を掌に包んで下丹田へ巡らせた姿勢に相当する。また、吸気で両手から魂氣を発し、軸足を伸展することで体軸を失った姿勢は、まさに継ぎ足によって入り身の完成へと進む。つまり左右の足が一本の体軸となる瞬間であり、これを「左右一つに業の実を生むだす勝速日」と開祖は教えている。
合氣道では、軸足交代により手足腰の氣結びが左、右で連続して行なわれ、体軸を失うことのない安定した体捌きの結果、入り身によって全身を一つの体軸と成すことで技が生まれるのだ。
これこそは、合気道が正勝吾勝と勝速日であらわされる所以である。
2022/2/15
合氣道の思いと言葉を動作に現せば、「吾勝正勝、魂氣三要素(陰陽・巡り・結び)と魄氣三要素(陰陽・転換・回転・入り身一足)、そして勝速日」の順となる。
吾勝で右軸足と陰の魂氣による体軸の確立。正勝では左非軸足を置き換え千変万化の体捌き、つまり陰陽・転換・回転・入り身一足と、陽の魂氣を虚空に発する陰陽・巡り・結びの手の動作。
そして、〝左右一つに勝速日〟と静止した残心で技が生まれる。
2022/4/30
所謂体の変更は陰の魄気で非軸足を一歩後ろに置き換えて半身を転じた陰の魄気・吾勝に相当する。後ろ回転の前半を表すものである。相対動作で、受けを導く体捌きである。
2022/7/25
『合気神髄』より、〝右足はすべての気を握る〟?
p70
〝すべての気を握るのは、この右足国之常立であります〟
p105から106
〝五体の左は武の基礎となり、右は宇宙の受ける気結びの現れる土台となる〟
〝右は受ける気結びの作用であるからすべて気を握ることができる〟
天から手に受ける魂氣、地から足に受ける魄氣、すなわち取りも受けもそれぞれの左右の手足はことごとく気を受けて働くことができる。これらを〝すべての気〟と称している。
魂氣と魄気を〝宇宙の受ける気〟、丹田に右手の魂氣と右足の魄気が結んで右手足腰が体軸を確立すると〝宇宙の受ける気結びの現れる土台〟ということになる。
呼気で弛緩屈曲した右手が掌に魂気を包み込むことで丹田に巡り、その手に結んだ受けの手(魂氣)と、体軸に与らない受けの両足(魄気)も取りの右手と共に丹田で右軸足に連なっていくことが〝すべての気を握る〟と表現されているのだろう。
取りの右手足つまり五体の右(体軸)が受けと結んで一体になっている状態が、国之常立神に例える右軸足によって〝すべての気を握る〟と表現されているに違いない。
p105から106
〝自転公転の大中心はこの右足であります〟〝動かしてはなりません〟
この教えはもっと広い意味を含んでいると思われる。すなわち、体軸に預かる右手を虚空に発することは右足の魄気との結びを解いてしまい、取りは体軸を失ってたちまち存立し得なくなる。言い換えると、すべての気を握る右手は体軸の中でのみ、つまり頂丹田と底丹田の間でしか動かすことができないのである。このような魂氣と魄気を陰と呼ぶことにしている。反対に左足は自在に置き換え、左手は虚空に発することができ、これを陽の気と呼べば理解しやすい。
合気道特有の片手取りや交差取り、諸手取りという動作はこのような思いに裏付けられてこそ成立するものである。
合気道開祖植芝盛平の『合気神髄』は、難解であるという先入観に基づく批評が一般的であるが、一読とは言わず、稽古のたびに「百読」すれば「おのずからその意を解す」である。開祖の思いやりが詰まっていることに気づくはずである。
令和3年『養心』 掲載済み
2022/6/21
片手取りに外転換で昇氣の呼吸法表を例にする。
天の浮橋に立たされて、自然本体から吾勝正勝で半身として、非軸足をさらに半歩進めて同側の魂氣を下段に与えると、受けは逆半身で異名側の手を出して抑えにかかる。非軸足は踏み詰めずに外へ開いて軸足へと交代し、後ろの軸足は非軸足となって足先を剣線より軸足側に引きつけて目付は剣線に対して直角に置く。このとき与えた魂氣は掌に包まれたまま小手返しの手で下丹田に結び、移動した体軸に与っている。外転換である。対側の手は体軸から解脱はしたが腰仙部に置かれたままである。
下丹田に結んだ陰の魂氣は外転換の瞬間に静止しておれば、たちまち受けの対側の手が取りの真中を撃つであろう。取りは剣線を外すために上体の入り身転換で目付を剣線と並行にし、魂氣をいっきに昇氣で側頸に結んでおく必要がある。この際同時に腋が開いて肘頭は受けの中丹田を経て胸骨上窩に嵌り、取りの側頸には受けの手とともにその体軸が結ぶ。取りは受けの魂氣と魄気を自らの手と体軸に結び一体となっている。ただし、その手は陰の魂氣であり、体軸に与っていて軸足側に結んでいる。陽で虚空に発することはできない。つまり受けの体軸へと魂氣を響かせるには、軸足が対側と交代して側頸の手は魄気との結びを解くことが必須である。
非軸足をその場で踏み詰めて元の半身の軸足へと交代すると、今や側頸の魂氣と同側の非軸足は自由に受けの後ろ三角に送られて入り身とし、その手は軽さを得て初めて吸気で掌を開きつつ母指先から陽の魂氣を発する思いで、受けの同名側の頸部に前腕橈側を当て、腋を閉じるまで円を描いて体側に巡らすと同時に送り足で入り身一足が完遂すると、〝左右一つに勝速日で業の実を生み出す〟わけだ。
すなわち、魂氣は受けの底を抜けて取りの体側へと巡り、入り身で移動した体軸に結ぶとあらためて魂氣が魄気に結び、勝速日、つまり合氣の動作が成立する。受けは取りの背面を螺旋で地に落ちる。
したがって、はじめに外転換で地を踏み詰めた足に合わせて体軸を作る手、つまり転換後の吾勝、はそのままで同時に武を生み出す正勝とはなり得ない。
2022/7/6
片手取りには、魂氣をかすかに内巡りして入り身転換・体の変更から、外転換で魂氣を下段に外巡りで隅落とし/外転換で魂氣を側頸に二教の手で巡り二教裏/陽の魄気で陽の魂氣を受けの同名側頸部に発すると入り身一足で呼吸法表など。
諸手取りの場合、片手取りと同じ動作の連なりでは体捌きを成し得ない。
つまり、受けに与えた片手の陽の魂氣でいきなり内巡りして諸手とそれに連なる受けの体に入り身の隙間を作ることができない。そこは陰に巡って取りの体軸に与る中で、受けの体と諸手を取りの体軸に結んで一体となる必要がある。これが狭義の合気である。そのためには外転換で軸足交代し、陰の魂氣として手を畳んで取りの上体に結び吾勝を動作するのが初動である。そこで非軸足を後ろに一歩置き換えて軸足を交代する(体の変更)と、受けとの連なりが体軸から解かれて初めて身の軽さを得る。非軸足となった同側の足を外に置き換え(外転換)、同時に魂氣を受けと共に陽に発して空間に巡らせて基本動作を連ねることができる。
諸手取りに体の変更で受けを導くには一旦外転換で体軸に与り、その上に体の変更で空の気を解脱した受けを導き、外転換で初めて片手取り入り身転換に相当する体勢となる。そこで再度体の変更を行えば、元の半身で180度反転できる。
杖取りの動作が徒手の両手/諸手取りの導きに繋がる。
*諸手取りの受けを導く体捌き別法:諸手取りから前方回転で呼吸法を動作する。
まず外転換で軸足側の魂氣、受けに与えている手、を降氣の形から二教の手で上丹田に結び体軸を確立すると、非軸足を前方回転の軸足として体軸交代を行う。受けの魄気を取りの体軸に結んだまま、上丹田にある体軸から解脱した手は受けに連なったまま前方回転して、下丹田へと降りて再び軸足側になり、体軸に与る。
受けの体は螺旋で捻れて地に落ちる。
2022/7/21
魄を働かそうとすることは魄に結んだ魂氣、すなわち軸足側の手を動かそうとすることに他ならない。
体軸とは魄気の働きによる軸足腰と、陰の魂氣である軸足側の手が丹田に結んで確立され、二足歩行の中でも難場歩きにおける不動の柱となる。一方、空間に向けて発せられる手足の働きは非軸足と陽の魂氣である同側の手による。
体軸に与る陰の魂気を陽で発しようとすることは、体軸上で結んだ魄気とともに働かそうとすることに他ならない。しかし魄では動きがとれない。体軸は動きを伴わないから無理がある。踏み詰める足からは有効な手の動きが生まれない(五輪の書)。体軸を破綻させながら同側の魂氣を自由に巡らすことは不可能である。また、体軸という柱の中で力んだところで、空間に円を書く陽の魂氣は同側から発揮できない。
〝魄ではだめだ〟〝魄力はいきづまるからである〟(『合気神髄』p18)という開祖の言葉は、魄(軸足側の手)を働かそうとすることが合気の対極にあることを教えているのであろう。体軸から解かれた手と非軸足こそ同期して自在に動作することができる。魄が下で魂を表にするということは、この右と左の氣結びが一方では体軸を作り、他方では解かれて魂氣が自由になることを指しているに違いない。
〝この左、右の気結びがはじめ成就すれば、後は自由自在に出来るようになる〟(p105)。〝後は〟という言葉には、歩くように軸足を交代して魄から解かれた方の手を順次働かせることが含まれている、と考えたい。その手には〝魂の比礼振りが起こっている〟(p70他)と表現されている。
魄に結んだ体軸側の手ではだめだ。そこから解かれた対側の手・魂でなければ自由に気を発することはできない。
2023/9/15
新型コロナウイルス感染症のパンデミックに見舞われたこの三年間で、YouTubeなどの動画によって合氣道の指導稽古風景を発信する人があきらかに増えているようだ。交流稽古の機会が激減したため、研鑽の補助にすべく工夫していることもその理由であろう。
あるとき(2020年)、そのような動画の一つが目に入り、熱心な愛好家と思われたため合気道談義を期待して持論を提示したところ、動画を通じて思いもよらずストローマン論法で反論を受け、驚愕したことがあった。
合気道の指導的立場にある高段者の動画で、「気」という語句を一切用いないでいる、という主旨の発言をたまたま視聴し、開祖の合気道の概念をどのように解釈されたのか大いに関心を持ったのである。
開祖は『合気道新聞』への寄稿を通して難解な表現を交えながらも、あらゆる方向から合気道を我々に伝えてくれている。私は、かねてより合気道を体得する一つの方法として、師範の教えに加えて開祖の言葉と思いから動作を把握することに傾注してきた。
開祖が伝える言葉のうち『古事記』などに由来する特別な概念を除くと、頻度の高い順に「気」、「禊」、「天の浮橋に立つ」、「形(否定的と肯定的を合わせて)」、「魂の比礼振り」などがあげられる。中でも「気」を含む語句が桁違いに多いことから、「気」という言葉と思いで動作を裏打ちすることが合気道の根本であることは疑う余地もない。「合気」、「気の妙用」、「魂気すなわち手」、「気結び」、「一気」、「武産合気」、「気の置きどころ」、「空の気を解脱する」、「真空の気」、「宇宙の気」、「神気」、「天地の気」などの思いと、それぞれに相当する動作を体得しようとする意欲は高まって当然であろう。
緻密な稽古の様子を発信する道友から貴重な見識が得られるものと勝手に期待してしまったのではあるが、驚くべきことに、こちらの言葉をことごとく歪めて引用したうえ、そのねじ曲げた内容に対してただ苦言を呈する、という動画を上げたのである。
開祖は合気道を科学であると記されている。体捌きや技の成立において標準化と術理の確立に心血を注がれ、当時の直弟子に並々ならぬ熱意で伝えてこられたのだ。動作を裏打ちする言葉と思いは吉祥丸道主の監修を経た『合気神髄 植芝盛平語録』を通して多くが我々に残された。例えば、『古事記』に由来する『正勝吾勝』『勝速日』は単に観念を現すだけでなく、体捌きと技を生む基本動作として明記されている。
開祖が創始されて我々に伝えられてきた、つまり「気」という言葉と思いと動作の三位一体としての合氣道を、広く共有する気持ちで稽古することこそ開祖への報恩に他ならない。
合気会の下に広く育まれてきた平常の稽古態勢へと一日も早く戻っていけるよう、パンデミックの終焉を願うのは特に国内の多くの道友に共通する思いであろう。
2022/12/17
『合気神髄 合気道開祖・植芝盛平語録』より
踏み詰めて魄気の陽から軸足へと移行する同側の手は、魂気の陰へと丹田に結んで体軸の移動を確立しようとする。開祖の所謂吾勝(p70)である。体軸に与る瞬間は体軸上を降気や昇気になって陰の魂気つまり手が上下することは可能であるが、魄気の結びから解脱して陽で虚空に発することはできない。体軸なき五体は存立し得ないからである。
不動の体軸の基に対側の手は体軸から解かれており、同側の非軸足と共に陽の魂気を働かすことができる。正勝(p70)である。相手の魂気に気結びし、虚空に円を書いて(p154)体側に巡ると同側の非軸足は再び軸足となり、対側の継ぎ足と共に両手両足は移動したところで体軸を成す。入り身一足の静止の瞬間である。
手が円を描く動作は魂気が巡り丹田に結ぶ思いに裏付けられる。言葉と思いと動作の三位一体は合気道の根本である。
相手の体軸に響き、その腰を抜けた魂気が武技を生む。所謂勝速日(p70)である。開祖は正勝吾勝勝速日を武産合気と呼ぶ(p65)。そして〝武とはすべての生成化育を守る愛である。でなければ合気道は真の武にならぬ〟(p150)と。
2023/2/11
かねてより呼称に難渋していた、いわゆる「その場入り身転換」の動作につき、簡潔な名称へと整えたので神氣館内で周知いただきたい。以下、『合気神髄 合気道開祖・植芝盛平語録』より開祖の言葉を引用してそのページ数(p)を付記する。
基本の動作に名前を付けて整理することは、それらを共有して日頃の稽古の充実を図る上で必須であろう。例えば、〝入り身転換の法を会得すれば、どんな構えでも破っていけるものであり、しかしながら一刀一殺をすることが真の道ではない。合気は和合の術である〟(p163)と開祖は「入り身転換」の呼称を用いている。和合の術である合気の根底にある技法を「入り身転換」としていることから、動作の基本は入り身と転換であることがわかる。
まず、転換とは元来非軸足を外に置き換えて軸足交代と同時に対側の足先を軸足の前まで引き寄せ、その非軸足先を90度方向転換することである。外転換と言える。一方、非軸足をその場で踏みつめて軸とし、対側を腹側へ進めて90度方向転換して同じ半身のまま陰の魄気に戻る動作は内転換と呼べる。
入り身という単独動作は、非軸足を半歩進めて踏みつめ、後ろの軸足は伸展して体軸が地から魄気を失い前方に振れ、前の足を軸足に交代して継ぎ足が一本の体軸を完成することである。即座に後ろの足で軸を作って前の足を内股の軸足に交代して後ろの非軸足先をその場で後方(今や前方)へ外旋して目付けを180度転換すると入り身転換の動作となる。
そこで、正勝吾勝(p70)の陰の魄気から入り身をせずに、その場で非軸足を内股に踏みつめて軸とし、後ろの軸足は伸展して体軸が地から魄気を失い非軸足となる動作に着目する。そのまま目付と腰を一気に後方へ向けると非軸足先は今や前方に外旋し、体軸が完全に180度転換して陰の魄氣に戻る。
これは入り身を伴わない、その場での180度転換であるが、結局は「後ろ転換」ということになろう。片手取り入り身転換から昇氣呼吸法裏への体捌きが典型である。四方投げ裏に代表される「後ろ回転」と対比する動作でもあり、明快な呼称であると思う。
入り身投げ裏の体捌きでは、入り身転換・体の変更・後ろ転換と連なるが、一言・一つの動作で表せば後ろ回転ということになる。
2023/2/18
〝空の気を解脱して真空の気に結ぶ〟
〝魄を下に魂を表に〟
〝正勝吾勝勝速日は武産合気〟
組み太刀3
片手取り呼吸法
諸手取り呼吸投げ
空の気を解脱しなければ真空の気に結べない
五体にとどまってはならない。
2023/2/28
宮本武蔵像(島田美術館;熊本市)に学ぶ
右手に本差、左手に脇差を持つ立像であるが、武蔵は植芝盛平合気道開祖の教え(『合気神髄』柏樹社)である〝正勝吾勝〟を具現しているように見える。
右手は下垂して腋を閉じ、右足腰と共に体軸を成すように見える。それとは対照的に左腋はわずかに開いて脇差が前下方に差し出され、同側の足は少し前に出て足先が地に触れているだけである。〝千変万化、これによって体の変化を生じます〟と。
すなわち、右足腰の魄気と右手魂氣は互いに結んで体軸に与っており、開祖が国之常立神に喩えて〝吾勝〟と呼んでいる形である。また左の手は丹田から解かれており、左足底は地から解脱して共に同期しつつ自在に働かすことができる。これは豊雲野神に喩えられて〝正勝〟と呼ばれている。
右の気結びによる体軸のもとで、魄氣から解脱した左の手足が自在に置き換わり、脇差が働く。そこで左の気結びによって体軸が移動することで右の手が元の体軸から解脱し、右非軸足と共に本差が存分に使えるわけだ。
〝左で活殺を握り、右手で止めをさす〟〝技が生か滅か、端的な活殺が武産合気であります〟と。
2023/3/8
開祖の言葉『合気真髄』に示された武産合気とは
p150 合気は禊である。(中略) 武とはすべての生成化育(注:自然が万物を生み育てること)を守る愛である。でなければ合気道は真の武にならぬ。
p27 天の浮橋に立ちまして、そこから、ものが生まれてくる。これを武産合気といいます。
p85 この世の動きと和合して、穢れを排除していくことが武産合気の本義
p69〜70 右足をもう一度、国之常立神の観念にて踏む、 (中略) 自転公転の大中心はこの右足であります。 右足は (中略) 動かしてはなりません。
こんどは左足、千変万化、これによって体の変化を生じます。左足を三位の体にて軽く半歩出します。 左足は豊雲野神でありますから (中略) この意義をもととしてすべてに活用するのであります。(中略)
魄を脱して魂に入れば
左は正勝―豊雲野神
右は吾勝―国之常立神
勝速日の基、左右一つに業の実を生み出します。
p65 正勝、吾勝、勝速日とは武産合気ということであります
p70 技が生か滅か、端的な活殺が武産合気
p65(前略)日々、練磨していくことです。(中略) すなわち和の魂の錬成をするのであります。
p142 和合への大道(人の守るべき正しい道)たる武産合気。
以上の言葉から、少なくとも技の「形」をもって武産合気と名付けたものでないことは明らかであろう。
稽古の始めに禊を行い、正勝吾勝で魂氣を与え、体の変化から左右の魂氣と魄気が一つになる、つまり入り身一足で技が生まれる一連の動作を練磨し、和合の心を養うよう錬成する過程が武産合気に他ならない。
その結果が動作の形にも現れるのであって、「形」ありきの武産合気ではない。
また、観念のみが武産合気を特徴付けるものでもない。
2023/4/22
「一足一刀」と「入り身一足」という言葉が表すそれぞれの動作
剣合わせを例にすると、「一足一刀」とは右の非軸足を半歩進めて、たとえば面を打ち据えることのできる間合いをとることである。「入り身一足」とは、正面を打ち込む相手に対して右の非軸足で剣線を外して上丹田に右手で剣をかざし、受け流して軸足に交代し、その背側へ密着するように左の非軸足を一歩進めて踏み詰めると同時に、右足を継ぎ足とし、二足が一本の軸足となって体軸を作る。つまり、左半身で相手に正面打ちで入り身を完遂させる動作である。
したがって前者は、魂氣すなわち手を剣先まで一線と見て伸展し、魄気すなわち足腰は受けの体軸にたいして限りなく間合いを詰めるのみである。
後者は、まず腕を畳んで軸足を右足に移し(秋猴の身:『五輪書』)、剣線を外して半身を左に転換することで相手の背側へ逆半身で入り、上肢を伸展して正面を打ち返す動きに相当する。または、受けの振りかぶりに合わせて相半身で剣線上に右の非軸足を進めて振りかぶり、踏み詰めると同時に左の継ぎ足で剣線を右に外して剣を打ち据え、二足が一本の軸足となって体軸を作る。合気の剣である。
徒手の入り身一足として一動作で完遂する場合の典型が片手取り呼吸法である。取りの背を受けの異名側の胸部に密着させて(漆膠の身:『五輪書』)、側頸に結んで屈曲した手を伸展して受けの同名側の頸部に及ぼし、逆半身入り身と同時に魂氣を陰の陽で体側に巡る。
また、開祖のいわゆる三角法(『合気神髄』p172)により、軸足を交代して逆半身から相半身、または相半身から逆半身によって二動作で相手の裏三角または表三角へ進める場合がある。裏は入り身投げや天地投げ、表は一教表が典型であろう。
2023/3/15
開祖のいわゆる〝入り身転換の法〟(『合気神髄』p163,174)
入り身と転換
入り身とは、半身の場合互いの真中を結ぶ線(剣線)を二寸の開きで内/外に外して相半身/逆半身で非軸足を半歩または一歩進めて相手の力の及ぶ円内に入ることである。
非軸足を半歩進める場合はすでに正勝吾勝で前方に非軸足を置いている。つまり半身の姿勢である。一歩進める場合とは、非軸足の踵を剣線から外して軸足に交代し、後ろの足を非軸足として剣線に沿わせて一歩進める。ただし、正立の状態から一歩進めるときは剣線に近づけて相手の真中に向け非軸足を進め、軸足に交代すると同時に対側の足を剣線の反対側の体軸側へ置き換えて継ぎ足とする。入り身一足である。
転換とは、逆半身の場合、半身の非軸足を外に置き換えて軸とし、対側の足先を剣線に直角となるよう引き寄せて非軸足とする。体は半身を転換して目付は直角に外す。外転換である。ここで前の足先をさらに一歩後ろに置き換えて元の半身に戻れば転換・体の変更の連続となるわけだ。
相半身の場合は相手に対して内に置き換えるわけで、軸足を非軸足に交代して剣線上で相手に近づけるわけにはいかない。置き換えた前の足の後方へ直接体の変更の動作として内側に継ぎ足とする。結局、剣線に対して30度相手の内側に転換・体の変更とする動作は、半身の転換ではないが内転換と呼んでいいだろう。
いずれにしても転換は相手の力の及ぶところには入らず、剣線から外して体軸を確立する動作であると言える。一方、入り身とは剣線に沿った狭い隙間に足腰体軸が入っていく動きであり、両者には大きな違いがある。なお、後者は魂氣・手を畳んで相手の手に気結びし、互の体軸は密着して死角を作っており、秋猴の身・漆膠の身(『五輪書』宮本武蔵)と言い表される。
松竹梅の剣と徒手技
開祖は〝どんな構えでも破っていける法〟を〝入り身転換の法〟と呼んでいる。
動作としては転換して入り身と、入り身して転換の二通りが考えられる。
合気の剣では松竹梅の剣にそれぞれ含まれている。徒手では、前者は片手取り呼吸法表、横面打ちに外転換入り身投げ、後者は片手取り入り身転換・呼吸法裏、突き小手返し裏、一教表の三角法が典型と言えよう。
2023/4/10
武産合気を動作する
下段に与えて受けが制した手・魂氣を取りが軸足側としながら陽で掲げて転換や体の変更を試みようとすることは、魂氣と魄気の結びによる体軸確立がなされぬまま体捌きを行うことになる。〝正勝・吾勝〟の術理が欠落すれば合気道の妙味は体感できないばかりか、見るものにも伝わらない。技が生まれるはずの〝勝速日〟に達することなく、上体と手の動作つまり体幹を働かす内なる気・魄気の延長で動作せざるを得ない。
両足が開いて体幹の前傾・前屈を用いて技を掛けるという動作は、両手足腰の結びによる体軸確立すなわち〝勝速日〟の対極にあることを知るべきである。〝手、足、腰の心よりの一致は、心身に、最も大切なことである。ことに人を導くにも、また導かれるにも、みな手によってなされるからよくよく考えること。〟(『合気神髄』p98)と開祖は具体的に教えている。
開祖は〝正勝・吾勝・勝速日〟を〝武産合気〟と呼んだ。軸足側の手足腰の結びによる体軸確立は半身であり、〝吾勝〟に相当し、この段階が端緒となって軸足交代、つまり〝空の気を解脱して〟〝身の軽さを得た〟手には〝魂の比礼振り〟が起こって〝真空の気に結ぶ〟すなわち虚空に自在に円を描くことができ、〝正勝〟と呼ばれる。その手は丹田に巡り同時に、いわゆる一重身で体軸の移動が成る。その瞬間が技の生まれる〝勝速日〟である。両足は一本の軸足となり、両手とも体軸に与って陰の魂氣となり螺旋に沿う。
呼気の終末はそのままの姿で〝吾勝〟に還り、動きの兆しを得た半身の静止が残心の本態であるべきだ。
禊、正勝吾勝勝速日、武産合気、和合の道、合気道、
2023/4/11
構え無しの合気剣
1989年(平成元年)神戸大学体育会合気道部創部25周年記念行事で小林裕和師範が指導された。その冒頭が合気道の核心〝構え無し〟の合気剣についてである。
また、1991年に師範がイタリアで指導された時の動画(Scuola Aikido Daniele Pontiダニエレ・ポンテイ合気道学校のホームページ内)では、Giampietro Savegnago(Piero)ジャンピエトロ サヴェニャーゴ(ピエロ)師範が通訳しており、そこでは英語に翻訳した字幕を読むことができる。
括弧内に筆者の和訳と追記を添えた。なお、植芝盛平開祖の語録『合気神髄』から開祖の言葉を締め括りとして紹介する。
小林裕和師範:
(剣対剣で)相手が攻撃してくる機会を妨げるな。
相手に体を開け(構えを無くして正対する:真中を与えよ)。
もし防御の構え(互いに中段)をとれば相手に攻撃の機会を与えないことになる。
そのままでは入り身で剣が届くほどに間合いを詰めることができない。
互いに構えると互いが安全な間合いであるから、入り身を行うためには相手の構えを破らなければならない。
しかし、もし取りが構えなければ、受けは取りの剣の分だけ近づき、取りにとっては間合いを詰めたも同然である。
構えたなら相手に入り身をしようにも間合いが遠くなる。
相手に間合を詰めさせ、その攻撃を外すと同時に撃てば、ずっと速い。一動作で済む(攻防一体)。
相手の攻撃を受け流すと時間がかかる。かわすことと入ることが同時の方が速い(合気の剣)。
相手の攻撃が予測できれば尚更良い。
(構えずに真中を与えたとき)相手が間合いを詰めて剣が動いた瞬間、入り身をしなければならない。
相手の構えをどうしたら破れるかということは考えるべきでない。
(構えを無くした直後に相手が剣で間合いを詰めてくるとき)入り身の最適時を直感で読み解き、相手の動作を予測する鍛錬こそが必要である。
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(構え無しとは、左右片寄りのない足で立つ、つまり開祖のいわゆる〝天の浮橋に立ち、天地の気に気結びする〟禊の姿勢で真中を与えることである。正対して剣を構えると真中を閉じてしまうが、剣を大きく振りかぶるか、あるいは体側に置くと胸・真中を開くことになる。
さて、真中を与えてから軸足を作る転換により非軸足先は剣線を外して軸足の前に置くと、開祖のいわゆる〝吾勝〟である。鳥船の陰の魄気に相当し、半身であるが上体、目付は正対する。ただし、剣線に対して90度転換しており相手を見ない。
即座に軸足交代して後ろの非軸足を半歩進め、相手の真中を撃つ。剣素振りの陽の魂氣、〝正勝〟である。魂氣に合わせて進めた非軸足先は地に置かれるのみで、足腰上体は一重身の半身であり体軸は不動である。
さらに鳥船の魄気の陽を経て軸足交代と継ぎ足で入り身一足となり、徒手であれば左右の魂氣が一つになって初めて受けの力のおよぶ範囲へ体軸が入る。〝勝速日〟である。いわゆる残心の姿に相当する。
これらは松竹梅の剣の一法であるが、この剣先の軌跡を術理として、相打ちとならない操法が合気の剣である。)
『合気神髄』より開祖の言葉
p65 正勝、吾勝、勝速日とは武産合気ということであります
p150 合気は禊である。武とはすべての生成化育を守る愛である。
p35 真の武道とは愛の働きである。それは 中略 すべてを生かし育てる、生成化育の働きである。 中略 愛なくばすべては成り立たない。
p34 正勝、吾勝、勝速日とは、宇宙の永遠の生命と同化することである。 中略
それには、まず宇宙の心を、己の心とすることだ。
宇宙の心とは何か?
これは上下四方、古往今来、宇宙のすみずみにまで及ぶ偉大なる「愛」である。
p35 宇宙万生の現われの根元は魂の現われであり、愛の現われである。
合気の道こそ愛の現れなのである。
2023/5/4
武産合気(正勝吾勝勝速日)の初動
正立で魄気を真中で与える。転換・入り身で真中を外す。
半身(正勝吾勝)で母指先を地に向けた手刀を中段に、または包んだ魂氣を上/下に与えて体の変更/入り身転換。
陰の魂氣を置いた吾勝で後手を引くと、受けに合わせて外転換から真中を撃つ、または逆半身/相半身内入り身で返し突き/振り込み突きによって先手を得る。
両手の魂氣は天地に分けて入り身転換、受けの魂氣は剣線上に通す。
受けの両手・諸手は縦に並べる。
吾勝の魂氣は昇氣・降氣で体軸を巡り、正勝の魂氣は虚空に円を書き受けの底を抜いて体軸に巡る
左右の魂氣が一つになって入り身一足で体軸が確立する勝速日。合気の技が生まれる。
2023/5/9
振り子運動で軸足(膝)を作って(吾勝)、非軸足(正勝)を180度後ろに置き換えて軸足(吾勝)に交代する。
対側の座骨は踵の後ろにずり落ちて膝が非軸足(正勝)となる。つまり踵、座骨、膝で作る魄気の結びによる体軸が解けるからこそ、置き換わった対側の足が軸となって体軸の移動を確たるものとすることができる。
したがって、落した方の座骨は次に踵へ載せて底丹田を体幹軸の下端とすることで両足の膝が畳まれて、反転した体幹軸を左右から両膝で片寄りなく支える正座に戻る。
以上は小林裕和師範の動画が伝えている。
交差取り体の変更・後ろ転換を正勝吾勝の理から正座にて動作する
2023/5/12
武技の生まれる動作を裏打ちするもの
——— 合気道開祖植芝盛平の言葉より
魂、氣、魄
生きている人にとって、その心身が働きを持つためには覚醒して活力を得ることが必要である。眠っているか休んでいる時の心のたましい魂と体のたましい魄はそれぞれ天地にあるものと思い、その間は大気によって満たされ、呼吸することで命は保たれていると考える。
合気は禊
植芝盛平合気道開祖は、はじめに天の浮橋に立ち、禊によって合気が始まる、と説いた。すなわち、片寄りのない左右の足で大地に立ち、吸気で両手を広げて天から魂氣を受け、地から足腰に魄氣を受けることを思う。呼気で両手の掌を打ち合わせて音を立てると魂氣は全身にひびき、下丹田に集まると思うことにする。これが天地の気に気結びするという言葉と思いと動作の三位一体であり、魂気(手)と魄気(足腰)の気結びが禊、つまり合気なのである。
正勝吾勝
今、右足を軸として上体を支えると左足は非軸足となり、軽く半歩前に出して足先を地に触れるのみとする。両手のひらに魂氣の珠を包むと親指で蓋をしてから、正対する下丹田の脇に手背を前に向けて置き、呼気相とする。この足腰を左半身と呼び、陰の魄気による働きで成り立つものと思うことにしている。この時の右軸足と同側の魂氣は体軸に与り、開祖はこれを〝吾勝〟と呼ぶ。
また、非軸足と下丹田に置かれた同側の手は体軸から解かれており、開祖はこれを〝正勝〟としている。非軸足と左の手は魄気と魂氣の結びを解いており、互いに自由な動きが可能であるはずだ。つまり、左足先は前後左右に置き換えられ、同側の魂氣は〝空の気を解脱し〟〝身の軽さを得て〟虚空に発することができる。この場合、空の気とは体軸を地に立たせる軸足として働く魄気、つまり右の足腰を指していると解釈できる。
鳥船と魄気の陰陽
鳥船の動作はこの陰の魄気から始まる。地を踏み詰めたまま吸気で右軸足を伸展し、同時に左の非軸足は足底全体で地を踏み、下腿を直立させる。この瞬間、軸足と体軸は欠如して左右の足は非対称の姿で体幹軸を地の上方で支えるにすぎない。しかし、このとき左の腰は前方の左足に合わせて前に振れるから下丹田は内(右前方)に向かう。体幹軸は直立して目付は前方を保ち、両手の振り込み突きで魂氣を前方へ発するために、下丹田は右前下方の地を指して三点で体幹軸を支える必要がある。この一瞬の姿勢を陽の魄気と私は呼んでいる。
魂氣の陰陽
掌に魂氣の珠を包んで虚空に発しようとして上肢を伸展する動作は陽の魂氣、丹田に巡って体軸に置くときは陰の魂氣と呼ぶことにする。掌を上に向けると狭義の陽、地に向けると狭義の陰と称し、広義の陰陽、狭義の陰陽の順で表現することにする。例えば、小手返しの手は陰の陽、二教の手は陰の陰、片手取り昇氣呼吸法は吸気で掌を開いて母指先の反りに合わせて陽の陽の手、入り身投げは手刀の母指先が地を指して陽の陰の手ということになる。
鳥船の動作では吸気とともに魄気は陽で魂氣を陽で発し、呼気で陰の魄気に同期して魂氣は陰に巡る。左、右、左半身で3回行い、はじめは母指先を地に向けて掌を開かずに振り込み突きで差し出し、次は右半身で母指先を前に向けてやはり魂氣を包んだまま直突きで差し出す。最後は左半身で掌をしっかり開き、地に向けて陽の陰で差し出す。鳥船で掌に大気を包み、振り魂で下丹田に魂氣の珠を思い、吸気で掌を開いて魂氣を虚空に発する。虚空とは何もない空間、大空であるが、すべてのものの存在する場所という意味でもある。以上が鳥船の思いと動作である。
入り身転換と体の変更
ここまでは動作といえども体軸移動を伴わない。陰から陽の魄氣で体軸を無くして体幹軸の微動と僅かな腰の切れに止まり、一呼吸で陰の魄気に戻るわけだ。一方、軸足を交代して体軸が移って相手の攻撃を受け流すなり、体を開いて真中を外すとか、入り身をして制するなどの動作は全て体軸の移動を伴う。つまり、魄気の陽から後ろの伸展した足を地から離して前の足に引きつける、いわゆる継ぎ足で二足が一本の軸足になり、体軸移動が成り立つ。入り身運動であり、基本動作の一つだ。これに転換が加わり入り身転換、一歩後ろに置き換えて軸足交代すると体の変更。また、入り身をせずにその場にて後ろ半回転で三面に開く体の変更。即後ろ転換で一回転、外転換なら受けの後ろ三角に進む隅落とし裏の動作となる。三面に開いて陽の魄氣で前方に放てば呼吸法表の動作である。
体軸移動は勝速日
魂気の陰陽・巡り・結びを三要素とし、魄気三要素は陰陽・入り身・転換回転とする。魂気三要素は呼吸法による手の働きを生み出し、魄氣三要素からは足腰の基本動作が確立する。体軸を作る手足が左、右と交代し、空の気(魄気)つまり体軸を解脱した手は身の軽さを得て魂の比礼振りが起こると喩えられ、虚空に円を描いて掌を開くと魂氣の珠は真空の気に広がり、呼気とともに丹田に巡って自身の魄気と結んで体軸移動が終わる。これが開祖によって勝速日に喩えられている。(道歌参照)
武産合気とは正勝吾勝勝速日
正勝吾勝で魂気を発し、非軸足を置き換えて軸足交代による体軸移動が始まり、同時に陽の魂氣が真空の気に結んで巡り、母指先が円を描いて自己の丹田に結べば陰の魂気で掌に再び魂気の珠を包んでおり、魄気と結んで体軸を成す。左右の魂氣と魄氣が一つになった体軸確立の瞬間が勝速日である。このとき円の中心に武技が生まれる。したがって勝速日とは残心の姿そのものである。
まとめ
魂気と魄気が結んで体軸をなし吾勝、対側は解かれて非軸足と魂の比礼振りが起こり自在に働く正勝。これらが交代するうちに虚空で円を描くと、左右の魂氣と魄気の一つに結ぶ合氣が体軸を確立する。そこに技が生まれて残心の姿こそ勝速日。
熱も光も愛も気も、物として捉えることはできないが、円の動きを裏打ちして真中に技が生まれる。
心を表現する言葉、言葉と調和した肉体の活動。言葉と思いと動作の三位一体はあらゆる活動の原理である。
道歌:合気とは 筆や口にはつくされず 言ぶれせずに悟り行え
真空と空のむすびのなかりせば合気の道は知るよしもなし
2023/6/14