2013年
7月
28日
日
*陰の魂氣を互いに使い両手で外巡り呼吸法:外巡りに対側の手を休ませず振込突き。外巡りの陰を回内して陽に進める間は対側を振込突きの陽とする。受けは陰の魂氣で外から払い、取りはその間に肘を落として回内・陽の陽で外入身・陰の陽で丹田に巡る
*目付が意識されないと受けの動きに付き従うことでいちいち軸が左右に揺れる。目的は全体を見渡すこと。地に結んだ一人に受けの全てをとらわれてはならない。軸はできる限りの正立で最大限の知覚と氣の三要素を発揮できる。
*異名側の頸部が遠ければ回外した陰の陰の手は同名側の肩に当たり取りが後ろ両肩取りへ
2013年
7月
24日
水
例年私自身の演武で繰り返し明らかとなり、稽古では万全でもまた演武では結びきらずに陽で発してしまう。小脳回路に徹底できない内は稽古に終わりが無い。
気が逸る、力みが抜けない、つまり呼気が続かない。結んで発する無意識の動作が発揮されず意識が優位に立ち、結果細部の筋・関節運動が阻害される。
本来目付けは前方(受けの後ろ)に定める他に意義なく、相対動作であっても単独呼吸法の“両手で気の巡り”が基本である。降氣の形から陽の陽の魂氣が不十分で脇の開きが見られないために、結びが曖昧になり肘だけが開いて接点を押すことが勝り対側の結びだけで同側の足下に小さく早々と結んでしまう。
前者は受けの片手に対して内側、後者は外側に結ぶ。前者は脇と肘が屈曲し肩の高さで手首も屈曲して母指先が側頸に向かい、そのまま母指先を前方に向ける(回外とする)/後者は丹田に陰の陽で結びながら陰の陰に巡って脇を開いて行き、二教の手となる。相反する結びを同じ巡りではなし得ない。わかっているつもりでも無意識の体得にあっては区別されていない。稽古の目的の一つはこれを克服することであり、呼吸を緻密に関連させて気を念うことでより良い結果を得ようとするところに合気道の理がある。
これも私自身度々今でも繰り返してしまう。自然本体のように体側に結んでいるなら揺れることはない。転換では腰に結び対側をその分陽で出し切る。入身転換では陽の陽で差し出し踏み替えで陰に結び対側の陽の氣を十分に発する。
その他に陰の魂氣は当て身に進めるか、あるいは相手のそれを払うか、一瞬休めて残心とする場合もある。直ぐに陽で発することもできる魂氣である。
互いの陰の魂氣はつねに陽へと発するところに理合があり、取りは受けに対しては入り身・転換・当て身等でその機会を与えず、受けは機に乗じんとするも入り身と魂氣の結びにより剣線を外され、取りの当て身を払うことで後れをとる。その中で互いの気が巡ることにより動きが成り立つ。
また、静止の機序は結びであるから、取りと受けとの間で結びのない瞬間は様々な巡り、即ち動きが伴わなければ自然ではない。伴うべき動き、示されるべき静止が形に発現されることこそ理合に裏打ちされた技であり、日頃の稽古はこれを繰り返し体で覚え込むことに費やされると言っても良い。
しかし、無意識の動作で全身の骨格筋が統合されることは容易ではない。それは、用語と念いと動作が単に揃っていることではない。用語と念いと動作の三位一体を理として発現されるものが技であり、相対すると武が生まれるであろう。愉快にして厳密である稽古こそ生かす武道であり、一定の競技や古の武術の対岸にその存在を確たるものとすることは稽古の本義である。
開祖は各武術を昇華して我らの先達に合気道を示された。したがって、今は合氣の核心を究める道を行くのであって、側に新たな合氣の道を創るわけではないから、その点現在の合気道愛好家はずっと恵まれているはずだ。
2013年
7月
21日
日
*置き換えるというのは、後ろに一歩下がるのではなく、対側の踵の後ろに置き換えるということ。
*後半の逆半身内入身は受けの中心に魄氣が結ぶのであって、受けの内側にぶつかって押し合わず、受けの後方にすれ違わず。
2013年
7月
17日
水
*受けの手首を上面から下に押しても魂氣が丹田に巡らない。取りの上腕が固まって逆に受けの手(魂氣)の下で地に落ちることとなる。鳥舟は魄氣の陰陽のみならず魂氣の陰の陽に妙味がある。手首を伸ばして肘を曲げるとそれは単に櫓を引き戻す動作にすぎない。手首を曲げて肘を伸ばし指先を揃えて腹に戻すと、魂氣は留まらずに巡って次にも腹から発することができる。気が巡るとすなわち二教が成り立つ。
2013年
7月
15日
月
第三回大阪府合気道連盟講習会・演武大会に参加された皆さん、ご苦労様でした。
あれだけ多数の初対面の方々同士で、和気藹々と研鑽する事が出来るのですから、やはり開祖のお造りになった合氣道は偉大です。
いつもこのような大きな講習会で感じるのですが、目指す核心である『合氣道』という開祖のお示しになったものはつまるところ、一人一人にとって『合氣道とは?』という課題なのではないかという思いです。多くの人々の心を引きつけ、熱い鍛錬へと導いて止まないのは『?』にも理由がある様です。老若男女一人一人の課題は正に千差万別ですが、開祖があれほど『合氣神髄』にも書き記された本質を、言葉と観念と動作の三位一体で把握するとなれば容易ではないという事でしょう。
教えを受け、互いに稽古を積み、新たな課題と目標はしっかりと心に芽生え、しかも気骨をより熱く堅く持つ機会となれば、このような形の稽古法に勝るものはありません。
それにしましても、合氣とは、やはり天地に連なるものなのですね。様々な人と人が単に動作し合う限りではとてもこのような会が成り立ちません。交流と切磋琢磨、限界を知りながら愉快に過ごすひとときは単に個人の行動に留まるものではない様な気がします。
以上、熱風の道場における感想でした。
集合写真はフォトギャラリーに掲載しましたが、おなじものを幸町道場での稽古でお渡しします。
2013年
7月
14日
日
*胸を取った手に異名側の手で降氣の形(脇が閉じる)から矢筈で下から受けて持ち、対側の手は上から四方投げの持ち方(脇を開けて)で陰の陽に把持し、転換した後方の軸足で後ろ回転(置き換え踏み替え)したとき、同時に左右の脇の開閉を逆にして受けの手首は二教に返し、振り返ると固め。……末尾に画像あり。
2013年
7月
10日
水
*踏み替えが腰の決定的な半回転を生み、降氣の形から脇を開いて母指先が側頸に結ぶ呼吸法(降氣)を行う。まず胸取りの手の下で降氣の形にて脇を閉じて矢筈に開いた手を下から受けの手首に当てて、担ぐ様に把持しつつ脇を開いて陰の陽で側頸に結ぶ。この動作を腰の半回転で行う。対側の手は陰の陽で手背に被せて一気に陰の陰で脇を閉じる。四方投げの持ち方に近似。受けの小指球を三教の取り方で陰の陰に巡る。これに腰と胸の半回転を同時に動作する。魂氣と魄氣の結びである。
*決して易しい動作ではないが、一燈も無き暗夜の模索ではない。
2013年
7月
07日
日
*手刀を打ち降ろしても受けの腕に打撃を与えるだけで、その下の空間の魂氣を丹田に掬い取ることができない。つまり、氣結びができなければ入身転換ではない。
【ピットフォール】伸ばした上肢に諸手を着けて脇と肘を屈筋で畳んで受けを引き寄せようとすると、引っ張り合うことになる。
[対策]陽の陰から陰の陽に巡ること。転換により呼気で小指から順に掻きとる様に屈曲して行き狭義の陽とする・これで肘は相対的に屈曲し脇は閉じ降氣の形となる(秋猴の身)。稽古の目的は明らか。屈筋で引っ張り合うのではなく呼吸法を転換と共に行うこと。互いの魂氣の結びと魄氣の結び。
2013年
7月
03日
水
*下段に与えるばかりでなく、手首を取らせて受けの手と間合いに一瞬留まってから巡らそうとする設定もあり。【対側の正面当てで外巡り相半身外入身転換】を選択せずあえて腰の後ろに魂氣を陰で結んでおく。設定が変わってもその分魄氣で負担をして間合いを詰める。脇が開いても陰の陽の魂氣は肘と手首と指の巡りが丹田に向き、離れていても結ぶ念いが動作に伴うこと。用語の意味と念いの欠いた動作は単に筋力の仕事を強いられるだけである。三位一体に徹すること。