2020年
10月
28日
水
*前方回転の半回転連続とは、外股で半回転軸足を作って後ろの足を前に一歩置き換えて内股で軸とする。対側の足先をその場で180度外へ回して軸足交代し、再度対側の足を一歩前に置き換えて軸とし、前の足先をその場で外へ90度置き換えると一回転になる。一気に一回転する動作と比べて、基本動作としての妙味が内在している。はじめの軸足が一旦非軸足になってその場でもう一度軸足になるか、半歩近くに置き換えてから軸足に戻るか、で次の半回転の軸(中心)が微妙に移動することから、変化する受けとの間合い(微妙に姿勢の変わる受け、あるいは二人の受けとのそれぞれの間合い)を維持できる。
2020年
10月
25日
日
二人取りで呼吸法と二教入り身投げをそれぞれ対側の受けの側頸に懸ける。互の腕が順番に束ねられ、呼吸法の手の方は陰で対側の受けの異名側の頸部に着け、その体側に密着して体軸とし、二教入り身投げの手は陽で対側の受けの異名側の頸部に向け、それを軸足交代して呼吸法側の足を入り身する。二人の正面に立たない。
2020年
10月
21日
水
*入り身転換で受けに与えた手を受けと共に体軸側に。体の変更で体軸から解くので受けの手も体軸も取りの非軸足側に連なるから受けが足を一歩前に進めることができる。だから再度入り身転換で体軸側にして受けの体軸とも結ぶ(魄気の結び)。この段階で受けは固定される。体の変更では移動が可能なのであって、固定されるものではない。
*二人掛けこそ理合を緻密に応用すべし
2020年
10月
18日
日
2020年
10月
14日
水
*片手取り体の変更から外転換で受けの後ろ三角に非軸足を進める隅落とし裏の魄気に近似。
2020年
10月
11日
日
*振り込み突きの魂氣は転換とともに腰仙部に回すが同側の足は非軸足。非軸足も遅れて後ろに置き換えると体の変更。
*内下方に受けの手拳が目に入らないと異名側の手は陰の陽から陽の陰で下丹田の前を通って後ろに半円を書き、非軸足は内股で受けの後ろ三角に置き換えて入り身投げ。受けの側頸には異名側の片手が魂氣を陽の陰でひびかせる。
*口伝:転換の非軸足先が受けの手拳の外に並んで視野の隅に入るか、消えるか。
2020年
10月
07日
水
*軸足交代してどこまでも足先と目付けの方向の一致が回転を生む。足先を見ると屈んで止まる。
2020年
10月
06日
火
ストローマン論法で批判に及ぶお方の心情は?
長年稽古をされて合気会合気道の指導的立場におられる方の、興味深い修練の動画シリーズは私も含め多くの愛好家にとって大変良い刺激となり、勉強になっているはずで、公開されていることに感謝し、楽しみにしていたのであるが。
合気道の研鑽に、合気と言う言葉や概念を抜きにするという意味の発言に疑問を持ち、合気について熱心に書かれた開祖自身の言葉があることをコメントした。
返信として合気について、わたしの現状の解釈を尋ねられたので、自分なりに整理してお答えしたところ、その後の様々な批評の発信は、よもや私のコメントから展開されたものではないとは思うものの、わたしが感じていることをすこし補足したい。現状では返信の経路を見いだせないため、ひとりごとを書き連ねることとする。
「開祖の言葉を理解しないと合気ではない、」「やりたいように自由にやってはいけない、」というようなことを思っている合気道愛好家は私のことではない。「開祖の言葉を研究すれば、技が出来るようになる」とか、「開祖の言葉がわからなければ意味がない」というようなことは考えたことも、口にしたこともなく「『合気神髄』を読み解けば、少々実技をおろそかにしても開祖のような達人に成れる」と信じたことはない。まして、私が開祖の存在に近付こうとか、あのような武人に成りたいと目指すのはさすがに想いもよらないことであった。ご指導いただいた直弟子の師範方がずば抜けた存在であった上に、その師範が開祖を評する内容はさらに超絶であったということである。
ただ「開祖の思いはどんなだったろう」「世界の老若男女に広めて下さったのだから、なにか普遍的な知恵や術技を示そうとされたに違いない」などと想像しながら、わかる言葉で伝えてくれる箇所を探しては、師範方の指導を思い起こして、愉しく稽古をしているところである。残念ながら未だに〝力んだ動き〟を示してしまうことは常である。
合気という言葉と思いが合気道から除かれるよりも、言葉と思いと動作の三位一体こそ合気道の成り立ちの第一歩ではないかと考えている。
コメントは短い言葉のキャッチボールであるから、一度に多くの思いや、読み手に想像をかき立てるような内容を伝えることは出来ない。その辺りをどうかおくみ取りいただき、今後ともお互い捕球しやすい球で楽しいキャッチボールをさせていただきたい。
2020年
10月
04日
日