ピットフォール
① 表裏にかかわらず手刀で受けに合わすと互いに手首が当たり、其の接点から取りが手刀で乗り越えて行きながら手首を取る。魂氣の陰陽で現せば、陰でも陽でもない手刀から受けの手首の内側に乗り越えて陰の陽に巡って手首の外を回って母指球と手掌に手首が挟まった形で丹田に巡る。対側の手で受けの上腕〜肘の伸側を押さえながら。従って受けの手首に在る手は掴み取るのではなく絡まっている状態。これでは受けの上肢を取りの両手が把持して丹田に結ぶ事が出来ない。つまり受けと取りの魂氣が丹田にて取りの魄氣と結ぶ事が出来ず合氣が成り立たない。
② 受けの手首を下から受け止めて握った場合、対側の手が受けの上腕を陽の陰の矢筈で当てて陰の陽で巡って丹田に導いても手首は最初伸側を握っておりその形は①に等しい。一教で固める事はおろか二教から四教への選択はどれも叶わない。魂氣三要素に則って途切れずに手を取る事が出来ず、必ず一旦受けの手首から手を離して掴み直すことになる。
【対策】表裏にかかわらず陰の陽で与える。裏は額の前に陰の陰で結んで一教運動裏とすると陰の陽で手を開きかけて受けの手首の尺側に接する。
対側の手が舟漕ぎ運動のホーイェイで矢筈の陽の陰で上腕に接してから丹田に陰の陽で巡ってくる間に受けの上肢の伸側が上に向く(背中を取りに見せる)。取りのほぼ丹田の高さで尺側の魂氣が陽の陰に巡ると取りの手掌は受けの屈側(脈拍部)を被い把持することが出来る。
取りが坐位をとり今や受けの上肢は上腕が伸側、前腕が屈側を上に向け取りの両上肢で上から地に固定され、取りの丹田は受けの上腕の真中に近づき結んでいる。坐技転換運動で受けに接する膝腰に重心を置き、同側の手首から近位の上肢は垂直に伸展し丹田から受けの上腕の真中を経て魂氣が地に貫くようなイメージで残心。
2012/10/19
2. 交差取りの基本
交差取りで取らせた時、陽の陰の魂氣は瞬時に呼気で陰に巡ろうとする。脇を閉じ、手首から遠位を弛緩させ陰の陽に巡り、遅れて肘を閉じ始めると降氣の形となり母指は側頸の付け根に向かっている。魄氣は同時に外転換して陰となり、母指から陽の陽で魂氣を差し出すと同時に前方の足先から伸展して相半身半歩内入り身すると一教表に向かう。
剣線を外し降氣の形とする下段受け流しから、対側の魂氣の返し突きで一歩逆半身入り身転換すると一教運動裏。
いずれにしても、交差取りで取らせて脇を開いたままでは外転換しようとも瞬時に側胸を突かれて敗退する。内転換なら尚更である。陽の陰から陽の陽へとさらに腋を開けて受けの手を上方に進めようとしても、側胸を晒すのみならず氣の巡りの理に反することであり、受けの手の下から魂氣を進めることは出来ない。
下段に与えて交差取りとなった場合、転換で陽の陽に広げて脇を開けたまま側頸に降氣で戻す巡りから外巡り。あるいは、入り身転換で陽の陽に広げると受けの腕を反屈させることになり上から取ると母指側から小手返し、下から差し入れると小指側から三教の取り方。
2012/10/22
3. 諸手取りの魂氣と魄氣の結び
逆半身諸手取りで下段にある片腕一本では常識的に魂氣三要素の発現は無い。
陽の陰の中段で諸手に取らせ、外転換して腋を閉じながら前腕と上腕をたたんで一つとして降氣の形で取り自身の躯幹と上肢が一体とならなければ次に魂氣三要素を発揮できない。陽の陰から陰の陽に巡って自身の魂氣が母指先を経て側頸に結ぶことで取り自身の魄氣に繋がるところから、回外で更に巡って相対動作が可能となり技を産む。この間脇を開かず母指先は側頸に向かうだけで、ここから頬に陰の陰で結ぶ際も脇が少し開くだけで母指先は前方を向く。母指先が側頸に接する結びは脇を大きく開いて陰の陽に巡って陽の陽で後方に発する呼吸法の時。
上から諸手で取らせても取りが外に転じて降氣の形をとると、受けの二本の腕は取りの腕に直行して縦に並び、魂氣の結びが成立する。回外の場合同時に受けの体軸が取りの体軸に向かって傾くことで魄氣の結びも成り立つ。取りは外転換したままで右または左自然体の相半身である。
降氣の形から額に結んでの前方回転や踏み替えての入り身転換などで、魄氣の陰によって軸足を作るにはこの自然体で受けと結ぶ段階が必須であり、結ぶために軸足を作り魄氣を陰にすると受けの諸手の陽に付け入られる。この認識が肝要である。
2012/10/31
4. 互いの隙 隙と隙間
受けが手順に攻撃を意図しなければ明らかな隙であり、またそれを認めずに取りが相対動作を行う場合、第三者からみると互いに隙を晒していることになる。つまり武道性の欠如する動作を互いが容認する羽目に陥る。
理にかなう自然な動作の現れこそ武技の産まれる素地であり、相対動作の成り立ちが可能となる。
また、単独動作では自身の当該部位に動きの中で隙を作ることによって、他の部位の有効な動作が初めて可能となる。しかし、その隙は当然魂氣三要素と魄氣三要素にかなうものであらねばならない。
隙のない間に厳密な動作(相手からみて隙のない動作)は産まれない。単独/相対基本動作において心すべきことであり、武術性の要である。
*11月7日幸町道場稽古 “魂氣が丹田に結んで出来る隙間に足腰が進む”
2012/11/9
5. 合氣が武を産むために
あり得ない動きは巡りの無い魂氣
あり得ない足腰の形は陰でも陽でもない魄氣
あり得ない投げは結びの無い取りの動作、もとより魄氣を捨てる受け
巡りは陰陽と結びの間にあって魂氣の中核
武術性を欠く相対基本動作は組み太刀と乖離する徒手
また、受けの普通の動作にこそ武を産む素地がある。
開祖は魄を戒め一方で魄を磨けとおっしゃっている
この真意は、魂氣を忘れ魄氣に頼る上肢を戒め、同時に正立を捨てた魄氣の脆さを戒めるものであるはずだ。単に肉体の力と精神の力を比べているものでもなければ、まして前者を軽んじているわけでもない。
自身を磨き合気道を体得しようとする熱意の尊さ
それに答えるべき信義
2012/11/12
6. 合氣道を続ける心
開祖の超越的な術技や存在を崇拝することが基軸となり、集団で心身の働きを向上させようとする武道こそ合氣道である。
開祖はいわば超越した存在であり、その技はほとんど尋常(当たり前)ではなかったという。しかし合氣道を学ぶものにとってはそれを到達すべきものと考え、またその過程では時として術技の奥義について問わないこと、つまり型稽古を受け入れながら体得を期待する場合もある。つまり、合氣道の稽古には非常識的術技がすでに成し得るかの様に動作する一面が確かに存在する。たとえば初心の児童や成人の初心者が有段者の大人と様々な稽古を行う場合である。このような稽古の成果を信じて安心と期待を持とうとする心のはたらきは、持続する心の一部分であろう。そして、さらには確信の積み重ねも一層探求心を養うのである。
ところで、天啓により開祖の創始された合氣道は既存の武術や宗教から有形無形の影響を受けつつも、新たな武道としての姿を成し、今や広く知られることとなった。それにつけても、万人が意志や努力ではどうしようもない巡り合わせ(縁)によって、合氣道との出会いがあることに違いはない。その後の稽古が生活とともにあってどのような過程を経ようとも、礼に始まり互いに合氣を行うなかでの様々な体験は、運の一言に集約も出来る。
武術に取り組む身では、一方で不安や迷いや死生観を既存の宗教に求めることが歴史的にも自然の成りゆきであった。それとは別に、合氣道も含めて一武道の創成にあっては、それと宗教性との境界が微妙な場合もあり得る。愛好家にとっては、規則に基づく競技性を排除する中で、自己の修得する合氣道独自の術技について無意識的な不安があるため、他者に共感してもらい同じ術技を体得する人が増えることで、自らの信じているところが間違っていないという安心感を得ようとする気持ちもあろう。
道主や師範の方々による講習稽古に参加し、各道場間で合同稽古を実施することで、様々な修練に出会い、求めたものを新しい人に伝え、我々に元来備わっている精気を確かめ合い、開祖に先達に先祖に感謝する思いで心を新たにできることは何よりの価値ある生き方であると思う。それこそが合気道を続ける心そのものではあるまいか。
第一回大阪府少年少女合気道錬成大会を終えて。
2012/11/27
7. 下段と中段で与える魂氣の巡りに違いあり
- - - - - 逆半身下段に与えると陰の陽、中段に与えると陽の陽
下段に陰の陽で与えようとすると受けはそれを押さえに懸かるので互いの魂氣は中段から上段にかけて力の及ぶところを成す。取りが先手でその間を対側の魂氣で取る(直突き)のは与えて取らせた場合外巡りの陰に返したとき。通常は与えて取らさず陰の陽に巡って転換・昇氣で入り身運動により間を塞ぐか、降氣の形で取らせて額に結ぶか二教の手にして四方投げの持ち方で間を塞ぐ。または丹田に陰の陽で結び、入り身転換にて剣線を180度外して間を消す。
中段に陽の陰で与えようとすると互いに上下の間を作ることとなり、下は転換で剣線を外し魄氣の間を消す。上は狭義の巡りで陽の陽として取りが間を塞ぐと対側の魂氣で下から受けの手を取り、同時に陽の陰へ巡って受けの手から外す。
また陽の陽にかざして取らさず対側の魂氣で下から受けの手を受けながら、陽の陰に巡って上から受けの手首を取る。或は転換と同時に陽の陽で上半部の間を占めながら上体の入り身運動に加えて陰の陽に巡り側頸に結ぶと呼吸法表。
2012/12/7
8. 昇氣の入り身運動と一教運動表における魄氣に違いあり
陰の陽から上段に与えて受けが相半身の手刀で真中を護ると、陽の陽で結んで内入り身運動・送り足により結び、さらに巡って陽の陰で後方の足から半身を転換して逆半身にて再度外入り身運動とともに正面当て、あるいは入り身投げ表。その時は後方の足は送り足ではなく一歩進めて始めに戻る相半身……正面打ち入り身投げ表
陰の陽から上段に与えて受けが相半身の手刀で真中を護ると、陽の陽で受けの手首に結んで内入り身運動・同時に対側の手を陽の陰の矢筈で発し、受けの上腕の伸側に沿わせて陰の陽で丹田に巡らし、同側の足腰を前方の足の内側まで進めて半身を転換して、受けに結んだ手は陽の陰で巡って手首の伸側側から掴んで外方に流し、受けの開いた脇を詰めるように小さく逆半身内入り身送り足……正面打ち一教表
2012/12/12
9. 術技を成す魂氣には三つの要素あるのみ
二教と四教の共通点、 両手で絞って脇を締める。
膝の間で/肩の高さで絞って脇を締める…二教、
臍下丹田で絞って脇を締める…四教
三教と四方投げの共通点、 回外して剣で正面を打つ。
脇から中心へ…三教、
四方投げは項へ
一教と小手返しの共通点、 陰の陽で丹田に結ぶ。
上腕の伸側を丹田に…一教、
母指球と手背を束ねて丹田に…小手返し
諸手取り呼吸投げと入り身投げ一般の共通点、 狭義の陰で母指先にて降氣。
降氣は母指先を地に突き立てる…呼吸投げ、
側頸に結ぶ魂氣の楔を母指先から降氣で打ち込む…入り身投げ
呼吸法の昇氣と天地投げで受けの手の共通点、 陰の陽で体内を昇氣。
取らせた手を陰の陽で昇氣にて側頸へ結ぶ…呼吸法、
天の魂氣を取る受けの手は陰の陽で受け自身の側頸へ…天地投げ
陰陽、巡り、結びの三要素が、取りの両手、受けの両手、魄氣と結ぶ際の体軸上の“つぼ”、残心の姿勢によって様々な形を生み出す。見る人はその核心を把握し得ないのであるが、形を真似ることから始める稽古法が工夫される。ただし、魂氣三要素と魄氣三要素があって初めて形を核心に根づかせることが可能となり、その稽古法は意味あるものとなる。
2014/3/23
10. 掴み技の手始め
陰の陽で魂氣を与えたら受けのもの。
気張ってすぐに取り戻そうとしても叶わない。
呼気にて弛緩し陰の陽に巡れば、取らせたままで自身の魂氣を、入り身で迎える魄氣に結ぶことが出来る。
または、巡って更に吸気で陰から陽に伸展すれば、受けの魂氣に結ぶ。
与えるつもりでも気張ったままでは取ろうとしない、それでも掴んで押さえにくれば陰陽の巡りが無いから結べない。したがって呼吸力は産まれない。取りは押して弾けるか引っ張ろうとするか。
与えようとして取らさない時は他側の手で伸びた受けの手を取る。
または、取りの手に構わず単独動作で自身が氣結びをして受けの魄氣に取りの魂氣と魄氣が結ぶ。
魂氣の陰陽・巡り・結びが自身の魄氣の動作を可能とし、受けから弾けることなく結び、技を産み出す。
2012/12/22
11. 攻防一体
攻防一体とは、入り身・送り足で結ぶ初動のみならず、技を産み出す残心にある。
技を終えて後に残心があるのではない。
2012/12/25
12. 正座/正立の陰の陰での入り身運動
丹田に降ろした魂氣は陰の陰であわせた両手に包まれてあるというイメージ。その両肩を結ぶ線が剣線に直行する正座から、左右の肩を前後に振り分けて前の肩に連なる魂氣はそのまま陰の陰で丹田に、後ろの肩に連なる魂氣は陰の陽で腰の後ろに結ぶ。次の一瞬魂氣と肩を左右入れ替えてこれを繰り返す。
入り身を自然本体(正立)から行えば魄氣の動作、つまり足腰の動きが加わる。魂氣の入り身に加えて魄氣の入り身が正立から導かれる。舟漕ぎ運動の陽の魄氣で魂氣の入り身運動を行うと同時に、伸展した後方の足を対側の踵に送り剣線を外す。
軸足を後ろに置いて陰の魄氣としてから(後方の足の踵を浮かしたままにしない)軸足を前に置き換えて後ろの足先から剣線を跨いで陽の魄氣*。同時に肩の前後と魂氣の丹田への結びを左右入れ替えて対側へ入り身し、前方にあった足で剣線を跨いで対側の足の踵に送る。反復入り身運動である。
*足先を進める方向は剣線を越えてそのまま真っ直ぐではなく、剣線に沿わせて膝を緩めて内側(真中)に向ける。
2012/12/27
13. 動静
静止は形。
静止の連なりが動作。
確かに、動作では形の起こりや巡りのときが容易に見て取れる。
しかし、一つ一つの形、つまり静止にあって初めて魂氣と魄氣の要素とそれらの結びが成り立つことを確認し得る。
それは単独動作でも、相対動作にあってもなおさらである。
静止を連ねて後、動作の核心が見え、最善の動作は静止の中にこそ要訣を含む。
2013/1/11
14. 残心の魄氣は陰か陽か
魄氣の陰陽
舟漕ぎ運動は禊ぎに由来するもので、合気道では魄氣の陰陽と魂氣のそれを組み合わせて連続動作として稽古する。例えば左半身でサーと魂氣を陽の陰で発するときの足腰を魄氣の陽、イェイと呼気で陰の陰にて巡るときを魄氣の陰とする。
従って杖の突きや剣の正面打ちの様に送り足による残心を含めない。前後の足の位置は固定している。魄氣の陽のとき前方の足は後方の足と同様足底全体を地に着け、下腿は地に対して垂直であり、後方の足は全体を伸展させ重心は前寄りである。陰のときは殆ど後ろ足に重心を置き膝は屈曲し、前方は伸展し足先は指が僅かに接するのみである。
武器の打突と残心
剣を振りかぶって打とうとする時、杖を扱いて突こうとする時は魄氣の陽であり、受け流しや杖巡りでは魄氣の陰であるから、その点では舟漕ぎ運動の陰陽に一致する。しかし、打った瞬間、突いた瞬間は送り足で足腰が一つになって魂氣に結び、腕と武器を通して魂氣が受けに達している。しかも、重要なことは、送り足は剣線を跨いで外しているから受けの打突と相打ちになることは無い。そして、伸びた魂氣の一方が丹田に戻るとき後方の送り足の方に重心が移り残心が落ち着く。そのまま後方の足を半歩戻して魄氣の陰で上段に構えたり八双の構えに移ったり、杖を巡らしたり、あるいは魄氣の陽で連続して打ち込んだりして魂氣の巡りに繋がって行くことが出来る。このとき剣線はそのときの互いの中心を結ぶ相対的なものであるから随時変動していくべきものである。この残心は当然舟漕ぎ運動には含まれていない。
単独基本動作と残心
残心は単独基本動作の入り身運動で稽古することが出来る。
入り身によって受けの真中へ入るということは、どの方向からであろうとも前方の足先が受けの中心を捉えていることに他ならない。手足腰の一致によるが目付けは既に崩れんとする受けの中心にこだわることはなく、それをを超えて先を見ている。全体を視野に入れて次の正立を確かなものとすることこそ残心の本質である。
陰の陽の入り身運動では初めに魄氣を陰とし前方の魂氣を陰の陽で与えるように差し出し、呼気で陰の陽のまま丹田に巡ると上肢は剣線の間に隙間を作る。そこに前方の足先が半歩進んで同側の肩・腰とともに剣線に沿ってさらに前方に向かう。相対動作なら逆半身で取りの片手を取ったまま、取りの丹田に結んだ受けの上肢と剣線の成す隙間を、取りの同側の足腰肩が受けの外側を真中に向かって進むことになる。後方の足は剣線を跨いで外し、送り足として前方の足の踵に接する。同様に横面打ち、片手取り外巡り、片手取り昇氣などで入り身を行う場合も残心によって完遂する。
残心の中心軸と魄氣の陰陽
その瞬間は両足腰が一体となりそのものが重心を支える中心軸である。自然本体が左右の足に偏らず間を結ぶ中間に重心を持つ一方で、残心は両下肢が一つになってそのものに重心がある。つまり右(左)自然体であり、そこから足腰の静止したままでも瞬時に魄氣の陰か陽に移ることが出来る。外から伺えない軸足の確立の後、両足が離れて送り足を繰り返すか引きもどせば間合いを取るか詰めることになる。
以上、残心の魄氣は自然体の軸を成し陰でも陽でもない一瞬であり、それは手刀の魂氣が巡りの中の陽でも陰でもないことに繋がる。
2013/1/20
15. 手刀は魂氣に結べない
手刀は陽でも陰でもない。陰陽の巡りという動作の途中では示し得ない、一瞬の理論上の形である。つまり究極の静である。陰陽・巡りで結ぶ魂氣の要訣に対して、手刀にあるのは結びではなくただ一点での接触であり、同じ手刀との間にあっては互いに競り合うことしか出来ない。魂氣は陰陽に巡って受けに結び、初めて受けの真中に与えることが可能となる。その時は陽で与えるか陰で与えるか、陽から陰に巡って与えるか、上肢全体が受けに接触して魂氣が伝わるか、既に受けの魄氣に結んでおり後は自在である。
いずれにしても、手刀から狭義の陰で受けの手首の一点に、取りが手首をつけて地に押さえることは、受けの中心まで魂氣を与え降ろすこととは異なる。また魂氣のイメージである掌の玉を既に手刀の段階で地に落としており、手刀から狭義の陰となった手で氣を受けに与えることは出来ない。手を受けの手首に被せて取りの手首で押さえようとすることになる。狭義の陰の魂氣は母指先の方向に気が出て巡るイメージであり、手首や肘から外側に気を出すことはない。
右手も左手も手刀から陰に返して相手を導こうとすることは開祖の歌により戒められているところである。手刀では掌の魂氣を失い既に与えることが出来ない。
2013/2/11
16. 魂氣を与えるとは
片手取りや交差取りとは、取りが魂氣を与える動作によって受けの前面にある受け自身の力の及ぶところを、取ろうとする受けの上肢によって前後左右の取りが入って行ける空間へと分けさせることである。つまり隙間を作らせることである。ただし、掌を密着して握られたときは空間が別れてもすでにその手で侵入はできない。対側の手を使うしか無い。当然受けにも対側の手が腰に準備されている。それについてここでは述べない。
受けの手が伸びたところからしっかりと握り取る寸前までの範囲では、取りが一定の主体的な動作をすることになる。それが陰陽・巡り・結びの魂氣三要素である。つまり単独呼吸法であり、下半身を含めると単独基本動作・相対基本動作へと展開される。
そもそも何をするのかわからず、ただ手本の形を再現しようと動作すれば難しさがつきまとう上に得るものが少なく、達成感の乏しい稽古にならざるを得ない。
取りと受けそれぞれの武術性、即ち互いを倒す意図と動作に加え、魂氣と魄氣をイメージして結ぶ動作による取りの正立の確保が、稽古の基本として存在しなければならない。それが合氣の本質であるからだ。
受けの中心に魂氣を与えるために、まず受けの力の及ぶところに分け入り、取りの魄氣と再び結んだ状態から改めて魂氣を受けの真中に与えて、巡らせて来るから残心に至る結びが成立する。
2013/2/16
17. 「手を出さぬ心」とは
秋猴の身とは、五輪書水之巻に「手を出さぬ心なり」「手を出さんと思へば必ず身の遠のくものなるによつて惣身をはやくうつり入心なり」「手にてうけ合するほどの間には身も入やすきもの也」とある。
ところで魂氣を与える場合はどうであろう。正面打ち入り身投げ表の逆半身外入り身や一教表の逆半身内入り身、正面当て、あるいは後ろ両手取りや後ろ肩取り入り身転換に共通する魂氣の初動は上段に与えることである。片手取りや交差取りは下段や中段に手を出して与える動作である。
また、合氣道では接触から入り身で受けに結ぶことが鉄則である。押しこんだり、突き飛ばしたり、引き落としたりでは受けに結ばず、結局取り自身にも巡り結びのできないことは明らかである。しかし、手を出さずに与えて入り身を行うという事が成り立つであろうか。
そこで、以下の様に解釈する。「手を出さぬ心」とは魂氣を始めから露にして出し切るのではなく、つまり陽の魂氣で受けに当たるのではなく、陰で接して陽に巡って結ぶ間には入り身しているという事であろう。
確かに鳥舟でも始めに魂氣を陰の陽として差し出すが、陽の陰に広げず呼気に移るや陰の陽のまま丹田に巡る。相対動作呼吸法の両手で氣の巡りを行う場合でも、陰の陽で起こり、接触して巡るとともに陽の陽で受けの魂氣に対して入り(結び)、呼気で地に降りる(陰の陽)とともに陰の陰に巡って、陽の陰へと矢筈で吸気とともに真中へ進めて行く。正面当てでは陰の陽で起こり、接触して巡るとともに陽の陽で受けの魂氣に対して入り(結び)、その場で陽の陰に巡って受けの面を覆う。諸手取りでは母指先を地に向けて陽の陰で取らそうとするが、受けが取った時には腋を閉めて陰の魂氣(降氣の形)に巡って転換や入り身に進んでいる。
秋候の身における「手を出さぬ心」とは、いきなり魂氣の陽で受けを制しようとするなという教えであろう。鍔迫り合いに押し勝つことが合氣ではない。つまり、魂氣三要素、陰陽・巡り・結び、の思いに裏付けられた動作こそが入り身を可能にすると言える。それは手を無にしておいて受けに接するのではなく、あくまでも結びに連なる陰の魂氣を動作するものでなければ技を産むことには繋がらない。
2013/2/19
18. 正面打ちから正面当て二本
陰の陽で上段に与えて巡り正面当て二本
①上を巡る:与えて接すると陽の陽で結び陽の陰に巡って正面当て。対側は陽の陰で外入り身すると受けの側頸に結ぶ入り身投げ。
②下を巡る:与えて接すると対側は陰の陽から陽の陽で受けの手の遠位で結び、与えようとした手は陰の陽から外巡り陰の陰・陽の陰で正面当て内入り身
2013/3/13
19. 横面打ちに正面当て二本
逆半身横面打ちに対して相打ちと後手
① 昇氣の陽の陽で結んで入り身、対側の手を取りの面前で陰の陰として受けの手背を被い、陽の陽の手を丹田の前で巡らし外巡りで返し突き近似により陽の陰で正面当て。受けの前腕へ陰の陽で巡り転換して丹田に結び、手背を覆う方の上肢は体側に密着し踏み替えると二教
② 逆半身降氣の形で回外して額に結び対側を陽の陰で振り込み突き近似にて正面当て。受けが異名側の手で外から内に払うことで横面打ちの腕を受け流して腰の後ろに陰の陽で結び、対側は降氣の形から陰の陽で丹田に降ろし外巡りに続き脇を閉めて回内、陽の陽で受けの外側へ逆半身横面打ち入り身。坐技片手取り外巡り呼吸法(坐技片手取り外巡りから脇を閉めて回内・横面打ち近似で入り身運動)に準じる。
2013/3/13
20. 交差取りでの魂氣のピットフォール
交差取りでは取りが魂氣を陽の陰で与えるか陰の陽で与えるかで以後の巡りには若干の違いが現れる。前者は元来諸手取りの与え方であるが、受けは任意の取り方を行うであろうから考えずに巡ることとなる。ここでは後者の場合を例として整理する。
陰の陽で与えようとすれば受けと接触して①陽の陽に進める場合と②陰の陽のまま巡る場合に分けられる。
①交差取りの瞬間は相半身であり受けの外に転換する。この時の魂氣は陽の陽で差し出し肩の高さで陰の陽に巡る。丹田まで一気に巡るがそのまま外巡りで受けの外側に逆半身で横面打ち入り身運動。受けの魄氣が取りに近づけば取りは転換の状態から踏み替え(入り身転換)だけでも良い。対側の手は横面打ち入り身運動で受けの側頸に結ぶ。
②手首より遠位だけを広義の陽に巡ろうとして手刀を作っても、たとえば一教運動表で肘や前腕の尺側を向けて受けの懐に入り身しようとしても、母指や他の指先は反対方向を向いており魂氣は悉く取りの後方へ退く訳で、あとは肩と上肢で接点を押すしか無い。なによりも陽の陰で受けに対峙すれば脇が受けの正面で完全に開き武術性はその時点で失われる。また、取りの手首伸側に上から受けが掌を密着させ、それを取りが陽の陰のまま上方に挙げようとして肘が肩の高さに引き上げられるであろうか。
気が発せられるのは手首ではなく母指先か他の指先であるから、その方向が受けの魂氣の及ばないところでなければ結びは成り立たない。何にしろ結ばなければ分け入ることは出来ないから、陰陽の巡りなければ結び無く、魂氣の結び無ければ魄氣との結びも無い、つまり合氣たりえない。
2013/3/19
21. 「そこをぬくと云事」
「敵の心をたやし底よりまくる心に敵のなる所見る事専也。」「底よりくづれたるは我心残すに及ず。さなき時はのこす心なり。」
【現代語訳】敵の闘志をくじき、敵を心の底から負けたと思わせて、それを見届けることが肝要である。敵が心底から崩れてしまった場合は、こちらは心を残す必要は無いが、そうでないときは、警戒心を残さねばならない。(五輪書 大河内昭爾「火の巻」p159)
*生死をかけた武術の教えでは、残心というと武技によって息の根を止める最終段階での油断を戒めるものであった。
しかし、合氣道は互いに活かし相和することを極める道であるから、残心の本質は大きく異なる。既に取りの上肢の武技が悉く魂氣として受けの真中に結ぶことで互いに一体となる結果、受けの攻めが成り立ち得ないことに引き続き、取りの単独動作の残心、つまり自然体としての正立で動作が終わる。
取りの魂氣が魄氣に結びながら受けの魂氣魄氣共々取りの真中を抜けて地に結ぶのであるから、合氣道の残心とは合氣の技の成立に他ならない。立ち直れない受けを見届けるのではなく、相和する技の完遂そのものが残心なのである。
2013/3/26
22. 「心に用心して身には用心をせず」
『五輪書』水の巻 「一 兵法心持の事」
「心に用心して身には用心をせず」
【現代語訳】「一 兵法における心の持ち方」
「心に気を配り、体には気をとられず」(五輪書 大河内昭爾)
*この場合「体」とは取りの体を指すか受けの体を指すか。
取りの体を指す場合
合氣道の理で解釈すると、心のたましいは魂氣として上肢に受けて動作し、
体のたましいは魄氣として地を踏む足腰の動作に反映される。そこで上肢の動きがただ足腰に直結して魄氣による動作の一部になれば、魂氣の陰陽・巡り・結びが顧みられず力技に傾くこととなる。秋猴の身や漆膠の身は成し難く、結びが無ければ上肢の呼吸との連動も曖昧となり呼吸力たり得ないからである。
受けの体を指す場合
たとえば本文では『少身なるものは心に大きなる事を残らずしり大身なるものは心にちいさき事を能しりて大身も小身も心を直にして我身のひいきをせざるやうに心をもつ事肝要也』と続く。
現代語訳:「体の小さい者は、体の大きい者の状態をよく知り、体の大きい者は、体の小さい者の状態をよく知って、大きい者も小さい者も、心をまっすぐにして、自分自身の条件にとらわれないようにすることが大切である。」
取りが魂氣の陰陽・巡りを受けの魄氣とともに動作せざるを得ない時、取りの魄氣がその要素を全うできず(入り身・転換が曖昧で)、魂氣が自身の丹田に結べない。受けの魄氣から地に向かって魂氣が分け入ろうとすることで、残心なき終末動作は合氣を完成し得ない。
いずれにしても陰の陰の入り身運動から魂氣を与えることで一旦魄氣との残心の結びを解き、陰陽・巡りの間は魄氣がその三要素を存分に発揮することができる。そのことで入り身・転換のもとに魂氣も一層呼吸力を円滑に動作し、再び天地の氣が丹田で結ぶことによって完結する。
動作においては、統一のイメージががかえって手足腰目付けの硬直に陥る嫌いがある。むしろ、魂氣と魄氣の要素が単独呼吸法と単独基本動作それぞれに則って巡ることで、静止に至る残心の結びをより確かなものとすることが出来る。
2013/4/2
23. 合氣道の武技に見る特徴
武術を広く現代人の間で共有することを意図した場合、 “互い”の心と体の健康を配慮するほどに武術性が乏しくなり、武術性を極めるほど“互い”が存立しなくなるというものであっては現代社会に相容れない。
発育期にある児童や老壮年世代にまで普遍化された技芸としての熟成はどの武道にも求められて然るべきである。近代的戦闘集団にあっては今なお確実に敵を制圧し、自らが生きるための格闘技術を伝え、研究しているはずである。しかし、そこでも日常的訓練を経て最終的に“互い”が存立しなければ意味が無い。
実際に命のやり取りを予感する無法状況とは云うまでもなく異常心理である。異常心理を想定した動作の修練で、心の持ち方が異常と正常の間をゆれうごくことは容易に想像される。礼に始まり礼に終わる稽古でありながら、社会の規範と相容れない心情で、両者が無慈悲な動作に徹することは明らかに矛盾である。従って最小限の規則のもとに、その範囲で心理の異常性を膨張させつつ動作することにより、二面性をかろうじて統一する試みこそ格闘技であろう。
異常性の調節への試みが最終的に調和のとれた人格形成に結びつくのか、あるいは非社会性へと偏った個性を作ることになるのか。また、そのような問題を個別のこととして各武道から切り離して評価すべきなのか。答えを出すのは困難である。
ところで、合氣道の稽古では、特徴的な呼吸法によって手足腰の動作に伴う意識が心身の真中に集中し且つ発せられることで、取りが正立・正座を保ち、受けが投げまたは固めによって地に結ぶ。武術性を真摯に極めるほど“互い”をよりよく生かすことに繋がり、このどちらかが不備であれば必ず両方が成り立ち得ない。合氣道とは、武術性に対して“互い”の心身の健康という相反する二面性を既に一つにした、真に現代社会に適合した武道である。
2013/4/16
24. 剣を持つ手と徒手で呼吸の違い
剣
徒手
*初動を吸気で広義の陽にて発するのは横面打ちで入り身・転換の場合だけ。
2013/5/25
25. 呼吸法とは
合氣道における呼吸法とは、呼吸と共に氣結びを成すことである。
魂氣は陰陽・巡りによって結び、受けと魂氣の結びの後は、魄氣とも結ぶ。
陰から陽への巡りでも結び、陽から陰への巡りでも結ぶ。
呼吸力とは結んだ後に受けを導く動作を指す。
その鍛錬とは、あらゆる状況で呼吸法による結びを成し、受けと共に動作が可能となることを目的とする稽古である。
2013/5/29
26. 狭義の陰陽と母指先
手背を見る狭義の陰はつまり母指先から地に向かう魂氣
手掌を見る狭義の陽は母指先から天に向かう魂氣
陽でも陰でもない場合つまり手刀では、母指先は自らに向かう。
額に巡ると魂氣は広義の陰であり他の指は全て弛緩する。従って小指から丹田に下って母指先は内方に向き広義の陰で狭義の陽と成る。
2013/6/5
手背を見る狭義の陰はつまり母指先から地に向かう魂氣
手掌を見る狭義の陽は母指先から天に向かう魂氣
陽でも陰でもない場合つまり手刀では、母指先は自らに向かう。額に巡ると魂氣は広義の陰であり他の指は全て弛緩する。
小指から丹田に下って母指先は内方に向き広義の陰で狭義の陽と成る・魄氣は入り身運動
①胸取り横面打ち・魄氣は陰から陽で入り身
②魄氣を転換して魂氣は陰の陽で丹田に結ぶ
27. 動作は軸足の確立から
自然(本)体は左右の足腰に重力が二分され、左/右半身の残心つまり左/右自然体は両足腰を合わせた一つの軸に重力が懸かる状態である。前者では両足に適当な開きがあり、後者では前方の足の踵に後方の足の内側部(土踏まず側)が接している。
倒れることとはこの静止状態から両足ともに接地がなくなることであり、途端に足以外の場所と体軸が接地し、正立へと復元しないことである。
この転倒に至る動きを除いて、静止から動作に入るということを考えてみる。それは、まず軸足を作るということに他ならない。自然体からいずれかの足腰を軸とし、他側には重力が加わらないことであり、また残心からの場合は二本の足の集合をその場で二分し、一側の足腰に体重を懸けることである。ここでは後ろの足に体重をかけることに限って考察する。
まず自然体の場合、軸足を作って同時に他側の足先を斜め前方に移動する。そこで一旦静止する場合、軸足がその場に作られ、他側の足先が体重を受けずに置かれている。これは鳥船の陰の魄氣である。
残心からの場合は、後方の足腰に体重を懸けると前方の足は半歩前に進めて魄氣の陽となり、後方の足を突っ張って静止すると中心よりもやや前方寄りに重心が移る。鳥船の陽の魄氣である。そこで再び後方に軸を置くことで膝を屈曲し、前の足を伸展して足先だけを僅かに地に接するのみとすれば、これは陰の魄氣でありこれを繰り返すと鳥船の足腰の運動に一致する
一方、前方の足に重心を完全に置き換え、後方の足を送って残心とすれば杖追い突きの魄氣である。
前方に歩いたり、後方に置き換えて後退りしたり、または前方の足先から踏み替えて振り返ったり、前後左右に進んだり、回転したりと、ことごとく軸足の設定とそれに合わせて自在に動く対側の足腰が体の動作の本質を成すのである。魄氣の陰を転換、陽を入り身の瞬間とし前の足に軸を移すのであるから、陰でも陽でもない残心・左/右自然体は、両足を束ねて一本の軸とするものであり、動静の要素を併せ持つこととなり、左/右自然体は動静一如の形の現れであると言える。
それとは若干異なる姿ではあるが、左右の足を対象的に分けた真中に重心がある自然本体も一側に軸を移すことで動作に入り、陰と陽の発現は入り身・転換に連なり魄氣三要素そのものを含むものである。故に自然体こそは動静一如であることが、再確認されるべきだ。
2013/6/21
単独呼吸法降氣において、母指先が側頸に結ぶ際の脇の開きは、諸手取り呼吸法と胸取り二教においても同様に為される魂氣の基本動作(魂氣三要素)である。
手の動作はことごとく単独呼吸法や合氣体操での手首の運動によってなされ、足腰は剣・杖のそれといささかも異同がない。しかも多くの技の所々に同じ動作が組み込まれている。則ち各技の動作それぞれに、共通する基本の動きが含まれるのである。技の種類を次々に知ってそれぞれの形を全体として憶える必要は無いという事であり、気を発するいくつかの初動から、共通する基本の要点を経て異なった技が自ずと展開すると言える。
基本の要素はせいぜい魂氣三要素・魄氣三要素である。そして全ては禊である。そう整理すれば、稽古に臨んでとんでもない課題と対峙する訳ではなく、「愉快に稽古を続け」るという開祖のお言葉が必ずしも現実離れしたことではないと云うことがわかる。
一方、この事で、合氣道の稽古が粗雑にながれてはいけない。杖の直突き一つとっても、魂氣の三要素と魄氣の三要素があますところなく及び、しかも魂氣と魄氣の結びが形になっていなければならない。
2013/7/12
①諸手取りに転換と共に降氣の形
②脇を開いて母指先を側頸に結ぶ
③ここは降氣でなく耳の後ろへ母指先から陽の陽
①胸取りに振込突きで左半身の入り身運動
②右手は降氣の形で受けの手首を下から受けて取り、右半身に胸を返して同時に右脇を開けて右手を陰の陽から陰の陰に巡らせ側頸に結ぶ。ちなみに左手は脇を開けて四方投げの持ち方から右半身と共に陰の陰で脇を閉じる。
体軸上の部位:1)前頭(天)2)側頸 3)丹田(地)4)腰 5)膝(軸足)
1)前頭(天)への結びと陰陽の巡り
⑴魄氣の陰で額に陰の陰で結ぶ
降氣の形から側頸に結び回外で陰の陰として手背が頬を額まで進み(軸足の確立で腰が落ちる事で相対的に額へと昇る)
①魄氣の陽で魂氣を陽で発して送り足残心、直後に魄氣を陰として魂氣は陰の陽で丹田に巡って結ぶ=柄の魂氣が正面を打つ:四方投げ、後ろ取り三教、正面打ち逆半身体の変更相半身外入身転換三教。
②魄氣の入身転換に合わせて陽で発する:上段受け流し・一教運動裏。
③魄氣は陰のまま前/後方回転や転換で丹田や側頸に降氣:後ろ取りの結び、突きに杖巡り、片手取り外巡り相半身外入り身転換(回転投げ、呼吸法、呼吸投げなど)、突きに横面打ち転換など。
⑵魄氣の陽で額に陰の陰または手刀で振りかぶる
送り足残心で陰の陽で降りる=正面を切るときの柄頭にある魂氣が徒手では柄を持つ魂氣に代わって額と丹田の間を巡る(⑴の①のように陽の陽で発して打ち込むわけではない):正面打ちまたは突きに横面打ち入り身・転換。
2)側頸への巡り
⑴昇氣から
丹田に陰の陽で結びそこから昇氣で、目付けを対側の外に向けて、開いた側頸に陰の陽のまま結ぶ。
⑵降氣の形から
降氣の形で手首を屈曲して母指先が側頸に向き脇を開くと側頸に結ぶ。
陰の陽ではそこから陽の陽で耳の後ろへ発して諸手取り呼吸法。
陰の陰では母指先が地に向かい胸を降りて呼吸投げ。受けが前受け身に至らなければ地についた魂氣を陰の陽に巡って指を揃えて対側の膝に向けて地を掃くと膝の上で対側の手掌により手背を受けて二教固め表。
⑶額から
額に陰の陰で結び入り身転換の後側頸に陰の陽で結ぶ:後ろ取り置き換え踏み替え同側の側頸に巡り陽の陽で呼吸法、諸手取り逆半身内入り身転換呼吸法または前方回転対側の側頸に巡り丹田に降りて呼吸法。画像は1)の⑴の③
3)丹田以後は先に掲載予定
2013/7/23
3)丹田への巡り
⑴陰の陽で
①下段に陰の陽で与え呼気にて陰の陽で丹田に巡り結ぶ:片手取り入り身転換
②外巡りから脇を閉じて回内・陽の陽で外入り身して陰の陽で巡る:坐技片手取り外巡りから外入り身
③手刀で振りかぶり入り身・転換して陰の陽で丹田に降りる:突き、正面打ち、胸取り、などに横面打ち入り身転換、下段に与えて取らさず横面打ち転換
⑵陰の陰で
①降氣の形から回外して陰の陰とし、丹田(地)に巡る:諸手取り呼吸投げ
②陽の陽で受けの胸部を昇氣・側頸で陽の陰に巡り陰の陰で取りの丹田に(受けの腰を経る):天地投げ、入り身投げ
③額に陰の陰で結び対側の側頸を経て丹田へ陰の陰で結ぶ:諸手取り回転または逆半身内入り身転換呼吸法
④外巡りで額に結び相半身外入り身転換で同側の足を後ろに置き換えと同時に丹田に降ろす:回転投げ
⑤外巡りでできる隙間へ同側の足腰を入り身して残心と共に陰の陰んで丹田に結ぶ
2013/7/26
4)腰(の後ろ)への巡り
⑴自然体から陰の魄氣で下段または上段に与える際対側の魂氣を陰の陽で腰に結ぶ
⑵自然体から陰の陰で入り身運動の残心または陰の魄氣を示すとき:胸取り、または陽の陰から陰の陰で丹田に巡るとき残心として対側は腰に結ぶ:入り身投げ、小手返し、天地投げ
⑶入り身転換から体の変更時や呼吸法のとき、同側の足を後ろに置き換えるかその場で踏み替えて魂氣は陽の陽から腰に陰の陽で結ぶ
⑷上段に与えて後ろ両手取り外入り身転換に際して与えた手は腰に降りて結ぶ
⑸陽で魂氣を差し出すときの対側は腰に結ぶ:四方投げ、三教
5)膝に置く
⑴単独基本動作前方回転
外股(外旋)にした前方回転の軸足に手を置き、他側の足を廻して置き換えて軸足とすれば同側の手をその膝に置き、始めに軸とした足の膝からは手を離して腰に結び、その足先をさらに外旋する時腰の手を陽の陽で差し出す。手足の母指(趾)先が揃い陰の魄氣で一回転している。始めの軸足が前方回転後には陰の魄氣の前方に置かれている。
⑵単独基本動作後方回転
内股(内旋)にした軸足の膝に手を置き、他側を軸足の踵の後ろに跳ね上げて着地し次の軸として、元の軸足をさらに内旋して再度軸足として膝から腰に手を移すと、始めから腰にあった対側の手を陽の陽で差し出して陰の魄氣で一回転している。始めの軸足は後方回転後も軸足である。
⑶後ろ両肩取り
後ろ両手取りの場合と異なり、天地の結びにおいて額に結ぶ手には受けの手がなく丹田に結んだ手にも受けの手はない。入り身転換して陰の魄氣となっており前方の足は次の軸へとその場で外旋して踏み替えるからその膝に丹田から手を下ろす。
⑷片手取り腰投げ(合氣体操:腰投げの運動)
片手取り外巡り腋を閉めて回内で受けの手首を取って肩に巡る対側の足先を外旋し前方回転の軸足としてその膝に同側の手を置く。他側の足先を一回転して腰投げの運動で受けの手を天に差し上げる。膝の上の手はつぎに天を指し目付けもそれに合わせて振り向く。
2013/7/30
下段に陰の陽で与える
1. 取らさず受け流し
相半身で受けの外側に降氣で外す・回外して陰の陰・陽の陰で逆半身外入身・陰の陰で相半身外入身・丹田に結んで残心。
2. 取らさず外巡り
魂氣を受けの内側に外巡りで逆半身外入身・脇を閉めて陽の陽・横面打ちで側頸に当て陽の陰に巡って陰の陰で相半身外入身・丹田に結んで残心
1. 2.はいずれも残心の相半身外入身では対側の手を腰に陰で結ぶ
3. 取らせたら陽の陽で外転換/外入身転換
⑴陽の陽で外転換・降氣で外巡り逆半身外入身転換(表)
または
⑵陽の陽で外入身転換踏み替えて反復逆半身外入身転換(裏)
表裏いずれも対側の手で側頸に結び、その上から陽の陰で重ねて結び・丹田へ陰の陰で結び対側の手は腰の後ろへ結ぶ・相半身外入身で残心。
2013/8/15
残心や自然体から陰の魄氣に魂氣を陽の陰で⑴諸手によって取らせ、受けに結んで陽の陽で魂氣の響を与えることは、片手が諸手に筋力で勝るかどうかではない。取りの魂氣と魄氣が再び結ぶことで陰の陽の魂氣に巡り⑵、さらに狭義の陽で氣を発して受けの同名側の手首に陽の陽で結び⑶、同時に逆半身外入り身運動⑷で魄氣も受けの魄氣に結ぶことを伴う一連の動作である。互いの魂氣と魄氣がそれぞれに結び、直後に取り自身が再々の魂氣と魄氣の結びを為せばこれは残心であり、受けは地に結んでいる⑸。
先ず魂氣を与える時には魂氣が陰の陽、魄氣は陰となることが自然の動作である。諸手取りでは例外で陽の陰として母指先を地に向ける。受けが四教で取りの手を把持し、取りが入り身転換の陰の魄氣で向き直る形からの始まりであるからだ。
一般的に、取らせた瞬間を陽の魄氣とすれば一瞬後ろの足を軸足とする動作が必要となり、入り身も転換も後手に後手を重ねて受けの間合いとなるため基本動作の始まりとしては論外である。
⑵は呼吸法降氣の形で母指先が側頸に向かったとき、回外すること無くそのまま脇を開くことで陰の陽の魂氣が母指先を耳の下で背側へ向ける状態を指す。その間魄氣は陰のまま外転換で上肢の長さだけ後方の足先と共に丹田を受けに対して詰めて、剣線を外し目付けと共に直角を成す。この後さらに目付けを剣線方向に転じ側頸を開いて母指先が耳の下に結べるようにする。坐技呼吸法では外側から魂氣が側頸に結ぶが、この場合は前から上肢が畳まれて側頸に近づく為、側頸を開かないと結べない。
⑶は肘関節も一気に開き母指先・手関節・肘関節が一直線で肩の高さで伸び切った状態を差す。
⑷前方の足先を軸足に踏み替え、受けの両足を結ぶ真中へ取りの後方の足先を進めて置き換えるため陽の魄氣となり、送り足で完成する重心の完全な移動である。取りの両足は接して一つとなり、重心はそれにある。
⑸ ⑶で魂氣が受けの同名側の手首に結ぶと共に撓側部が受けの側頸に当たり、接触面から受けの底に響いた魂氣が抜けて取りの体側に結ぶから、残心と共に受けは取りの背側に螺旋で落ちている。
2013/8/27
鳥船では陰の魄氣にも陽にも念いがこもらないことに心配したら、入り身転換の単独動作を完璧にやって見せ、その反復動作にも低学年児童特有の曖昧な連なりは一切見られず、正直驚いた。普段の稽古で目にする平均的な技量を遥かに越えた動作が審査の時に飛び出すのは、日に日に成長する学童の特徴であるのかもしれない。
先日、府連盟での演武を公式の動画で見る機会があったばかりで、稽古を始めてから日の浅い人ほど確かにはっとするほど良い動作を発揮している。相対基本動作を見ていて、確認できると思わずうなる個所は、初動で見事に魂氣の結びがなされ、陰陽を限界まで巡らせ、手足腰の一致に加えて残心で終わり、目付に隙を伴わない所である。日頃の稽古にも関わらず、これらはそれぞれが容易ではない。なぜか。用語の意味と動作に魂・氣・魄の念いが浸透していることを感覚で知るほかないからである。そして、経験によって動作がなされる限りでは感得されるものではないが、受けを倒すことは筋力の仕事や弾みによっても可能であるからだ。
2013/10/9
魄氣の三要素を陰陽、入り身、転換・回転とすれば基本動作やその連なりを動作する上で心身の均衡と合理性を見失うことなく全うすることができ、動作を振り返る上でも指導する上でも有効であることを唱えて来た。これによれば剣/杖を使用するときも徒手で魂氣の三要素を動作する際も、足腰目付けの動きとして一定した連続動作が可能であることは言うまでもない。
動作とは、身体にある重心を軸として安定すること、つまり静を保つことを大前提とし、その静を保つことを目的として様々な動きを連続して行くことと言える。従って動きの中には静止が内在している。言い換えると、動くことは重心を現す軸が移動し、尚かつその軸を持って安定する静止が内在するのである。
自然本体では軸が両足に二分され重心が足の間に通るが、それ以外では陰の魄氣の後方の足に軸があり、陽の魄氣ではそれが前方の足に移る寸前である。送り足では完全に前の足へと軸が移っており、残心で両足が一つに接すると軸もその一体となった両足に存在する。しかしすぐにそれはいずれか一方の足に移り、他方の足がいつでも前後左右に動く働きを持つことになる。
動作とは、軸足が交互に移り変わる所に核心があり、付随的に魂氣が連動し魄氣に結ぶことで自然本体や残心に至り、受けとの間でも魂氣と魄氣の結びがなされて所謂技が生み出される。
従って動作のある所つねに軸足があり、そこには地に触れるのみの対側の足先があるはずだ。両足底が地に着くのは残心で両足が一つになった瞬間と自然本体だけである。
富木先生の武道論に曰く、“統一を欠く変化は弱く、変化に乏しい統一は はたらきをもたない”、“統一と変化とを具体的形体の中に同時にもたなければ形としての意義がない”
2013/10/22
組太刀の基本は詰まる所、「入身」、「受け流し」、「転換」にあると考えられる。
これを言い換えると、詰めて内に外す、外に外して詰める、内に外して詰める、の三本である。
「入身」は魄氣の陰で振りかぶり陽で踏み込み送り足で打ち、陰の魄氣で残心。剣線は取りの腹側に位置し内に外している。
「受け流し」は魄氣の陰で前の足先を腹側へ置き換えて剣線から外し(剣線は取りの背側・つまり外にある)外股で軸として一歩踏み込んで入り身とする。
「転換」とは魄氣の陰で前方の足先を剣線から外へ直角にはずして軸とし、後方の足先を剣線に直角に向けそれに接して外し陰の魄氣とすれば、半身を転換し剣線と受けは取りの腹側にあり、内に外している。次に前方の足を踏んで軸として後方の足で半歩入り身をする。
「単独基本動作1」参照
2013/11/5
徒手とは始めのうちは武器を持っているつもり(手刀ではない)の動作であり、巡るうちに受けの体の一部を把持し、残心では再び武器を納めているつもりの姿勢となる。剣や杖を用いてその単独基本動作を行うことと、徒手でそれらの動作を行う姿には何ら異同はない。ただ手の使い方においては、実際に武器を持つか、或は徒手の狭義の陰陽で杖/剣を持っているつもり(手刀ではない)で魂氣の三要素を行うか、または当て身を用いるかで多少の違いが現れる。
剣杖の長さと、徒手の場合のそれに相当する5cm程の母指とのちがいは決して小さくはない。正立したときの魂氣の及ぶ範囲は武器に相当する長さだけ半径が大きくなるわけで、その球形の広がりは武器を持っているだけで確保できることになる。
相対動作とは対峙してから魂氣と魄氣それぞれの結びに至るまでの全てである。残心に先立ち互いの魄氣が結ぶことは徒手/武器いずれの場合も間合いが詰まって消えることである。その間に現れる形は原則的にそれぞれで変わりようがないはずである。前述のごとく、とりわけ魄氣の三要素は普遍的であるからだ。
魂氣の及ぶ所が受けに比べて極端に狭い場合では、入り身における魄氣の陽の広がりは受けとの間合いに相応する。軸の移動を大きくするあまり、着地してから膝がのめっては形が崩れ、軸が曲がることになる。形を保持したまま移動を大きく取る為には、両足が地を離れてもその後の軸足の確立と送り足が円滑に成される限り形の崩れは無い。つまり飛び込んで入り身をすることも可能である。
また、外転換による陰の魄氣の足先を次の軸とする際は、少しでも受けに寄せて置き換えた後に踏み込むことで、軸を受けに近づける必要はあろう。
2013/11/8
掴む
手の指を曲げて物を強く保持する。
母指と他の指を矢筈に開き、鷲の手の様に指を曲げて物をしっかりと保持する。
包む
全体を覆って中に入れる
陰で指を屈曲弛緩させると掌はしぼむように閉ざされる。単独呼吸法では母指を伸展したまま、屈曲した示指の側面を塞ぐように置くと魂氣の玉が手に包まれるような思いになれる。
取りの手の使い方は魂氣の動作として合氣道における核心をなす。特に陽から陰に巡って体幹中心において受けの手をどのようにしてその魂氣に結ぶか。大事な動作である。
掴むと包むは大いに区別して、意味と思いと動作の三位一体として稽古することが肝要である。
一教では結んだ後に上腕には陽の陰から陰の陽、手首には陽の陽から陽の陰、陰の陰で上から掴む。
二教では陰の陽に回内して受けの小指球を包み、母指は受けの手背を介して掌に小指球を入れる。胸取りでは異名側の手を降氣の形で回外して母指先を小指球側から掌に入れて他指で手背を包む様に回内して陰の陽で小指球を包み込む。腋を開けて前腕ごと受けの上肢に結ぶと二教。
三教では陰の陽に回内して小指と薬指で小指球を、示指と中指で手首の尺側を包み自身の母指球を受けの母指球背側に当て、回外して母指先へ陽の陰。
小手返しでは陽の陽で横面打ち、陰の陽で入り身転換、受けの母指球を包む。このとき母指は手背を介して母指球を自身の掌に包む。
入り身投げでは母指と母指球を受けの項に当てて残りの指で受けの胸鎖乳突筋の前縁を寄せて母指球との間に後頸三角を包む。
四方投げでは、片手取りに転換で陽の陽にて結び、陰の陽に巡って手首の撓側を包んで丹田に寄せ、対側の手で四方投げの持ち方にて更に近位を掴む。
両手取りを四教に取り返す動作、腰投げは掴む。降氣の形の陰の陽で手首を掴み回外して母指と母指球を陽の陰で突き出し、示指の付け根をつぼに嵌める。
2013/11/12
以下の画像は「33. 動作とは」に示したものと全く同じである。そこでは魄氣・体軸に着目したが、ここでは魂氣と片手取りの本質について見ていただく。