非軸足が半歩進めば同側の魂氣は陽で発する。正面打ち、突き、昇氣・呼吸法(動画①)、鳥船のサーと発するときなどである。そして、魂氣が各丹田へ巡るときも剣線に対して開いた腋の間を非軸足が前方へ置き換わり、踏み換わる。片手取り入り身転換の単独動作に典型である。このとき魂氣は陰で下丹田に結び、同側の軸足は地に結んで体軸を作るから、魂氣は空の氣に結ぶと表現する。開祖は空の氣を地に連なり重くて動かないものとしている。
今、後ろ両手取りにおいて、上段に与えた魂氣を畳んで陰の魂氣として母指先が側頸を指し、直ぐ腋を開いて側頸にむすび、手背が頬を伝って上丹田に二教の手で結ぶとき、腋が開くに連れて同側の非軸足は前方へ置き換わって軸足へと内股で踏み換え、入り身転換が成る(画像①)。後ろ両手取りの天の結びである。ここで上丹田に結ぶ陰の魂氣は初めて軸足に結び、陰の魄氣で体軸を作る。つまり、空の氣に結んでいる(画像②)。
ここから呼吸法へと連なる動作を考察する。
対側の手はこの場合下丹田に陰の陽(小手返しの手)で結んでいる。同側の足は非軸足であり、外股に足先を向けて踏み換えることで前方回転の軸足へと交代することができる。これにより地の魂氣は軸足側、天の魂氣は非軸足側となり、陰のまま同側の側頸に降りて陰の陽で結びつつ、同側の非軸足を前方へ回転して置き換えると、再び軸足となって同側の魂氣は昇氣で側頸に結ぶ手と同じように小手返しの手で、腋を開け、肘を畳んで同側の側頸に結ぶ。
つまり、ここまでの動作により、受けに与えている手は陰の魂氣のままで、対側の非軸足を一時前方回転の軸足に交代し、同側を非軸足に置き換えるとともに魂氣を上丹田から側頸(中丹田)へ移動する(降ろす)ことが出来るのである。空の氣を解脱して、体表に沿わせながらも真空の氣に結ぶこととなる。前方回転で直ぐさま陰の魄氣で軸足へ再度交代すると魂氣は側頸に結び同側が軸足となって空の氣に結ぶ。
さらに、この陰の魄氣から前方の非軸足を内股に踏み換えて軸足とし、対側を非軸足として転換すれば、側頸の魂氣は同側の非軸足とともに前方へ陽で発して限界まで伸展することになる。これが真空の氣の結びであろう。
実際は相対動作であるから、その魂氣は受けの同名側の頸部に結び、更に巡って取りの体側に結べば、魂氣は受けの体軸へと響き腰仙部から低丹田へ抜ける。即ち受けは取りの体軸に沿って螺旋で落ちる(動画②)。
軸足側で陰の魂氣が受けと結び、次に軸足交代で非軸足となって置き換える際に、魂氣が陰のままで各丹田へ巡ることができる。他方非軸足先に合わせて魂氣を陽で発することも出来る。いずれにしても、軸足が非軸足へ交代することで、受けに与えて取りの体軸に結んでいる陰の魂氣を、巡らせたり、陽で発することが可能となる。これが空の氣を解脱して真空の氣に結ぶことであろう。
軸足のままで同側の受けに与えた魂氣を陽で発して受けを導こうとしても、解脱していないから不動の体軸の中にあって魂氣は発することが出来ない。つまり取りの手は受けを動かすことが出来ない。陰の魂氣と同側の足を非軸足に交代して体軸から分かれることによって、同時に陽で発することが出来る。この動作を裏打ちする思いこそが解脱であり、開祖が「心の持ち方」であると仰る所以であると考えられる。
2017/4/2
動画①
動画②
単独動作において、後方回転は内股で踏んだ軸足の踵を超え、非軸足を置き換えて軸足に交代し、元の軸足が非軸足となった瞬間(空の氣を解脱する)捻れを解いてその場で180 〜225度内方に回転し、再度踏んで軸足とする。それで、対側の足は非軸足に戻って(これも解脱)その場で捻れを解いて135度外側に回って足先を地に置く。後方を一回転して半身を換えた陰の魄氣となる。
相対動作では片手取り四方投げ裏が典型である(動画①)。単独動作との違いは魂氣(受けの手と取りの手)を上丹田に結んで体軸を作るところである。単独動作では自身の魂氣を軸足の膝に置き、対側を腰仙部に結んでおいて置き換えが済んで一旦軸となってから再度解脱して非軸足になると陽で差し出す。膝に置いた魂氣は、最終の陰の姿勢では同側の軸足が後ろに位置するから腰仙部に結ぶ(動画②)。
後ろ回転は、氣の置きどころと非軸足への交代、つまり解脱、を体得できる基本動作である。また、その相対動作である諸手取り呼吸法裏は上丹田への魂氣の結びにも習熟を要することから、片手取り四方投げ裏が相対動作と基本技を
ただし、はじめに陰の魄氣で後ろの軸足をそのまま後方回転の軸足とする場合は、180度の回転となり、半身は元と同じである。一方、陰の魄氣から180 度の入り身転換は非軸足を剣線上で置き換えるだけで、一回の軸足交代により半身が転換する。
相対動作、たとえば胸取り内転換に続く後ろ回転二教裏では、軸足の踵から一歩後ろに非軸足を置き換えてしまいやすい。それを軸足として半身を転換してそのまま二教を試みると、剣線を外すことが不十分であり、襟を取った受けの手を二教の手にする動作も不十分となる。
正しい後ろ回転(軸足の踵のすぐ後ろに非軸足を回して置き換える)を行えば、受けの上肢は襟を取った上体から二教で過伸展され、取りがその場で入り身転換により受けへ向き直って半身を戻せば、その上肢が畳まれて二教裏で受けは体軸が地に沈む。後ろ回転に続いて振り向く動作である。
二教裏によく見られるピットフォールを一言で言えば、後ろへの置き換えで大きく開いて踏ん張ることである。そのために軸足となりきれないから対側の足も非軸足を経る交代が為されず、両足で立ってしまう。つまり、軸足に支えられた地に立つ体軸が生まれない。したがって、受けに響くほどの魂氣が発揮されないわけである。魂氣の陰陽の巡りは軸足交代(魄氣の陰陽/入り身/転換・回転)に伴ってこそ可能となる。 “空の氣を解脱して真空の氣に結ぶ”
2017/4/17
軸足側の魂氣(手)は体軸の確立に与る。丹田や腰仙部における魂氣と魄氣の結びこそ合気であるからだ。それは対側で非軸足が生まれることに相当し、その同側の手は吸気で自由に伸展して魂氣を発することが出来る。
丹田に結ぶ魂氣を陰、空間へ発する魂氣は陽。前者は空の氣で静、後者は真空の氣と表現して動である。しかもこのことは動作のあいだで左右を交代し続けることとなる。その際の思いは陽の魂氣が陰に還る魂氣の巡りである。
非軸足への交代を伴って陰の魂氣が陽への兆しを生むことが解脱であろう。その後に非軸足は進み、同側の魂氣は同期して陽で発せられる。
一方で対側の手は下丹田か腰仙部に結びその同側の軸足と共に新たな体軸が確立する。動作に伴う手足腰目付けの一致であり、典型は単独基本動作入り身転換反復と相対動作片手取り入り身転換から体の変更の動作である(動画①②③)。
2017/4/27
坐技では、受けの正面打ちに対して後手のとき、同名側の手で鎬を作り同側の膝で剣線を外して軸とするも、受けの手刀で地の側に区切られる空間(空の気)は立ち技に比べて間合いのかげんから極度に狭くなる。つまり、異名側の手で返し突きを受けの上腕伸側に及ぼすことが困難である。
杖返し突きから上段返し正面打ちに学ぶこととする。
徒手正面打ち一教表は振込突き、後手には鎬を作って返し突き。
ところで、坐技正面打ちの後手に鎬の陰の陽は母指先を回外して陰の陰に巡り、対側の手を振込突き近似で上丹田に振りかぶり受けの手との接点より近位で受けの手首を下から受けて同側の膝を軸とする。非軸足側に解脱した陰の陰の魂氣は矢筈に開いて受けの手背に沿わす。同時にその非軸足を後に置き換えて剣線を開く。
その振り子運動による軸足を中心に上体はさらに入り身運動を伴い、同側の魂氣は上丹田から陰の陽で下丹田へ巡る。受けの上肢は伸側が天を向き取りの陰の陽の魂氣をから成る腋に包まれ、手背側から同名側の手で小指球を二教に包まれる。
正座に戻るとき受けの手は同名側の手で二教に包まれたまま母指球が取りの側頸の付け根に結び、取りの対側の手は、四方投げの持ち方と同様に腋を開いたまま(鳥船の魂氣ホー・イェイ近似)陰の陽から陰の陰で手指の第三関節から手首・肘を一直線に緊張させて、そのまま腋を閉じるに連れて振り子運動で受けに体軸を寄せる。
2017/5/11
一教表の魄氣、即ち足腰の動作は、入り身から井桁に進む足運びとなる。通常行われる稽古では、振込突きの動作と共に二足で進む残心(動画①)と、鳥船の陽から陰の魄氣に巡って体軸が移動せずに戻る動作(動画②)の二方法に分けられる。後者では非軸足の膝をその場で地に着けて、受けの上腕に結んだ魂氣を下丹田に巡らせたまま地に結んで正座から振り子運動によって固める(動画③)。
鳥船の陽から陰の魄氣に戻して体軸が進みきらない動作とは、難場歩きで山道を一歩登りかけて、もとの位置に留まる動作に近似する。
ここで、一段上に昇るときの難場歩きを詳述する。まず、どちらの足で上がるかを決めて、軸足と非軸足の区別をする。そして、非軸足を上の段に置き換えて陽の魄氣とし、軸足を後の足から前の足に交代させるために非軸足側の魂氣を膝において魂氣と魄氣の結びが行われようとして、いよいよ後の足が地を蹴って前の足元に移動し、二本で一本の軸足を作ると同時に体軸の完全移動が終わる。合気道ではこの瞬間の姿勢を残心とする。
今、難場歩きで山道を一歩登りかけて、もとの位置に留まる動作を思い浮かべてもらいたい。一教であるから魂氣は膝の上ではなく、両手で氣の巡りを同時に行う。非軸足側の魂氣は振込突き。対側は、最初に魂氣を与えた手であり、陽の陽で受けの手刀に結び、そこから井桁に進み(直角に方向を変えて)受けの真中へ向かうために軸足側の手として上丹田に結び、陰の陽へと相対的に巡った状態となる。空の氣を解脱する動作の反対である。
振込突きの非軸足は魄氣の陽となって、その脛は鉛直に立つ。対側の軸足は全体に伸展して地を踏んでいる。鳥船のホー、あるいはサーと魂氣を前に発して体軸が前寄りに揺れ動いた状態である。魂氣は振込突きの陽の陰から陰の陽に巡って下丹田に結ぶ。魄氣は陰に巡って鳥船の陰の魄氣であるから体軸は元の軸足側に戻る。上丹田に在った魂氣は陰の陰に巡って受けの手首を包み、鳥船の魂氣同様に杖尻を後ろへ手繰る動作である。
ここから固めの動作は冒頭に記した(動画③)。
軸足交代と体軸の移動に残心の伴う入り身(動画①)。それに対して、軸足の屈曲・伸展を経て再び屈曲する軸足に戻り、結局体軸の移動を行わないのが鳥船である(動画②)。
2017/5/15
片手取り昇氣呼吸法表である(動画①)。片手取り外転換における前の非軸足をそのまま剣線に対して直角に踏むことで軸足を交代する。受けの目付けと同方向に目付けを定める(上体の入り身運動により捻る)ことで、踏み込む腰を先ず受けに向けて接し、同側の畳んだ手により陰の魂氣は開いた側頸に結ぶ。
そこから吸気で非軸足と腰と共に手を自由に伸展して前方(それぞれ受けの背側と同名側の頸)へ進める。その足腰が受けの体軸の直下で次の軸足へと交代すると同側の手は呼気で取りの体側に巡って、同時に後方の足で地を蹴って前の足の踵に接すれば残心である。呼吸法表の技が生まれて受けは取りの背側を螺旋で落ちている。
この過程で、非軸足と腰が受けの方へ早々と踏み込まれた状態で同側の手を伸ばすと、軸足交代による体重移動とそれに伴う腰の捻り(正しくは捻れた腰の解放)が同期せず、つまり、足腰が早く開き、手だけで受けを押すことになる。
以前、魂氣の陰陽について、ボールを握って投げ放つ手とグラブを着けた手にたとえて説明した。ここでは昇氣・呼吸法をセットポジションからのピッチングフォームに当てはめて、その術理の解説を試みることにする。
昇氣呼吸法とは、グラブを体に着けて同側の踏み出す足を一旦は軸として静止し、軸足を対側に交代していよいよ踏み出すとともに同側のグラブを着けた手が受けの同名側の頸に当てる動作に相当する。もっとも、目付けはピッチングと逆で、終末まで受けの方に向けない。体軸の移動が終わるまで打者から目をそらしたままでいることになる。仮に、踏み出す側の腰と上体と目付けが早く開くと、体軸移動とグラブを持つ手の伸展が受けに十分響かないことになる。
つまり、グラブを持つ方の背と腰がはじめから開くと受けとの体軸の結びを欠き、呼吸法とはならない。呼吸とともに氣結びを成すのが呼吸法であるからだ。先ず吸気とともに魂氣を下段に与えて、呼気とともに外転換で取りの腰と肘が受けの体軸に接することで魂氣が受けにも取りの側頸にも結び、軸足交代して吸気で魂氣を発して。巡り、取りの魂氣と魄氣が自身の体軸(体側と下丹田)に結ぶと、継ぎ足で二本の足が一本の軸となって呼気で一瞬静止し、初めて技が生まれる。これは入り身の完結した残心の姿勢である。
魂氣も魄氣も陽が吸気相、陰が呼気相。これを体得することこそ呼吸法なのである。
開祖曰く、“世の根元たる一元は精神の本と物体の本の二元を生み出し、複雑微妙なる理をつくり、 中略 身体の技は力少なし。
精神の武は魄阿吽をもって明らかなる健やかなる清き力を出し、つとめて尽くすに至るべし。 中略 ゆえに合気道は自己を知り、宇宙万有の妙精を自己に吸収し、 中略 理を溶解し、法を知り、光ある自己の妙技をつくる道である。”
また、“真の自己を生み出す場の体を大切に扱い、魄を大事に扱うことを忘れてはならない。”と。
動画②③④で習熟の過程を知り、用語と氣の思いとそれぞれの動作の三位一体こそが、身体の隅々に合氣の技をつくることや、魂氣と魄氣の動作の同期、いわゆる手・足・腰・目付けの一致を理解することができる。
当会員におかれては、開祖のお言葉にある「真の自己を生み出す」ために、「身体の技は力少なし」「魄阿吽をもって清き力を出し」「魄を大事に扱うこと」で魂氣の働きを存分に発揮すべきことを修錬していただきたい。軸に与る魂氣と自在に発する魂氣こそ陰陽の氣であり、難場歩きも四股を踏むのも足腰の動作に偏らず、またピッチングでは、左右の手の違いを軸足交代と体軸移動に合わせて知ることに努めなければならない。
2017/6/1
6. の片手取り昇氣呼吸法表について
そもそも、言葉の表現では片手取り外転換・昇氣・呼吸法が表であるから、①外転換を基本通り行うこと、つまり、入り身転換(裏)と厳密に区別することが肝要である。剣線を外して、入り身で間をつめるのが外転換・入り身、間をつめて剣線を外すのが入り身転換である。先手後手、対武器といった間合いに関わることであるから、武技の根本である。剣線を渡ることと外すことは生き死に、勝敗に繋がることであるのは言うまでもない。
表は外転換・昇氣・逆半身外入り身と連なり、裏は逆半身外入り身転換・昇氣・反復入り身転換へと連なる。
次に、②転換も入り身も入り身転換も軸足交代を確実に行うこと。軸足と非軸足が区別されない限り体軸の確立はなく、したがってその移動は成し得ない。つまり、体軸はぶれて不安定となり、陽で発する魂氣は受けに響いて取りに巡るまでの氣力を持ち得ない。一瞬、筋力で補おうと反応するから、更に体軸は自ら弾けて大きく傾く。
②については言い換えると、軸足は十分屈曲して体重をしっかりかけ、非軸足を伸展させて地から完全に離さなければならない。軸足交代ではそれが発条(バネ)として一気に弾み伸展し、対側の足が十分屈曲して軸足となる。そのことは回転に繋がり、結局魄氣の陰陽、すなわち鳥船の足腰に尽きる(動画)。
2017/6/3
開祖は『合氣神髄』の中で〝形〟という言葉を頻回に用いておられる。文脈から読み解くと、明らかに肯定的意味で読者に伝えている場合と、否定的な説明に用いられている部分の二つに大別できる。
全体では42カ所に〝形〟という言葉が見られ、そのうち肯定的には18カ所、否定的には24カ所である。
以下は肯定的形である。
どんな形にも身を変えて
宇宙の愛の働きのいろいろの形
世の中すべて愛によって形づくられる
武は善の形を示した大和合
天に三元の形
左右の形の結び、禊で左右左せよ
五体のひびきの形に表れるのが産び
円という形は氣結びであり技を生む
合気の稽古は気形の稽古
気形として前進法を教える
真剣の形
よき指標となるよう善の形を示し
次に否定的形であるが、
合氣道には形はない
形にとらわれるな
魂の比礼振りであり形ではない
形のない世界で和合
形はおそい
魄の世界は有形
目前の勝敗という形
無形の真理
武の極意は形はない
形から離れた自在の気なる魂、魄
形を抜きにして
形にとらわれるな
以上、いずれにも同じ語句の重複出現が認められる。
一般に、魂・氣・魄という言葉があり、それらを思い浮かべ、それぞれの三要素を動作するなかで生まれる術技が合氣であると理解される。つまり言葉と思いと動作の三位一体を稽古して生まれるのが様々な合気の姿・形である。
一方、合気の姿を見て、その〝形〟をなぞる稽古には氣という言葉があっても、氣を思うことによる魂氣三要素と魄氣三要素の働きはすでにない。同じ漢字で表現される〝形〟という言葉のこの違いを知らなければ、三位一体の稽古に触れることはできない。
つまり、稽古に苦心しながらも、一方でその積み重ねの中から着実に合氣道の達成感を楽しめる稽古であれ、と開祖はひたすら『合気神髄』で述べておられるのではないかと考えている。
2017/6/14
両手を広げ指の先まで伸ばして胸を十分に開き、極大まで息を吸うとき、その指先から魂氣の流れが空間に迸り、その分上肢の屈側には天から魂氣が降り降りているという思いによって、呼気相へと移る。両手は弛緩して指の屈曲に伴い魂氣を掌に包み、畳んだ肘と腋の間で魂氣は次第に体側に寄せられる。
手首も屈曲するが母指は弛緩によっては屈曲せず、伸展したまま示指の第二関節に置かれて掌に蓋をすることとなる。しかもその母指先は肩の高さで左右の側頸を指す。
そこで呼気を続けて腋を開くと両母指先は左右の側頸に着き胸骨上窩から正中を下降し、中丹田を経て下丹田へと降りる。両手背は左右から密着して静止すると魂氣は下丹田に結んだことになる。
坐技単独呼吸法降氣の形である。
吸気で魂氣を全指先より発して同時に伸展した上肢の屈側に(真空の)氣を受けて、それを呼気で畳んだ上肢と掌に包んで側頸を経て中丹田を降り、下丹田へと結ぶ動作である。
呼吸のいずれの相においても、つまり魂氣の広義の陰陽にかかわらず、母指は常に伸展したままで、魂氣の流れが途絶えることはない。特に、広義の陰の魂氣では母指を除く指は小指から弛緩屈曲して掌を包むように母指球と母指に向かって畳まれていく。まさしく母指球と伸展した母指に向かって魂氣が注ぐように動き、同時に手首が屈曲しつつ丹田へと上肢が密着していく、すなわち氣結びの単独動作である。
2017/7/3
即ち、非軸足への交代とともに魂氣は発する
非軸足の置き換えとともに同側の魂氣を陽で発して、陽の魄氣から入り身で軸足へ交代すると魂氣は陰で巡り丹田に結ぶ。そこでは軸足と同側の手が、魄氣と魂氣の丹田への結びを動作して体軸を生み出すことになる。この瞬間の静止が残心である。入り身運動(動画①)
一方、非軸足から軸足へと交代したときから同側の魂氣を発しようとすれば、魄氣は丹田に連なって体軸を作るが、上肢は体幹から離れることになって体軸に与る働きがなされない。すでに残心となっていなければならないところでなおも魂氣を陽で発するには、一旦同側の軸足を対側と軸足交代して非軸足にしてから、その足を置き換えつつ同側の手を陽で差し出すことになる。
〝空の気を解脱して真空の気に結ぶ〟動作である。
単独呼吸法坐技の昇氣(動画②)を用いた片手取り外転換昇氣呼吸法(動画③)が基本的で解りやすい例である。
魂氣の巡りと魄氣(軸足)の結びの関連は、呼気では軸足への交代と共に同側の魂氣が陰で巡り、空の気を解脱(一旦同側の軸足を対側と軸足交代して非軸足に)してから、その足を置き換えつつ真空の気に結ぶ(同側の魂氣を陽で発する)。入り身転換昇氣・反復入り身転換呼吸法(動画④)
2017/7/1
入り身とは、正立した自然本体であれば左右何れかの足を軸とする陰の魄氣とした後、陽の魄氣を経て軸足交代し、継ぎ足で両足を一本の軸とする残心によって終わる。相対的には間を詰めて攻撃を可能とする位置に身を置く動作である。したがって互いの真中を結ぶ線、剣線、を外して非軸足を進めるが、足先と踵を結ぶ線は相手の中心に向かう角度で地を踏む。この瞬間は陽の魄氣であり同時に軸足は伸展して地を離れ、前の足の踵に接するように送って地を踏み、両足が一つになって直立する。単独連続動作ではその場で繰り返すことから非軸足は敢えて前に進めない。下丹田に結ぶ陰の陽の魂氣、小手返しの手、に注目(動画①)。
相対動作では横面打ち四方投げで正面打ち入り身運動近似の残心によって技が生まれるところを一例として示す(動画②)。
しかし、剣線を外して非軸足を進める際、足先を受けから45度外に向けると、継ぎ足は前方の軸足に接するとともに軸足とはせずに足先で前の足の内側を通って踵をその足背に被せて、陰の魄氣のままで軸足交代を確立する。いまや、僅かに前に位置する非軸足をあらためて剣線、つまり受けの中心、へと入り身で進めることが出来る。これは井桁で進めると呼ばれている。両手取り天地投げで残心に至る入り身をその一例として示す(動画③)。
2017/7/17
呼吸とは生理的に腹式呼吸と胸式呼吸を交えて行うものであるが、意識的にも無意識的にも手足腰の状況に応じてその配分が定まることになる。
合氣道で行われる呼吸法にたいして一つの定義付けを試みるなら、呼吸によって取りが受けの接点より中に入ることであろう。つまり、接点で反発によって離れることなく、衝突のため呼吸を止めて筋力を及ぼし続けることも無く、それでいて受けの力の及ぶ空間に取りの手が入るか、体の大部分が入ることで取りの体軸までが受けの中心に接し、その上で手が受けの体軸を貫いて自身へ巡る間に受けの存立を失わせることである。
そのためには一方的な力の働きだけでは成し得ない。離れずぶつからず入るために、それなりの速さと柔らかさと勢いが必要となろう。手の緊張伸展が吸気によってもたらされ、呼気ではたちまち弛緩屈曲していずれの場合も円運動を可能とし、その間に魄氣の働きである体軸の確立と移動が行われ、再び吸気が緊張伸展をもたらして全身の存在力が受けに及ぶ。
呼吸の遅速を適宜行えば、手は魂氣を受けて陰陽に巡らせ、丹田に落ち着くまでを氣の思いとともに動かすことが出来る。このように行われる仕事量こそが呼吸力に相当するものであろう。
誰にも理解できる言葉と思いと動作を三位一体で修得し伝達するものこそ普遍性に他ならない。
2017/7/19
目付けが地を向くことはなぜ術理に反するのか?
目付け(視線)が水平に向かうとき視野が最大となる。術者にとって視野が僅かでも損なわれるなら、それだけ勝機を逸する危険性が増す。視線が水平を向き、体軸の直立するとき、体軸の移動と四肢の能力は最大限に発揮される。
以上のことは初心者の心得であり、総論的に指導を受けて数々の単独基本動作や終末の姿勢(残心)において体得すべき術理の一つである。ここでは目付けが核心となる相対動作の一つについて考察する。
それは、片手取り四方投げに至る回転の軸足確立における目付けの重要性である。軸足を作るときに足先の内外への回旋にともない、膝の軽い屈曲が体軸を全体に沈めることとなるが、その際に、前傾して目付けが足先に向く瞬間を容認してはならない。
その理由は以下の通りである。受けに与えた手を、外転換による軸足交代と共に陰の陽に巡らせ回外して側頸に結び、対側の手で四方投げの持ち方から上丹田に振りかぶり(手背を額に着ける)、同側の非軸足を回転の軸として踏み替え、受けの手を通してその体軸を崩して取りの体軸へと密着させる。互いの魂氣の結びが取り自身の魂氣と魄氣の結び(振りかぶり)に進展すると、受けの手と体軸が取りの体軸へと結ぶことになる。
さて、剣を振りかぶるに際して、足下に目を遣ることはあり得ず、まさしく打たんとする正面を向くのは当然であろう。
ここからは回転して魂氣を正面打ち近似で発すると、受けの畳まれた手と共に受けの項に取りの魂氣が突き出されて受けの体軸へと響き、入り身・残心に伴う魂氣の下丹田への巡りが受けの底を抜いて、ついにその体軸は地に崩れ落ちる(動画)。
徒手での振りかぶりから足下を見続けると、魂氣は上丹田に結ぶことが出来ても回転に際しては頂丹田を通りすぎて後頭部を滑り降りることであろう。そのとき、取りの魂氣は非軸足と共に体軸から受けの体軸に向かって、一気に注がれるというわけにはいかない。まして、受けの項から体軸にひびいて底を抜くところまでいかず、仮に、受けの畳まれた手が側頸に及び、体軸から同側の軸足に受け止められたなら、受けの腰が落ちることはない。さらに、取りの前屈みが続く限りは魂氣が下丹田に結ぶことはなく、残心に至らなければ技は生まれない。。
2017/7/27
魂の比礼振りとは、広義の陰陽に巡る兆しを手首で動作することと言える。
上肢のさらなる近位においては、呼吸に伴う肘の屈伸と腋の開閉がいずれも広義の魂氣の陰陽に直接関連する。たとえば陰の陽で下丹田に結んだ魂氣は、包まれた掌を狭義の陽で天に向けるだけでも手首を限界まで屈曲させて腋を完全に閉じているが、肘については上肢を下丹田まで伸ばす分、むしろ開いた状態となる。
これを上段に与えるには、母指先が徐々にその方向を指すように腋が開いていく。掌は魂の玉を思いながら包まれたまま受けの力の及ぶところに至ると、受けが手刀で真中を守るから、その手首に取りの手首が接触する。その瞬間に手首と全ての指先が伸展して掌が開いて、接点から受けの内側に入ることとなる。
掌を開いて魂氣を与えただけであるから肩や肘はそれ以上に力を接点に及ぼすことはない。ただし、同側の非軸足は接触では止まることがなく、開いた母指先に合わせて母趾先がさらに拳一つ分中に入り、魄氣が陽から入り身で軸足へと交代する。同時に後方の足は前の踵に送られてそれに接するが、そのままでは残心とすることが出来ない。なぜなら、軸足側の手は受けの手に結んで互いの体軸は接近したものの、魂氣が受けの体軸までは及ばず、まして取りの丹田に巡っていないからである。
元の軸足は前方の踵に接して止まることは出来ないため、交代したその軸足の内側に沿って足先が前に進み続け、半身を転換して陰の魄氣となるのである。すなわち動的静止であるところの左/右自然体である。このとき、掌を開いたままの手首は、軸足交代による体軸の前進により、相対的に巡って自身の上丹田(額)に結んでいる。つまり軸足交代と魂氣の結びにより体軸が確立している。
相対動作での陰の魄氣は動きの最中であり、鳥船の右半身(イェイ・イエィ)に相当する。すなわち軸足の甲を覆う非軸足と同側の魂氣は、一瞬の呼気とともに畳まれて側頸に在り、陰の陰で弛緩している。それは単独呼吸法坐技〝両手で氣の巡り〟の動作に他ならない。次の瞬間吸気で一気に振込突きとして受けの真中へ非軸足を進めると陽の魄氣である。軸足交代を挟んで半身を転換して直角に進むわけであり、これは井桁に進むと表現されている。
振込突きであるから魂氣は巡り、魄氣も陽から入り身で進むことはなくて陰の魄氣に巡る鳥船の動作となる。魂氣は受けの上腕の伸側を包んで陽の陰から陰の陽で下丹田に巡る。
額に結んでいた手は相対的に陽の陽で下丹田に降りて、なおも受けの手首に接点を持ち、そこで狭義の陰に巡ると受けの手首を把持することになる。
以上、正面打ち一教表の技が生まれる中で魂の比礼振りの動作が果たす役割を説明した。次に正面打ち一教裏について、魂の比礼振りに相当する動作を考察する。
裏とは、掌を包んで上段に与えようとするも既に受けが先手で取りの真中に振り降ろす瞬間である。陰の陽の魂氣は発することが出来ないで、取り自身の額に結んで同側の非軸足はその場で剣線を外して軸足とならざるを得ない。すなわち、後方の軸足が非軸足となって同側の手とともに返し突きで逆半身外入り身とする。それは更に軸足交代を伴いそのまま入り身転換により魂氣は返し突きの陽の陰から陰の陽で受けの上腕を包んで巡ってくると、転換した陰の魄氣の下丹田に結ぶ。その間、取りの額に陰の陽で結び受けの手刀の手首に接した魂氣は、相対的に陽の陽となって同側の非軸足先に揃う。入り身転換で額を上端とした体軸が受けの体軸との間をつめることで、振り返ると額から離れた手は中段に差し出されている。
同側の非軸足を後方に置き換えて後ろ回転に移ると、同側の魂氣は陽の陰に巡って受けの手首に手掌が貼り付き、陰の陰で掌とともに受けの手首を包む。把持しながら非軸足に合わせて後ろへ置き換える。鳥船のイェイで下丹田に巡った魂氣を後方へ移す動作である。さらに言えば杖尻を手繰る動作である。後ろ回転に続いて陰の魄氣の軸足から地に着いて正座して固め(動画①)。
掌を包んで丹田に結んだ手を与えて、先手では受けの手首に接して掌を開き、手首から遠位が弛緩し。狭義の陰陽の巡りも交えて屈曲し、再び掌を包む。そこに空間があれば自身の丹田に魂氣を結び、受けの手首や母指球、側頸があればそれらを包み込む。すなわち、矢筈から鷲掴みを試みるのではなく、小指球からの包み込みである。昇氣呼吸法、小手返しや二教の持ち方、正面打ちに対する一教や入り身投げ(動画②)の魂氣の結び方などなどである。
2017/7/28
天から受ける魂の氣は体軸に沿う各丹田に呼気で結び、吸気では主として側頸から発せられるが、同時に伸展した上肢の屈側に天から受ける思いが連なり、繰り返す呼吸とともに巡りは途絶えることがない。
禊では鳥船によって下丹田を中心とする前後の巡りと水平の巡り、そして天空の巡りを動作する。
単独呼吸法坐技と単独基本動作では縦(天地、上丹田と下丹田)の巡りである。
前後の巡りでは母指先が地を指したまま、屈曲した小指から示指までが下丹田を指して巡ってくる(画像)。
水平では両手が母指先の反りによって円運動へと巡る。
天地では母指先の反りで天から地へ巡る。横面打ちでは母指先が頂丹田から離れ、小指球で下丹田へ降りて、母指を除く小指から示指までが弛緩屈曲して下丹田に結ぶ。
昇氣は母指を除く小指から示指までが下丹田から胸部(中丹田)を経て母指先が側頸へ。そこから吸気に移り母指先から陽で発する。呼気に転じると側頸に巡って下丹田へ降りる(動画)。または、母指先の反りで伸展したままの上肢は腋が閉じて小指と尺側が体側に密着する。相対動作の片手取り呼吸法が基本である。
振り込み突きは吸気で腋が最大限に開いて母指先の反りで頭頂へ、呼気とともに小指球で体側または腰仙部に振り下りる。
返し突きは天地の巡りの陽の陰で発して、呼気でも母指先の反りが持続しているから陰の陰で下丹田まで巡る。単独基本動作の一教運動裏が典型である。
直突きの巡りは特異である。伸展した母指が一直線で前方に発せられ、上肢の伸展の後には呼気で腋が閉じて体側に降りるが、途中で受けに払われることから円運動へと代わって技が生まれていく。横面打ちに内転換四方投げ表や片手取り相半身外入り身転換回転投げや呼吸投げに見られる。方向が変わって入り身転換によって腰仙部に結ぶなど、直線的な魂氣が受けの払いで、受動的に巡りの軌跡を辿るわけである。
取りが真中で直突きをするとき、受けがそれに先立って片手を体側から真中へ移し、取りの攻撃の手を一点で防ぐことは出来ない。理合を無視して、受けがはじめから防御ありきで動作するところには、取りが直突きを動作するわけにはいかない。
魂氣の巡りの途絶える相対動作が合気の技を生み出すことはない。魂氣の陰陽、巡り、結びという緻密で確たる相対動作が在って初めて技が成り立つ。これら魂氣の三要素で現される手の動作に対応して、地から受ける魄氣にも陰陽、入り身、転換・回転という三つの働きがあり、足・腰・体軸・目付けの動作を可能としている。それら魂氣と魄氣の機能的な同期が、つまり合氣の動作と言うことになろう。
そこで、氣に関わる語句とその思いに相応する具体的な相対動作を抜きにして、合気道を体得することは出来ない。言葉と思いと動作の三位一体でこそ合気道は現実のものとなる。
2017/8/6
魂氣を掌に包んで陰の陽(小手返しの手)で与えると、受けが手首の伸側を掴む。伸展した上肢は手首を屈曲させたまま腋を閉じると、足腰が迎えに入って下丹田に巡ることとなり、前腕がほぼ鉛直となって受けは緻密に把持することができる。したがって下丹田に結ぶとともに受けの魂氣は取りの魂氣に連なって下丹田から取りの体軸に繋がる。取りと受けは氣結びを成したわけである。片手取り入り身転換における魂氣(手)の動作である(画像①)。
与えて取らせたまま下丹田に結んだ手と同側の軸足は体軸を作り、陰の魄氣の姿勢をとる。鳥船のイェイである。つまり軸足は同側の腰と下丹田に連なり、正面に対峙する体軸が出来る。そのとき取りの軸足側の背は受けの異名側の胸に当たらず離れずで、触れているはずだ。陰の魄氣であるから軸足の対側の足は当然のように非軸足であって、足先だけが地に着いている。その同側の手はもともと腰仙部に陰で置かれていた魂氣であり、今や非軸足とともに陽の陽で差し出される。片手取り入り身転換における陰の魄氣の姿である(動画①)。
片手取り入り身転換から非軸足と同側の手を同時に後方へ置き換えて軸足交代すれば、陰の魄氣で正対し続けて新たな軸足側の手は腰仙部に陰の陽で結び、対側の手は受けに十分握らせたまま下丹田に結んでいる。ここで鳥船の動作近似で陽の魄氣として魂氣を下丹田から陽の陽で発すると、受けの手は取りの上肢とともに水平となり、受けの小指(球)から順に取りの手首から結びが解けていくであろう。同時に取りの上体は半身となるから、陽で差し出した手に繋がる後背部は前方に振れる。すなわち、受けの上体は、一瞬開かれた前方に向かうため、それまでの陽の魄氣から前方の足を軸として後方の足を一歩前に踏み出し、一旦半身を転換して軸足交代すれば、体の変更により後ろの足を一歩大きく再び体の後方へ置き換えることができる。同時に、受けは取りの手を離して同側の足とともに自身の後方へ巡って結び、取りに対して相半身で向き合うこととなる。片手取り入り身転換から体の変更である(画像②、動画②)。
入り身転換は陰の魄氣で受けと結び、体の変更は左右自然体の相半身で対峙している。
互いの氣が結ぶことと解けることは緻密でなければ呼吸法たり得ない。呼気相で接点から取りの魂氣が巡って受けの方へ入ることを魂氣の結びと定義する。与えて確実に繋がった受けとの接点が入り身転換で取りの下丹田に結んだときは、接点で取りの手首から近位の全てが受けの中に入っていることになるであろう。つまり、取りは接点で受けの魂氣に繋がる受けの魄氣とも結んでいるわけである。
陰で巡るときも陽で差し出すときも、取りの手首が水平に伸展した場合は、その伸側で受けの握りである小指球を中心とする指の弛緩屈曲が解け始め、緊張伸展に移っていく。なぜなら、取りの上肢が水平に伸展することで、受けの上肢は取りの体軸に繋がることなく伸展させられるからである。
接点が曖昧になれば氣結びは成り立たない。接点がなくなれば新たな接点が氣結びを可能とするが、そのとき魄氣の結びがなければ、即ち間合いが詰まっていなければ次の接点を即座に作ることは出来なくなるであろう。互いの動作はたちまち中断する。
与えた手(魂氣)は既に己のものではない。しかし、母指だけが伸展して陽の魂氣の兆しを温存しているから、足腰が迎えに行って下丹田に結べば、魂氣は陰で魄氣と結ぶことになり、合気である。すなわち、魄氣の上にあって魂氣を陽で発することが可能となる。
手を取らせながら陽で魂氣を発しようとすれば取り自身の魄氣との結びが為されず、しかも受けは十分に接点で繋がることができない。入り身転換によって互いの体軸が結ばれる前に、初動で接点が曖昧なら氣結びはない。
2017/8/13
呼吸投げとは呼吸法によって生まれる投げ技。
呼吸法とは呼吸とともに氣結びを為すこと。
氣結びには、
取りの魂氣と取りの魄氣の結び、
取りの魂氣と受けの魂氣の結び、
取りの魂氣と受けの魄氣の結び、
取りの魄氣と受けの魄氣の結びがある。
呼吸力とは、氣結びを成す技能力と、氣結びによって受けと共に動く仕事量そのものを指す。氣結びの不徹底を補うための筋力が呼吸力であってはならないし、氣結びが不完全なら受けとの協働はあり得ない。なぜなら、呼吸法が合気の核心であり、合気道という武術による自己確立の根幹であるからだ。
そして、魂・氣・魄という言葉の思いが呼吸とともに動作される、その三位一体なくして実際に合気道を体得する修錬は成り立たない。言葉と、思いと、形を生む動きの一つが欠けても合気道とは異質の技能に偏るであろう。
魂氣には陰陽、巡り、結び、魄氣には陰陽、入り身、転換・回転のそれぞれ三要素と呼ぶ働きがあり、上記の様々な結びはそれぞれの働きの中で連続して段階的に行われるものである。特に互いの魄氣の結びとは、互いの体軸が接触するほどに間合いを詰めることであり、極まりは取りの体軸が受けのそれに取って代わる場合であり、投げの生まれる瞬間である。
互いの魂氣の結びとは接点から取りの拳一つ分以上受けの側に入ることである。また、取りの魂氣と取りの魄氣が結ぶとは、取りの上肢が呼気で弛緩屈曲して下丹田や上丹田や側頸(中丹田)などに密着することである。
さらに、取りの魂氣が受けの魄氣に結ぶとは、一つには受けの魂氣に結ぶ延長でそこに連なる受けの体軸へと魂氣を及ぼす動作である。また一つは、受けの中丹田(側頸)へ直接取りの魂氣を及ぼして受けの体軸へ、そして腰仙部や底丹田へと響かせ、それらを貫いて受けに巡る思いの動作である。そのときは互いの体軸は密着し、互いの魄氣が結んでいることが要件である。
このような結びの中で、上述する如く受けの体軸、つまり軸足と腰(魄氣)が取りのそれに取って代わられると、受けは正立を失って氣結びによる投げ技が生まれるのである。すなわち、呼吸法による氣結びが成立して終末で取りの魂氣が自身の丹田に巡り、さらに結んで正立が確立するとき、これを残心と呼んで呼吸投げが生まれるのである。
氣結び無き受けの転倒は、例えば突き倒しや押し倒し、あるいは足を掛けられてつまずき倒れるなどであって、呼吸投げとは言えない。少なくとも互いの魂氣は氣結びで接触を持っていること、それが解かれて離れた時には魂氣と受けの魄氣が結んで、より間合いの詰まっていることが必然である。
魂氣が及ぼされて体軸に伝わり、相手の魄氣の底を抜いて受けに巡ってくるのに、互いの間隔が開いてはとても望めないのである。
受けが地に倒れるときは取りの体軸に沿って螺旋に落ちるのが普通である。なぜなら、取りの魂氣は自身の体軸から陽で発せられた後、残心では受けを貫いて陰で巡って上肢が自身の体軸に巻き付きながら密着して結ぶからである。天地投げ、入り身投げ、四方投げ、小手返し、呼吸法、呼吸投げなどに留まらず、一教表裏や二教などの固めも悉く術理に違いは無い。
呼吸投げの中で特定の手順から特徴的な形として現われるものには、前述の天地投げや四方投げや入り身投げなどの名称で区別されている。また、我々が呼ぶところの昇氣呼吸法はまさに呼吸法であり、呼吸投げの中に含めることもできる形を持つものであろう。
坐技単独呼吸法が相対動作として行われるところに坐技呼吸法があり、固めから投げへと展開する際に呼吸投げという概念が生まれる。そして、立ち技へと拡大して更に特徴的な手順の技には便宜上固有の投げ技としての名称が生まれたのであろう。
2017/8/18
「手刀を抑えに懸かる」と「手刀に結ぶ」
先ず手刀とは、魂氣の思いを現した動作として見れば、広義の陽ではあるが狭義の陽でも陰でもない。つまり陰陽の巡りを欠いて一瞬静止した受けの真中の守りである場合と、互いの額や側頸への打撃である場合があげられる。
取りが正面打ちで受けの上段に手刀を差し出すと、受けは同じく手刀でそれを抑えに懸かる。例えば後両手取りの初動で受けの手を引き出すとき(動画①)、後肩取りに際し転換して同側の手で受けの正面を打ち、受けの同名側の手で取りの手刀を止めて抑えに懸かる場合などである。手刀から陰に返して掌を取りの手首に被せて押し下げる動作であり、掴む場合もある。
一方、魂氣を陰の陽で受けの上段に差し出すと受けが手刀で真中を守る(画像①)。合気道では取りがその手刀に結ぶのである。そもそも母指先から受けの眼前へ魂氣を発し、眼裂に沿って陽の陽で掌を開いていくのであるから、それを防ぐ受けの手刀に対して対称的に手刀を合わせるわけではない。しかも取りの母指先は受けの目に触れず、互いの手首が作る接点の上方にある空間へと発せられ、取りの手背は伸展して掌は天を向き(受け日)、母指先の反りの方向へと反屈していく(画像②)。まさに真空の氣に結ぶ術理そのものである。魂の比礼振りと呼ばれる動作に相当するものであろう(動画②)。
鍔迫り合いのように接点を手首同士で押し合ったり、押し付けながら手刀のままで摺り上げようとする動作では、手首が固定して肩と肘でひたすら尺側を支えて腋は閉じず開かず、魂氣の働きからみれば呼気で息を詰めて陽のままで手首の接点に止まり、巡りの動作が見られないわけである。
ここで肝心なことは、「手刀を抑えに懸かる」のは受けの動作であり、「手刀に結ぶ」のは取りの動作ということになる。
2017/8/20
横面打ちには逆半身から外転換して両手で氣の巡り、
返し突きで側頸へ結ぶ。
正面打ちには相半身から内転換して両手で氣の巡り、
返し突きで正面当て。
何れも転換の非軸足側の手を受けの手刀の遠位に陽の陽で発して巡ると、軸足交代して下丹田に結ぶ。後方に位置する新たな非軸足の入り身と共に同側の魂氣は陽の陰で返し突き。
前者は受けの側頸に結ぶと入り身投げ。陽の陽に巡れば取りの横面打ちで小手返し。
後者は返し突きを内入り身で正面当てが、呼吸投げ。
2017/8/23
前者は、狭義の陽から陰に返すと言うことであろう。掌を天に向けた状態から地に向けるように手首を返す訳である。
ところで、吸気によって腋を開いて上肢が緊張・伸展され、母指先から魂氣を発し、引き続き全ての指を伸展して掌の開かれる状態が魂氣の働きのうちの広義の陽である。そこでは掌の向きを問わない。つまり狭義の陰陽に関わらず上肢を伸展して空間へと発する動作が広義の陽に相当する。
そこで、後者は、呼気とともに手指と節々の弛緩・屈曲により掌を包みつつ、腋を閉じて上肢が体幹に還ることである。各丹田に母指や手背が密着するなら魂氣が体軸に連なる魄氣と結ぶことになる。
狭義の陽に現し陰に返す魂氣の働きと、広義の陽に発して陰に巡るそれは、上肢の動作としては相伴って発揮されるものである。したがって、広義を先に述べて常に狭義をそれに続けることで、魂氣の働きと相応する動作が滞りなく表現され得るのである。
片手取りに入り身転換で下丹田へと結ぶ際は、陰の陽の魂氣。昇氣で側径に結ぶときも陰の陽で我慢すると、手首は小手返しの手で限界まで捻られる。吸気で陽の陽で発すると、上肢はいっぱいに伸展されて母指先の反りの方向へと一気に体側へと巡り、陰の陽で体側に結ぶ。この間に上肢は受けの側頸に接することで、魂氣は受けの体軸にひびいて底を抜けて取りの体側に巡るから、受けは取りの体軸に沿って螺旋で落ちる。片手取り入り身転換・昇氣呼吸法である(動画①)。
入り身投げでは、魂氣が陽の陽で取りの上肢を動作させるという思いで、受けの胸を側頸まで擦り上げ、吸気の極限で陽の陰に巡って母指先の反りに合わせ、受けの背側へと返されて取りの下丹田へと巡る(画像)。そのとき魂氣は受けの側頸から体軸にひびいて底を抜ける。受けは取りの体軸に沿って螺旋で落ちる(動画②)。
いずれも受けは取りの後ろに落ちる。取りは陰の陽や陰の陰で上肢が体幹に接し、魄氣は陽から入り身の残心に終わる。
2017/9/3
合氣道の創始者である植芝盛平翁の教えは、すなわち合氣道そのものである。
多くの門人に伝わり世界中に広まっている技や、相当する様々な動作は悉く微妙な違いをともない、同じ人が稽古をする場合でも同一の動きを繰り返すことにはそもそも無理がある。なぜなら、合気道という武道が型を追究するものではなく、相対での命の確立に根差すものであるからだ。言い換えるなら、心と体のたましいの保持に特化した、思いと技術の集積であるということになろう。
開祖が残された言葉こそ、いつ何処にあっても変わるものではない。氣を思い、そのことによって生まれる様々な身体の動作は、開祖が示されたまま今在るのだ。
つまり、『合気神髄』として吉祥丸二代道主がわれわれに伝えて下さった開祖のお言葉と、直弟子の師範が遺して下さった単純明快な禊や基本動作は変えようがないのだ。
開祖に繋がる語句と、その思いを現す禊と、基本動作の三位一体こそ合氣道そのものである。
2017/9/7
剣を取って上丹田に振りかぶるときは胸腹式呼気相であるが、そこから正面打ちに発するときは腹式吸気相である。両手で腋を閉め、胸を閉じて上肢から剣先までを一直線で上段に打ち放っているからである。鼻から一気に吸い込んだ吸気はそのまま腹に充満する思いで、しかも上丹田から伸びた手を魂氣が一直線に剣先の一点へと響き渡るように動けば正面打ちである。
振りかぶりが上丹田から頂丹田へと移る際は、胸がいっぱいに開いて胸腹式の吸気相となり、魄氣も陽で腹から前に向かって非軸足先が地を進む。そこからは入り身運動の残心とともに呼気で頂丹田を離れた母指先が上肢の伸展を維持しながら前方へ向かい、そして地に向かう円弧を描きつつ小指から順に弛緩屈曲して掌が包まれると、下丹田に巡って手背が地を向いて結ぶ。母指先は内巡りで半身の内側を指している。この手を陰の陽と呼び、小手返しの手である(画像)。
対側の手は腰仙部にまわって同じく陰の陽で結ぶ。胸は張ったままで腹を引き締めて腹式呼気相に相当する。
腰椎分離症や辷り症の整形外科的診療では、疼痛対策としての薬物治療に加え、患部の不具合が増悪しないよう安静と固定が必要である。また、疼痛の軽減した時期には周囲の筋力の増強による脊柱の安定と不良姿勢の改善が期待されるところであるが、合氣体操のなかの正座から上体を後ろに反らす運動は厳禁である。総じて前にかがむ運動が適している。前回り受け身は最適であるが、立ち上がるときに背中が僅かでも反らすことになるから注意を要する。
運動療法中の直立歩行では腹部の筋肉を収縮したまま、胸式呼吸に限ることが望ましい。稽古においても、もっぱら胸を開く思いで胸式吸気を行い、腰腹部は緊縮して固定を続けるのである。固め技を受けた後に俯せから起き上がるときは、健常者なら背中を多少反らす動作に気付くことも無いであろう。しかし、それがいちいち苦痛として自覚される場合は、脊柱管狭窄による症状が普段は軽減しているに過ぎない。
無理は禁物である。治癒と症状の改善はもちろん別物である。形は不自然でも、背中が反ることの無いように、例えば一旦側臥位になってからゆっくり起き上がるなどの工夫が必要であろう。しかもそのようなエピソードがあれば暫くは、その受けを避けるようにして、具合を確かめることである。取りの協力を得て、気持ちよく動けることの範囲を広げるに限ると言うことが結論である。
脊柱管内の圧力を高めないで運動をするには、背を反らさないことを思いつつ、腰腹部に呼吸時の変動を起こさないよう腹を固くして胸式呼吸にこだわるのが良い。
2017/9/9
上丹田、つまり額に結ぶ場合は、四方投げの振りかぶりや後両手取り天地の結びのときであり、魄氣は陰である。
これが頭頂に結ぶと吸気相となって胸を張り一層体軸は正立し、陽の魄氣となる。そこから発せられる手刀は横面打ちであり、魂氣は呼気相で陰の陽にて下丹田に結ぶと袈裟切りの動作に近似する。
片手取り外巡り相半身外入り身転換からの回転投げで、取らせた魂氣を上丹田から降氣で地から後方へ巡るとき、対側の手を頂丹田まで振りかぶって横面打ちから受けの側頸を包む動作の一部である。他には、受けの横面打ちに相半身内入り身転換で振込突きを払わせて、受けの手刀の近位部を外巡りで払い返して一歩入る逆半身外入り身転換を横面打ちで行う場合である。受けの同名側の側頸を包んで入り身投げ裏の技が生まれる。何れも陰の魂氣に巡っておいた手であるから、魄氣の動作に続いて自在に頭頂へ振りかぶることが出来る。
受けに取らせた魂氣の場合、上丹田に結ぶ例は、陰の陰で受けの手に結んで対側の手で取り返して上丹田に結ぶ四方投げや、受けの上段に与えて抑えに掛かる際、腕を畳んでから陰の陽で上丹田に結んで入り身転換する後ろ両手取りの天地の結びのときである。何れも魄氣は陰である。これが頂丹田へと行き過ぎると、たちまち陽の魄氣で胸が張って上体が伸び、受けの手を取り返した取り自身の魂氣や受けに取らせた天の魂氣が、後頂へと滑っていき、体軸に結んだ状態を維持できない。取りの魂氣と魄氣は合氣が解けてたちまち受けへと交代し、体軸が反って腰から落ちることとなる。
この後頂へ滑るのは、結ぶ位置を自覚することが欠けている場合だけではなく、多く見られるのは、目付けが地に向き体軸が前屈になるとき頭部が前下方にぶれて魂氣の下を上丹田が前方へ移動する場合である。
額に手を接する際、上丹田に結んだ魂氣が体軸に響き、下丹田を経て一側の軸足・腰に繋がるということを思い浮かべるなら、接点で手がぶれることなく体軸が確立されるであろう。転換も回転も、両者の魂氣が一つになって確たる軸足交代に与ることで初めて可能となる。
2017/9/15
魄氣(足腰)の動作である入り身は、陰の魄氣から軽く半歩足先を進めて陽の魄氣となって(ここまでは鳥船のホー、動画①)軸足を前に交代し、後方の元の軸足が緊張・伸展から地を離れると吸気相は終末となる。続く呼気相は継ぎ足によって一本の足となり一瞬の静止で残心とする。呼気相の終末は軸足と非軸足の確立が魄氣を陰の姿勢へと変える。
以上が入り身運動の魄氣の動作である。単独動作は勿論のこと、相対動作においても、この上に魂氣(手)の動作があり、それは陰の陰、振込突き、横面打ち(動画②)、下段受け流し、上段受け流し(一教運動裏)、一教運動表(動画③)である。
何が違うかと言えば魂氣の陰から陽、陽から陰への巡りであり、結びの位置である丹田の種類が異なるのである。
さらに、腋を閉じて下丹田に結ぶ陰の魂氣と、腋を限界まで開いて母指先が頂丹田に結ぶ振りかぶりは、同じ陰の魂氣であるが両極端である。
受けの上段に与えて魂の比礼振りで受けの手刀に陽の陽で真空の氣に結び、半歩進める入り身によって軸足交代して井桁に進むと魂氣は取り自身の上段に結び体軸の一部となる。正面打ち一教表の相対基本動作である(動画④)。
受けの上段に与えようとして後手を引けば陰の陽で取り自身の上段に結ばざるを得ず、同側の足腰は踵で剣線を外して軸足となるから自ずと魂氣は鎬を作る。軸足交代は即ちそこに魂氣と魄氣が結んで体軸を確立し、対側の非軸足とともに吸気で魂氣は陽と発して受けに結ぶと、呼気で取りに巡り丹田に結ぶ。
典型は正面打ち一教裏(動画⑤)であろう。単独動作入り身運動は一教運動裏と呼んでいるが、上段受け流し(動画⑥)に相当する。
2017/9/30
霊長類のなかでも人間だけに備わっている能力が直立二足歩行である。
であるからこそ、美しい。
一方を軸足とし、対側を非軸足に分けて互いに交代しつつ置き換えていくと歩行になり、あらゆる動作の基本となるのである。つまり、軸足が体軸を直立させて安定し、最大視野を確保して非軸足は自在に方向を定めて移動することができ、振り返ることも一回転も連続して行い、そして静止することが可能である。それに応じて両腕は最大限に働くことができる。
ただし、足腰のみならず同側の手も体軸の確立に預かるのが合氣である。即ち魂氣と魄氣が丹田に結び、軸足が体軸を地に繋いで直立することで万全の安定と運動性を兼ね備えることとなる。それを魂氣の陰として、対側の手は非軸足に合わせて空間へと伸展すれば、吸気に伴う陽の魂氣である。そこから呼気に移行すれば腕は体側(軀幹側面)や丹田に還り、魂氣は陰に巡って自身の体軸で結ぶことになる(動画)。
徒手では勿論のこと、剣・杖を使うときこそ、この原則は変わることがない。なぜなら、合氣道の基本となる動作であるからだ。つまり、鳥船と入り身・転換、剣・杖の基本動作に通底する合氣そのものなのである。
ところで、軸足側の手を振るい、何らかの働きを意図して動かそうとしても(受けに与えている場合もある)、たちまち体軸は不安定となり、魂氣は存分に陽で発して巡ることが出来ない。対側の足は非軸足とならず地を踏み続け、魄氣は陽で静止する。その間、対側の手は陽でも陰でもなく、垂れるだけに留まる。
そのような動作を見ていて〝なんか変〟というふうに映るのは、美しさの基本が損なわれているということであろう。合氣は、魄氣と魂氣による体軸の確立と同時に、対側の非軸足で入り身して対側の手が陽で発し、巡って結び、軸足交代で残心に至ると動静が現される。直立二足歩行に帰するのである。
開祖は教えている。心の持ち方で、空の氣を解脱して、真空の氣に結ぶ、と。前々から述べてきた通り、言葉と心の持ち方に動作が伴う三位一体を合氣と認識して稽古することが何よりも肝要である。即ち軸足を交代して同側の魂氣も体軸の確立に用い、新たな非軸足とともに同側の魂氣は丹田を経て陰から陽へと発するから腋を開いて指先までを伸展することが出来る(動画で交差取り呼吸法の最後の動作では交代した軸足の確立からさらに交代する踏み替えが不十分なうちに魂氣を陽で発しようとしている)。軸足が確立すれば体軸は直立して目付けは最大限に保たれ、最早受けの姿が僅かでも視野を遮ることは無い。解脱とは、確実な軸足交代によって非軸足とその同側の魂氣が自在に動作できるように体軸が魄氣に結んで安定することである。
2017/10/6