稽古の場では〝筆につくす〟ことはできない。
とは言え、説明ずくめでは稽古にならない。
〝言ぶれせずに悟り行へ〟と開祖は道歌で明言された。
この場合の〝悟り〟は開祖の言葉と思いと動作を三位一体で皆が共有して、と解釈するべきだろう。
基本動作や技の名称や分類は吉祥丸二代道主が整えられたという。
合気道の言葉と思いと動作は開祖から二代、三代道主へ、そして直弟子の師範を通して脈々と継承されている。 2025/1/1
吉祥丸道主の『合氣道』(光和堂)は、〝合気道に対する混乱した概念を改めるよう〟〝極く初心者向きに合気道の何たるかを書いた〟著作である。〝とにかく合気道として世に問うたものは最初のもの〟である、と昭和32年7月に前書きとして記されている。
基本動作
そこでは基本動作と基本技法に分けて解説されており、基本動作として、例えば合気道独特の「捌き」「気の流れ」「力の使い方」などを挙げている。
「捌き」には手、足、体の捌きがあり、〝中心の移動により自己の体を捌き、相手を捌いていく〟つまり、〝中心を持って円転滑脱に体を動かしていくこと〟である。
「気の流れ」とは〝機に応じて〟〝自然に無意識に出てこなくてはならぬ〟〝相手の動きを正しく察知することができる〟〝直覚力〟とされている。合気道の練習においては、前述の捌きとともに重要な一面を担っている、と明言される(p93)。
「力の使い方」では、〝自然に、敏活であってしかも素直に、あたかもなだらかな螺旋状円運動のごとき〟〝正しい力の入れ方を理解しなければ〟ならない、と。
呼吸法と禊
次に基本技法として、転換法、基本投げ技、基本固め技、呼吸法の四大部類に分けられた。呼吸法とは、呼吸力養成法であり、気の力のことを呼吸力と呼んでいる。また、呼吸とは、生理的な呼吸にとどまらず〝からだ全体で、天地とともに呼吸することを意味する〟と。そのような呼吸が気力を〝臨機応変たくまずして自然に出し得る〟と説かれている。そして〝自然力の充分なる集中発揮が可能となる〟方法を呼吸法と呼んでいる(p152)。
〝天地とともに呼吸する〟とは、天の浮橋に立ち(道場に立ち)天地の気に気結びする、と開祖の教えにある、稽古のはじめに行う禊の所作であろう。天から心のたましい魂の気を吸気で掌に受け、地からは肉体のたましい魄の気を足底から腰に受ける。それらは拍手とともに呼気によって下丹田で一つになり、肚ができると思うことにする。開祖は〝立ったならば自分が統一していなければなりません。空気を媒介として統一になるのです。呼吸(いき)です〟(『合気神髄』p101)と言われる。
鳥船の足腰
呼吸力を発揮する動作に移ると、まず開祖の鳥船の行である。魂気の珠を包んだ両手が下丹田の両脇に置かれ、右足を軸として直立する体軸を作って〝吾勝〟、左足は非軸足で軽く半歩出して〝正勝〟と呼ぶ(同p69〜70)。
魂気を包んだ手は母指先で地を指したまま吸気に合わせて前方へ振り出され、同時に軸足を伸展して非軸足は踏みつめ、下腿が直立する。体軸を失って体幹軸が直立し、両足の間に移動する。この姿勢を魄気の陽と呼ぶことにする。
吸気相の終末では静止することなく、つまり息を止めることなく、母指を除く弛緩屈曲した指が下丹田を指して呼気相で巡る。同時に体幹軸も同期して元に戻っていくが、足捌きとしては一旦伸展した足が弛緩屈曲して軸足に戻ることとなる。そこで体軸を再び確立して吾勝となるには、下丹田に巡った魂気が魄気と結ばなければならない。その体捌きは魄気の陰ということになる。陽でホーと振り込み突き、陰でイェイと下丹田に結ぶ。
鳥船の手に魂の比礼振りが起こる仕組み
小林裕和師範の鳥船では非軸足側の手はイェイで下丹田に巡るやいなや側腹をすり抜けて軸足の後方へ弛緩して振れる。対側の手もそれに同期して下丹田で魂気を体軸に預けると同時に後方へ自然に振り下ろされる。そこから吸気で前方に魂気を両手で振り込むと、軸足はそれに合わせて伸展され、体捌きと足捌きは魄気の陽となる。つまり、魄気の陰で魂気と魄気の結びにより体軸が確立するのであるが、転換や回転の軸にならなければ必ずしも魂気が丹田・体幹軸に密着し続ける必要はないということだ。
魂気を包んだ両手が下丹田に触れた瞬間すべてを軸足に響かせて体軸とともに地に結んで〝土台となる〟(同p105)。後ろに振れた両手は魄気・体軸から解脱して、〝魂の比礼振り〟(同p108)に喩えられた手であろう。吸気に移行すると魂気を掌に包みながら前方に振り込み突き近似で発するが、母指先は地を指したままであって魂気を空気中に放つことはない。
これも開祖の〝心の持ちよう〟(同p67)であり、動作の成立を裏打ちするのみならず核心を成す思いであると言って良いだろう。
単独動作の振りかぶり呼吸法と鳥船
立ち技相対動作の両手取り振りかぶり呼吸法と鳥船は思いと動作が通底するに違いない。魄気の陽で両手刀を差し出し、受けが第一指間で前腕橈側(手刀の峰)を上から押さえ込もうとする。呼気で足捌きと体捌きによって魄気の陰・正勝吾勝とし、両肘頭が下丹田の脇に軽く触れて弾むと同時に両手の回内と母指の反りによる橈屈と背屈で母指先が中丹田から人中を指す。この瞬間、前腕に受ける魄力がすべて項から背、腰仙部を経て軸足の魄気に結んで一体になった、と思うことにする。そのとき尺側前腕から小指球では〝身の軽さを得る〟(同p105)、つまり魂の比礼振りが起こって、掌に天から受ける魂気がそのまま発せられる手刀の刃が生まれる。
手刀の峰には下丹田から母指先を通って背側の体軸に流れる魄気、刃には天から掌に受けた魂気がそのまま小指球を通って刃先から〝蕩々と流れる水の如く断続のない、調子の整った、生き生きした〟(『合氣道』p152)魂気の力が発せられる。単独動作では、はじめ前腕に受けるのは空の気である。
行いは言葉と思いと動作の三位一体であり、思いの裏打ち無き動作、あるいは動作の伴わない思いは行いとはなり得ないことを肝に命ずるべきである。
振りかぶり呼吸法と剣素振り
以上の動作で剣を用いれば、入り身一足・勝速日で突いて、呼気相の陰の魄気で体軸を吾勝に戻すと同時に手の魂気は肘頭を通して下丹田に巡り、腋が閉じて体軸の魄気と結ぶことで肘頭は体軸から解脱する。正勝である。まさに鳥船と近似するところである。
そこでは手首が軽く回内・橈屈、背屈で身の軽さを得て母指先の反りに合わせて発露する魂気は上丹田に向かい上段に振りかぶる体勢に他ならない。非軸足先と剣先は体軸から解かれて呼気の終末でありながら、魂気の兆が正勝で天を指している。
吸気で母指・示指先に同期して第一指間を通して剣先から前方へ一気に魂気を発し、同時に非軸足先はさらに半歩進めると正面打ち素振りであり、吾勝・正勝つまり魄気の陰を維持する。小林裕和師範の剣振りかぶり面打ち素振りは非軸足を踏み詰めることがない。
さらに、面打ちの素振りから魄気の陽に進めて入り身一足では勝速日となり、初めて合気の剣の残心に繋がる。
まとめ
下丹田での魄気との結びを瞬時に解脱して〝魂気すなわち手〟(『合気神髄』p181)の母指先が、地を指したまま軸足後方に垂れる鳥船と、人中を指して体軸の背面に結んで吾勝に、小指球が正勝で前上方に発せられる振りかぶり呼吸法の近似性をまず認識すべきであろう。
振りかぶり剣素振りと入り身一足の面打ち残心は片手取りや諸手取り呼吸法の原型であり、それゆえに原型たる剣操法でなければ意味が無い。
さて、呼吸法には、剣を上丹田に巡らせて切り返し面打ちとする術技に由来する動作もある。軸足側の手で巡る切り返しは振りかぶりと大きく異なる動作である。それについては稿を改めて論じることとしたい。 2025/1/25
『合気神髄』p105〜106より
〝五体の左は武の基礎となり、右は宇宙の受ける気結びの現れる土台となる。左、右の気結びがはじめ成就すれば、後は自由自在に出来るようになる〟
〝すべて左を武の土台根底とし、自在の境地に入れば、神変なる身の軽さを得る。右は左によって主力を生みだされる。また左が盾となって、右の技のなす土台となる。これは自然の法則である〟
〝左はすべて、無量無限の気を生みだすことができる。右は受ける気結びの作用であるからすべて気を握ることができる。すなわち、魂の比礼振りが起これば、左手ですべての活殺を握り、右手で止めをさすことができるのである〟
〝土台〟を「体軸」、〝左、右の気結び〟を「転換の繰り返し、体軸を交代」に置き換える。
〝すべて気を握る〟〝すべての活殺を握り〟を「魂気と魄気の結びで体軸を作る」に置き換える。
〝魂の比礼振り〟は「体軸を解脱した非軸足側の手」に置き換える。
「左の手足は武技に与り、右は天地に結び体軸を成す。左は受けの魂気と結び、右は自身の魂気と魄気の結びで体軸を作る(p70より、左は正勝、右は吾勝)。左と右で体軸を交代すると、後は連続して体の捌きができるようになる。
左の手足で受けと結んで体軸を確立すれば、右の手足は体軸を解脱した非軸足側の手となり、身の軽さを得て受けの体に魂気を響かせ、自身の体に巡って魄気と結び、自身の体軸を確立することができる(p70より、勝速日の基 左右一つに業の実を生み出します)。」 稽古の記録に再掲
2025/2/25
はじめに
合気道に出会った時から何年経っても習熟した達成感をもてず、術理に合点がいかなかったのは徒手技の正面打ち一教である。
初動は受けが手刀で面を打ちかかる。技の完成形は、取りが受けの手刀前腕の掌側を上にして同名側の掌でそれを把持し、対側の手で受けの上腕の遠位側を掴み取って、受けをうつ伏せにして伸展させた上肢全体を地に密着して固める。その過程に術理と術技が形を現しているわけであるが、合気道生には今でも基本中の基本の技と教えられており、一方で最も難しいとされているのではないかと思う。
特定の状況での形はなんとか理解できるものの、裏付けとなる普遍的な術理を教わる機会は長らく訪れることがなかった。そのうちに初めての体験者に指導する立場となり、術技の名称と動作の形を伝えていくだけでは済まなくなっていく。
徒手技の習熟に応じて組み太刀や太刀取りへと展開していく稽古法の場合、手刀が短刀や太刀に代わってそのまま術技が成り立つ訳でもない。技の発展経過から見れば相互に連関しあうものであったと見るべきであろう。つまり、武器技から徒手技への工夫こそ、一教の術理の発見なのである。
多くの先達によって直接教示されたことや、一方でどうしても見とることのできない迅速な捌きへの自分なりの解釈などを積み重ね、直感力や体力の衰えに抗いながら、長い間それこそ試行錯誤を続けている。いわゆる「守破離」の「守」を追求することで精一杯の合気道人生であったと言えよう。
開祖の合気道とは
合気道開祖・植芝盛平語録『合気神髄』より、〝合気は禊である〟〝合気は禊から始める〟と。〝天地の気〟魂気と魄気を丹田に結んで地に直立する体軸を作り、対側の手・魂氣に同期して非軸足・魄気を自在に動作しては体軸交代を連ねる。合気道の単独・相対動作における気結びと体捌きである。前者は「呼吸法」(『合氣道』植芝吉祥丸著)、後者は〝入り身転換法〟と呼ばれている。
相手と気結びを成し、その迫力を相手に戻して互いが釣り合う一瞬から相手をその場で、または再び手、足、体の捌きとともに導きながら、技を生み出していくところが合気道の奥義であろう。すなわち、相手の迫力を相対的に無とする動作が気結びと呼ばれ、合気道の様々な動きや技の原点となるのである。相手と一体となる、と表現されることも多い。
気結びの前に力の衝突や拮抗が起こり、それによる互いの停止が一瞬たりとも生じることは、一体となることの対極にあるのだ。開祖の言葉からは「脱力」や「力を抜く」という語句は見出せない。植芝守央道主著『合気道 稽古とこころ』においては「力の抜けた」状態と教示されている。
少し長くなるが以下に開祖の言葉を引用する。〝「気の妙用」に結ぶと、五体の左は武の基礎となり、右は宇宙の受ける気結びの現れる土台となる。この左、右の気結びがはじめ成就すれば、後は自由自在に出来るようになる〟〝すべて左を武の土台根底とし、自在の境地に入れば、神変なる身の軽さを得る。右は左によって主力を生みだされる。また左が盾となって、右の技のなす土台となる。これは自然の法則である〟〝左はすべて、無量無限の気を生みだすことができる。右は受ける気結びの作用であるからすべて気を握ることができる。すなわち、魂の比礼振りが起これば、左手ですべての活殺を握り、右手で止めをさすことができるのである〟(p105〜106)
〝土台〟とは軸足・魄気と同側の手・魂気が結んで生まれる体軸を意味して〝吾勝〟と呼び、対側は魄気から〝解脱〟した非軸足と同側の〝手・魂気〟であり、〝神変なる身の軽さを得る〟と同時に〝無量無限の気を生みだすことができる〟。それは〝魂の比礼振り〟に喩えられ、〝正勝〟と呼ばれる。左右を交代させる手足の捌きが〝心の持ちよう〟で自由自在に連続して体捌きが成される。継ぎ足と魂気の巡りによって五体が一本の〝御柱〟になるとき、まさに合気の技が生まれる。これを〝勝速日〟という。正勝吾勝勝速日という古事記による神名に喩えられたこの術理こそは禊と合気道の術技を繋ぐものであろう。それは次のように明言しているからだ。〝正勝、吾勝、勝速日とは武産合気ということであります〟(p65)。
合気道の正面打ちについて
正面打ちに対する技の起こりは受けが手刀を振りかぶる動作を目視する瞬間である。半身の場合は正勝吾勝で静止しているのが合気道の体勢であって、受けが振りかぶる瞬間、取りが同名側の足を踏み詰めると同側の手は魂氣を発することができない。その場で体軸とならざるを得ないからだ。それでも受けの手刀に合わせて互いの中間点で対称的に手首が競り合ったとき、対側の後方にある軸足はすでに緊張伸展して体幹軸との体軸形成を失っている。また、前方の手足は体軸になりきれず、地から足、腰、体幹を通して手に魄気の働きを及ぼし、接点で受けに拮抗して静止するか抑え勝つしか方法はない。この体勢は鳥船の陽の魄気であり、静止すべき形ではない。
合気道では〝どんな機会をこしらえても、自己の気の動きでこしらえることが大切である〟(p18)。〝気が巡るのです〟〝魂の気で結ぶのです〟(p29)。〝魂の気で、自己の体を自在に使わなければならない〟(p18)。〝魄の世界を魂の比礼振りに直すことである〟(p149)。〝自己の肉体は、物だから魄である。それはだめだ。魄力はいきづまるからである〟(p18)。
正面打ち一教表の術理
相半身で受けの振りかぶりの瞬間に正勝で非軸足を進めて同時に魂氣を同側の掌に包んだまま母指先から陰の陽(掌屈)で発し、受けの手刀には尺側ではなく橈側で接する。小林裕和師範の教えである。その瞬間手根を伸展・背屈して母指以下緊張伸展で掌を開くと、接点は取りの手首伸側によって線を描いて受けの橈側に向かい、接触面ができて受けの手刀の峰を超え、取りの手掌は天に開いて受けの手刀と体幹との間にある空間へと入る。つまり、取りの母指先から気の流れを思い、緊張伸展した取りの手掌は指先が揃って受けの眼裂を横切りにする動作へと進む。引土道雄師範の教えである。これを気結びと呼ぶことにする。小林裕和師範は「真中を撃て」と。
そこでは受けの体幹軸に取りの魂気と同側の非軸足が接近し、元の軸足は伸展して体軸を失い、いわゆる陽の魄気が生まれる瞬間であるが、その後方の足を同側の手と共に引き寄せると五体が一本の軸・〝御柱〟となる。前述した〝勝速日〟である。受けの体幹軸には取りの体軸が接して一体となり、互いの魄気が気結びしていると思うことにする。ここに互いの競り合いは消えて取りの体捌きが自在に行われる。
後方の手の引き寄せは魂気を包んだまま母指先を振り込み、受けの手刀側の側胸から腋を突く。このとき受けの体幹に接する寸前に掌を開き、矢筈に開いた第一指間を受けの上腕近位伸側に嵌めて陽の陰で包みこむと同時に同側の足は非軸足に交代してそのまま前方に進め、足先は受けの体幹軸に向かって踏み詰める。同時に同側の手は陰の陽に巡って腋が閉じると上肢全体が自身の体幹に巡り、対側の手は掌を返して受けの手刀の手首屈側を取り返し、後方に流して同側の足は吾勝で軸足とする。対側は受けの前三角に進んでいるが魄気の陽から即陰として鳥船近似の体捌きとするから同側の手と共に受けの上腕は下丹田に巡る。受けの対側の手は地に着いて体幹を支える。一教表が成立する。
そこで正勝の非軸足はすぐに膝を着いて下丹田の手は魄気に結んで体軸を成し、受けの上腕に連なる体幹軸は地に結ぶこととなる。対側も膝を着いて正座すると受けは上腕屈側と前腕伸側を地に着けてうつ伏せとなり、それぞれが取りの両手から体重を受けて一教表の固めが成り立つ。
おわりに
尺骨より橈骨が太い。手根と尺骨には関節がない。橈骨は手根と母指に関節で繋がる。
掌を開けば母指先は橈側に反る。真中を撃って魂気の珠を真空の気に戻せば母指先に導かれて魂気すなわち手は円を描いて体側に巡り、丹田に結ぶ。 2025/4/25